今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -60ページ目

今日という日【12月13日】

■南京攻略戦終結

1937年12月13日。

南京攻略戦」は、日中戦争における戦闘の一つ。日本軍は、中華民国の首都南京を陥落させた。中国側の呼称は南京保衛戰、南京保卫战。略称として南京戦 (なんきんせん)とも。

現在、一部では南京陥落後に日本軍は多数の民間人や捕虜を不法に殺害したともいわれている(南京事件)。なお、当時の上海軍は、南京防御線攻撃より南京城完全攻略にいたる間、我が方戦死八百、戦傷四千、 敵方遺棄死体八万四千、捕虜一万五百、鹵獲品小銃十二万九百・・・であったと発表している。

日中戦争中の新聞報道には、日本人カメラマンが自身も巻き込まれた接近戦で日本兵が中国兵を斬り倒す写真が掲載されているものもあるが、南京で行われた日本兵による中国人の殺害現場については報道関係者は恐怖感から撮影を行えない場合も多かった。この時期には「新聞掲載事項許否判定要領」(1937年9月9日、陸軍省報道検閲係制定)に基づく陸軍の検閲制度が存在し、その検閲をパスしなければ報道、上映ができなかった。具体的には以下のものが「掲載を許可せず」となっていた。「四 左に列記するものは掲載を許可せず (12)我軍に不利なる記事写真 (13)支那兵または支那人逮捕尋問等の記事写真中、虐待の感を与える虞(おそれ)あるもの(14)惨虐なる写真、ただし支那兵または支那人の惨虐性に関する記事は差し支えなし 五 映画は本要領に準じ検閲するものとす」だが現場では、日本人・中国人の区別なく死体は不許可であるとの認識しかなかったという証言もあり、また、南京陥落の報道が早くなされて実際の陥落前に国内で祝賀行事が行われたことから、実際の検閲が甘かったとする意見もある。

今日という日【12月12日】

■パネー号事件

1937年12月12日。

パネー号事件パナイ号事件)」は、揚子江上において、日本海軍機が米国アジア艦隊揚子江警備船「パナイ号」を爆沈し、乗務員に対し機銃掃射を行った事件。

日本軍による南京攻撃にあたり、パナイ号は脱出する外国人を乗せて戦火を避けて揚子江を航行していたときに攻撃を受けた。同船に搭乗していたのは米将校5人、兵士54人、米大使館員5人、民間人10人で、日本軍機による攻撃の結果、死者が3人、重傷者は48人となった。また、同船に先導案内されていた米国スタンダード・バキューム・オイル社のメイピン(美平)号、メイシア(美峡)号、メイアン(美安)号にも同様の危害を加えた。さらに、中国人の取調べなどを行っていた日本陸軍の部隊も、再度飛来した日本海軍機の爆撃や機銃射撃に巻き込まれ、日本人にも死者2人、負傷者3人が出た。また、大本営海軍部の公表では、米国国旗を認識できず、中国船と誤認して爆撃したことになっているが、航空母艦加賀の一将校によって故意に計画されたものだと、アメリカは認識していた。

日本側の攻撃を故意と解釈した報道もあり、さらに12月30日にはパナイ号に便乗していたプロニュースカメラマン、「ノーマン・アレー」の撮影したニュース映画が公開され、英米国民の対日感情を悪化させた。すでに対日開戦を準備していたルーズベルトはこの事件に激怒していたが、隔離演説で予想を上回る反発が世論に起きたのを反省していたこともあり、また日本側が早急に謝罪と賠償請求を受けたため、挑発的な言辞を使用することも報復的な対策をとることもなく、開戦にはいたらなかった。またアメリカの新聞の論調には、直接介入を主張するものは少なく、その多くは対日強硬策を支持するものの、論説は非常に穏やかなものであった。反対に、孤立主義の立場から、アメリカ勢力の完全撤退論を主張するものもあった。なお1938年1月のギャラップ調査によると、約70%のアメリカ人が中国からの完全撤退を望み、孤立主義的態度を示した。

今日という日【12月11日】

■島原の乱勃発

1637年12月11日。

島原の乱(しまばらのらん)」は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最も大規模な一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦。「島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)」、「島原・天草の乱」とも呼ばれる。宗教戦争と見なすのが一般的だが、それはこの反乱の一面しか捉えていない。現実には百姓一揆、浪人一揆、宗教一揆が複雑に絡み合った内乱であった。

島原の乱」は、「松倉 勝家」が領する島原藩のある肥前島原半島と、「寺沢 堅高」が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、これに藩によるキリシタン(カトリック信徒)の迫害、更に飢饉の被害まで加わり、両藩に対して起こした反乱。ここでの「百姓」とは百姓身分のことであり、貧窮零細農民だけではなく隷属民を擁した農業、漁業、手工業、商業など諸産業の大規模経営者をも包括して指している。
過酷な取立てに耐えかねた島原の領民は、武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化、密かに反乱計画を立てていた。肥後天草でも「小西 行長」「佐々 成政」「加藤 忠広」の改易により大量に発生していた浪人を中心にして一揆が組織されていた。島原・天草の一揆の首謀者たちは湯島(談合島)において会談を行い、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年「天草 四郎(本名:益田四郎時貞、天草は旧来天草の領主だった豪族の名)」を一揆軍の総大将とし決起することを決めた。有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官林兵左衛門を殺害し、「島原の乱」が勃発する。