今日は何の日?【トリビアン】で雑学王 -368ページ目

土日休み

『休日』


ども!TK89です。

連休から3日間、仕事に復帰しまたお休み。体と頭がついてかない。昨日は朝から大雨が降り若干気温が下がったが、暑かった。

そして今日、気温もグッと下がった朝。もう夏は終わってしまうのかぁなんてセンチな気分。

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我が家のベランダからの景色。空もどんより暗い。今日の最高気温は28℃だそうな。涼しいのは良いけど、まだ暑くても良いかな。


さて、今日はどんな日にしようか。

チャオ!

今日という日【8月20日】

■チャイナエアライン120便炎上事故


2007年8月20日。


中華民国(台湾)、台北発那覇行きのチャイナエアライン120便が、目的地の那覇空港到着直後にエンジンから出火し爆発、炎上するという航空事故が発生した。

事故機には乗員、乗客165人が乗っていたが、火災が広がる前に全員脱出し、機体が全焼しながらも死者が出なかったことは奇跡的と評されている。機長や乗務員は台湾では「中華民国副総統」が歓迎式典を行うなど、英雄視された。


国土交通省発表によれば、120便は午前10時27分に那覇空港に着陸後、41番スポットまで移動したが、その途中で機体右側の第2エンジンから煙が出ているのを管制官が目撃。また地上にいた整備士は第1エンジンから燃料が漏れているのを確認し、機長に緊急脱出を要請。午前10時32分に第2エンジンから出火した。機は午前10時34分に41番スポットに停止しだが、乗客が緊急脱出中、第2エンジンが激しく炎上。火は地上に流れ出た燃料に燃え広がった後、風下にあたる左側の第1エンジンに燃え移り、午前10時35分に機体が爆発、炎上した。空港内の消防隊、管轄の那覇市消防本部、航空自衛隊那覇基地所属の消防隊、更に裏添市、糸満市、豊見城市、東部消防組合、島尻消防・清掃組合の各消防本部から消防隊が出動し、火はおよそ1時間半後に消し止められたが、機体はほぼ全焼した。


なお、機長は避難誘導の機内アナウンスを行わずに、直接乗務員に避難を指示させた。これについて機長本人は適切な判断だったとしているが、日本のマスコミは誘導方法として問題があると評した。

乗客に取材したある番組では、「煙が出て炎が上がっているにもかかわらず、乗務員は席に戻って座るように指示した」「機内放送装置を使った中国語、英語、日本語による避難誘導アナウンスは聞こえなかった」「非常口を開けるように要請したが客室乗務員はすぐに対応しなかった」「脱出時に滑り降り方などの説明がなかった」などの証言を紹介して、整備不良の問題のみならず、乗務員の安全に関する意識の欠如や訓練不足について指摘している。

一方で「炎上している中で緊急脱出を最優先させるために、機内放送装置を使った複数言語による避難誘導アナウンスをすることや滑り降り方の説明は物理的に難しかったのではないか」という他者客室乗務員からの指摘もある。


炎上事故の原因は調査中である。

今日という日【8月19日】

■新宿西口バス放火事件


1980年8月19日。


当時、日曜日21時過ぎ、新宿駅西口バスターミナル20番乗り場で、発車待ちのため停車中だった「京王帝都電鉄(現:京王電鉄)」の運行する中野車庫行きバスの車内に、男が後部ドアから火のついた新聞紙とガソリンが入ったバケツを車両後方へ投げ込んだ。


火は瞬時に燃え広がり、6人が死亡、14人が重軽傷を負う惨事となった。


この事件の被害者の1人、「杉原美津子」は事件後、「生きてみたい、もう一度」という手記を出版した。これはベストセラーとなり、1985年に「生きてみたいもう一度 新宿バス放火事件」のタイトルで映画化された。「杉原美津子」は事件時、異性関係の悩みから自殺願望を抱いており、放火された際に逃げるのを躊躇したため全身80%火傷を負ったが回復。彼女は自らの希望で被告人に接見し、犯人に対して「もう一度やりなおして欲しい」という言葉をかけたという。

また、「杉原美津子」の兄、「石井義治」はカメラマンであり、彼はバスが放火された時に偶然そばを通りがかっており、本能的に燃え上がるバスを撮影し、その写真は翌日の新聞にスクープとして大々的に掲載された。が、実の妹がその事件で重傷を負う中、妹に救護の手を差し伸べていなかったことを知った彼は、そのショックで報道カメラマンを引退。その後、ペンネームを「イシイヨシハル」と改め、風景写真の分野へと転向した。


犯人は事件当夜、駅前広場に通じる階段に座って酒を飲んでいたところ、何者かにここから出て行けと言われ、カッとなって犯行に及んだ。

検察側は犯人に死刑を求刑したが、裁判所は「被告人は心神耗弱状態にあった」とし無期懲役の判決を下した。犯人は罪の重さを認識してか「死刑になってみんなにお詫びしなければ」と語っており、死刑になると考えていたが、無期懲役の判決に傍聴席に向かって「ごめんなさい」と言いながら土下座した。

犯人は1997年10月に千葉刑務所内で首吊り自殺した。享年55。