今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -5ページ目

今日という日【5月23日】

■史上最高齢登頂

2013年5月23日。

プロスキーヤーで登山家の「三浦 雄一郎」が世界最高峰「エベレスト」に史上最高齢(80歳7ヶ月)で登頂に成功した。

三浦 雄一郎」は、青森県青森市生まれのプロスキーヤー及び登山家。クラーク記念国際高等学校校長、全国森林レクリエーション協会会長。
父の「三浦 敬三」も山岳スキーヤーで、長男の「三浦 雄大」は競技スキーヤー、二男の「三浦 豪太」はリレハンメルオリンピック・長野オリンピックに出場したフリースタイルスキー・モーグル選手。
幼少期は病弱で劣等生、幼稚園は中退、小学校4年生から5年生時には結核で肋膜炎を患い長期入院のため1年の半分ほどは学校に通えなかったほどだったという。
1970年5月にはエベレストのサウスコル8,000m地点からの滑降(ギネスブックに掲載)を成功させ、その映像が「The Man Who Skied Down Everest(エベレストを滑った男)」というタイトルでドキュメンタリー映画化され、アカデミー賞記録映画部門で賞を獲得した。最終的に、54歳で南アメリカ大陸最高峰アコンカグアからの滑降を成功させたことにより、世界七大陸最高峰全峰からの滑降を成功。しかしその後目標を失い、不摂生な生活を送った挙句、身長164cmに対し体重85kg超、血圧は200近くまで上がり、不整脈まで出る不健康な状態となってしまう。
しかし、99歳にしてなおモンブラン氷河の滑降という挑戦を続ける実父や、オリンピックに出場した次男の豪太らを見て改心、65歳の時に、5年後の70歳でエベレスト登頂を果たすという目標を立て、外出時には常に両足に重りを付け20kg近いリュックを常に背負うというトレーニングを再開、当初は藻岩山登山ですら息切れするという体たらくだった体力を回復させ、2003年5月22日、世界最高峰のエベレストに世界最高齢となる70歳7ヶ月での登頂を果たす。同時に次男・豪太との日本人初の親子同時登頂も遂げた。

2013年5月23日、3度目のエベレスト登頂に成功。エベレスト登頂の歴史で最高齢登頂者となった。

今日という日【5月22日】

■第一次吉田茂内閣が発足

1946年5月22日。

第一次吉田内閣」は、外務大臣・貴族院議員の「吉田 茂」が第45代内閣総理大臣に任命され、1946年(昭和21年)5月22日から1947年(昭和22年)5月24日まで続いた日本の内閣。

旧憲法下で天皇から組閣の大命を受けて発足した最後の内閣。1946年(昭和21年)4月10日に行われた戦後初の総選挙で日本自由党が比較第一党となると、幣原内閣は総辞職することになり、「幣原 喜重郎」は30日に参内して自由党総裁の「鳩山 一郎」を後継首班に奏請、鳩山はただちに組閣体制に入った。しかし5月4日になって突然GHQから政府に鳩山を公職追放する旨の指令が送付されると状況が一変。鳩山は元政友会の重鎮で鳩山と個人的に親しかった「古島 一雄」を訪ねて後継総裁を依頼するが古島は高齢を理由にこれを固辞。そこで駐米大使や駐英大使を歴任し今は宮内大臣として宮中にあった「松平 恒雄」に白羽の矢を立て、過去にも外務省OBに総理を引き受けさせるに当たり、数々の説得に実績のあった「吉田 茂」に説得を依頼した。

松平が吉田に総裁を引き受ける意思があることを伝えると、数日後鳩山はその松平と直接会ったがまったく折があわず、鳩山はその足で外相公邸吉田に訪ねて「あの殿様じゃ党内が収まらないから君にやってもらいたい」と総裁後継を持ちかけた。しかし吉田は驚き「俺につとまるわけがないし、もっと反対が出るだろう」とやはり相手にしなかった。しかし総選挙からすでに1ヶ月が経っており、いつまでも総裁選びでゴタゴタしていたらGHQが自由党の政権担当能力に疑問を持ち始める不安があったため、元政友会幹事長の「松野 鶴平」は毎晩のように吉田のもとに押し掛けて後継総裁を引き受けるよう吉田を説得した結果、吉田は結局折れて「1.金作りは一切やらない 2.閣僚の選考に一切の口出しは無用 3.辞めたくなったらいつでも辞める」という勝手な3条件を書にしたため鳩山に手渡すと、「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と言って総裁就任を受諾した。
5月16日、幣原の奏請を受けて吉田は宮中に参内、昭和天皇から組閣の大命を拝した。吉田は自由党の幹部には何の連絡もせずに組閣本部を立ち上げほぼ独力で閣僚を選考、22日に再度参内して閣僚名簿を奉呈、幣原の日本進歩党との連立による第一次吉田内閣が発足した。

日本国憲法の施行、第二次農地改革などの重要課題を遂行するが、食料状況の深刻化、労働攻勢の激化により厳しい政権運営を迫られた。新憲法下で初となる1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院総選挙で与党は善戦したが、日本社会党が比較第一党となったため、自由・進歩両党は連立を組み直してまで政権にすがるよりは下野する道を選び、ここに内閣は総辞職した。

今日という日【5月21日】

■津山事件

1938年5月21日。

津山事件」は、1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現:津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両集落で発生した大量殺人事件。犯人の姓名を取って「都井睦雄(とい むつお)事件」ともいう。
2時間足らずで30人(自殺した犯人を含めると31人)が死亡し、3人が重軽傷を負うという、犠牲者数がオウム真理教事件(27人)をも上回る日本の犯罪史上前代未聞の殺戮事件。

1938年5月20日午後5時頃、都井は電柱によじ登り送電線を切断、貝尾集落のみを全面的に停電させる。しかし村人たちは停電を特に不審に思わず、これについて電気の管理会社への通報や、原因の特定などを試みることはなかった。
翌5月21日1時40分頃、都井は行動を開始。詰襟の学生服に軍用のゲートルと地下足袋を身に着け、頭にははちまきを締め、小型懐中電灯を両側に1本ずつ結わえ付けた。首からは自転車用のナショナルランプを提げ、腰には日本刀一振りと匕首を二振り、手には改造した9連発ブローニング猟銃を持った。

都井は最初に、自宅で就寝中の祖母の首を斧ではねて即死させた。その後、近隣の住人を約1時間半のうちに、次々と改造猟銃と日本刀で殺害していった。
被害者たちの証言によると、この一連の凶行は極めて計画的かつ冷静に行われたとされている。「頼むけん、こらえてつかあさい」と足元にひざまづいて命乞いをする老婆に都井は「お前んとこにはもともと恨みも持っとらんじゃったが、(都井が恨みを持っている家から)嫁をもろうたから殺さにゃいけんようになった」と言って猟銃を発砲(老婆は致命傷を負い、後に死亡)。しかしある宅の老人は、返り血を浴びた都井に猟銃を突きつけられたが、逃げることもせず茫然と座っていたところ、「お前はわしの悪口を言わんじゃったから、堪えてやるけんの」と言われて見逃されたという。またある宅でも、その家の主人が「決して動かんから助けてくれ」と必死に哀願したところ都井は「それほどまでに命が惜しいんか。よし、助けてやるけん」と言い残しその場を立ち去っている。
都井の凶行はさらに続き、最終的に事件の被害者は死者30人(即死28人、重傷のち死亡2人)、重軽傷3人にのぼった。死者のうち5人が16歳未満。計11軒の家が押し入られ、そのうち3軒が一家全員が殺害され、4軒の家が生存者1人のみとなった。押し入られた家の生存者たちは、激しい銃声と都井の怒鳴り声を聞き、すぐに身を隠すなどして助かった。

そして約一時間半に及ぶ犯行後、都井は遺書用の鉛筆と紙を借りるため、隣の集落の一軒家を訪れた。家人は都井の異様な風体に驚いて動けない状態だったが、その家の子どもが以前から都井の話を聞きに来ていた縁から顔見知りであったため、その子どもに頼み鉛筆と紙を譲り受けた。都井は去り際にこの子どもへ「うんと勉強して偉くなれよ」と声をかけている。その後、3.5km離れた仙の城と呼ばれていた荒坂峠の山頂にて、追加の遺書を書いた後、猟銃で自殺した。