今日という日【8月18日】
■高校野球記念日
1915年8月18日。
「高校野球」の前身である「第1回全国中等学校優勝野球大会」の開会式が大阪の豊中球場で行われたことに由来。
「第1回全国中等学校優勝野球大会」の出場校は、東北:秋田中(秋田県)、関東:早稲田実(当時:東京府)、東海:三重四中(三重県)、京津:京都二中(京都府)、兵庫:神戸二中(兵庫県)、関西:和歌山中(和歌山県)、山陰:鳥取中(鳥取県)、山陽:広島一中(広島県)、四国:高松中(香川県)、九州:久留米商(福岡県)の10校だった。
始球式は、第1試合前の両チームの整列、礼のあと、朝日新聞社の村山隆平社長が、羽織袴の和礼装でマウンドに立ち、第1球を投じた。
決勝は、京都二中と秋田中で行われ、見事な投手戦の末延長に入り、延長13回裏、秋田中の3失策により京都二中がサヨナラ勝ちで初優勝をおさめた。
この大会が後の「全国高等学校野球選手権大会」となり、今年2011年で93回大会となった。大会の通称は、「夏の(高校野球)大会」、「夏の甲子園」、「高校野球」、「夏の選手権」または単に「甲子園」。
最多優勝は「中京大中京高校」で7回、昨年2010年は、「興南高校」で沖縄県勢にとって夏の甲子園初優勝であった。史上6校目になる春夏連覇も達成している。
restart
『再起動』
ども!TK89です。
約1週間のお休みから明けた朝。シャワーを浴びてスーツを着る。頭はもちろんボーっとしてる。スーツを着ればもう少しシャキッとするかなと思いきや、対して変わらず。
自宅のマンションを出るとモヤッと。太陽と湿度にクラっと。クールビズとは言え、半袖のシャツは着たくないから、長袖のカッターシャツとハーフパンツではないスラックス。地下鉄内では汗が背中をつたう。
通勤時間は18分。案外街に住んでる私。職場の最寄り駅を降りダラダラ歩く。おはよーございますと自分のデスクに着く。座った瞬間汗だく。
そして朝一にMTG。なかなか頭を切り替えられない症状。それは他の方もそのようだった。パチパチとパソコンのキーボードを叩きながら午前中はデスクワーク。
喫煙所にてマネージャーがボソッと一言。「今日アポあんの?」「ないッスねぇ」「今日やる気出る?」「無理」「遊びに行かへん?」「はい」
マネージャーと自分と後輩と3人でランチを摂り、ボーリング場へ。ランチの最中に男同士で遊ぶ時って何するって話になって、何故かビリヤードをすることに。
久々のビリヤード。高校生、大学生とちょっとハマってた遊び。高校生の時は学校を抜けだしては、よくビリヤードやら、カラオケやらして遊んでたなって懐かしかった。大学生の時もゲーム代を賭けて遊んでたから、少し腕には自信があった。小1時間ほど我が腕を見せつけ、やっぱり携帯は鳴る訳で、それぞれの仕事へ。
重い腰を上げ、外での仕事を終え、帰社。新たなデスクワークをこなし、お疲れさまでしたと20時。
俺のやる気スイッチはどこにある?
チャオ!
今日という日【8月17日】
■藤田航空八丈富士墜落事故
1963年8月17日。
この年は航空事故が多発していたが、「藤田航空八丈富士墜落事故」が最悪の犠牲者数となった。
事故当日、八丈島は濃霧に覆われ視界が悪かった。午後2時24分、操縦乗員2人、客室乗務員1人、旅行会の主催者(当時62歳)ら乗客16人、計19人を載せた1番機が離陸、続いて2番機、3番機が離陸したが、後続2機が羽田に到着し予定の午後3時39分を過ぎても1番機が到着せず、3時間分の搭載燃料が枯渇する午後4時半、遭難が確実となり大規模な捜索が始まった。
ガソリン油膜が付近海域に漂流していたため、1番機は予定されていた航路下の海域で遭難と考え、海上保安庁巡視艇、藤田航空同僚機、全日空のビーチクラフト、航空自衛隊、在日米軍機が捜索をしたが、一向に発見できなかった。19日になり警視庁は八丈島の山地を捜索したが打ち切った。
20日午前8時55分、藤田航空同僚機で事故当日2番機機長だったパイロットが、空港から10km離れた八丈富士8合目の雑木林に激突していた機体を発見。警察官や消防団などが墜落現場に駆けつけたが生存者はなく、事故機は尾翼を残し焼け落ちていた。
八丈島空港の通常出発方法では南西方向へ離陸し左旋回するはずが、1番機は右旋回したことを2番機の機長が証言。また事故機の機長はベテランパイロットで、操縦ミスが事故原因とは考えにくかった。
そのため当初、事故機の右旋回は機長がショートカットして早く羽田に向かおうとしていたからではないかと考えられていたが、実際にはエンジンが不調を起こし、空港に戻ろうとしたことが主因と見られるものの、事故原因は確定しなかった。また捜索に関し、事故当日に山で炭焼きをしていた人から「衝撃音があった」という通報情報が捜索本部に伝わっていなかった点、捜索した航空会社、海上保安庁、航空自衛隊などの連携がなかった点、空港周辺を捜索しなかった点が批判された。
