今日という日【9月11日】
■アメリカ同時多発テロ
2001年9月11日。
航空機を使った前代未聞な規模のテロ事件がアメリカ合衆国で発生。全世界に衝撃を与えた。その後、アメリカは「アフガニスタン紛争」「イラク戦争」を行うことになる。また、飛行機のマンハッタン高層ビルへの大規模衝突事件としては、1945年の「エンパイア・ステート・ビルディング」へのB25衝突事故以来のこととなった。
日本では、この事件の略称として「アメリカ同時多発テロ」「9・11テロ」などと呼ぶ。広辞苑では、「九・一一事件」と記載されている。
世界貿易センタービル・ツインタワーの北棟は、8時46分にアメリカン航空11便の突入を受けて爆発炎上。この時点では多くのメディアがテロ行為ではなく単なる航空事故として報じた「ジョージ・W・ブッシュ大統領(当時)」も「第一報を受けた時点では航空事故だと考えた」と発言した。1機目の激突は、数ヶ月前から地元消防署の日常を密着取材していたフランスのテレビ局から派遣されていたビデオジャーナリストのノーデ兄弟によって偶然撮影(ガス漏れの通報があり、出動していた消防隊に同行していた)され翌日に報道されている。
続いて、9時3分に南棟がユナイテッド航空175便の突入を受け、爆発炎上。2機目の激突は1機目の激突後に現場のテレビ中継を行っていた際に発生し、世界各国に1機目の衝突を臨時ニュースとして国際中継していた間に起こった事件であったため、前代未聞の衝撃的な映像を多くの人たちがリアルタイムで見る事になった(この時点で、事故ではなく故意に起こされた事件であることが認識された)。また、2機目の旅客機が激突する瞬間はプロやアマチュアを含む多くのカメラマンにて撮影されている。
ツインタワーは、建設当時の主力ジェット旅客機ボーイング707が突入しても崩壊しないよう設計されていたはずだったが、実際に高速で突入した同サイズのボーイング767によってビル上部は激しく損傷、漏れだしたジェット燃料は縦シャフトを通して下層階にまで達し、爆発的火災が発生。次いで火災の熱による鉄骨の破断でタワーは強度を失い、9時59分に南棟が突入を受けた上部から砕けるように崩壊した。北棟も10時28分に南棟と同様、砕けるように崩壊した。 ツインタワーは、特に北棟で人的被害が大きく、死者は約1,700人(救護活動中の消防士を含む)であった。特に突撃を受けた92階以上に被害が多く、この階以上の在館者全員が死亡したと言われている。それは航空機に突入されたフロアの階段が大きく破壊され炎上し、避難経路が遮断されたためである。南棟も同様に激しく炎上したが、こちらは旅客機が外側に少し反れて激突し、反対側の階段が損壊や延焼を免れたため、突入フロア以上でも延焼の少なかった部分にいた十数名は無事避難することができた。また、突入前の未然避難者も含めると約7割の人が生還している。ただしこの時、炎上部より上にいた人の一部が、煙による苦痛や絶望感から飛び降りを行い、消防士や避難者の一部が落下してきた人の巻き添えになり命を落とした。また崩壊時の破片や煙により、ビル外でも数人が命を落としている。一方、タワー崩壊後も館内で奇跡的に生き残っていた人も数名おり、それらの人々は当日夕方に救助された。
北棟および南棟の崩落による影響で、敷地内の他の4つのビルも崩落・炎上し、8時間後に敷地北隣の高層ビル・世界貿易センター7号棟もともに崩落。道路は完全に封鎖、世界貿易センターの地下をターミナルとしていた地下鉄やパストレインもトンネルの崩落で走行不能に陥った。これらのことからニューヨークでは合計で2,749人が死亡するという大惨事になった。
この事件以降、世界貿易センタービル跡地は「グラウンド・ゼロ」とも呼ばれている。
アメリカ国防総省本庁舎(ペンタゴン)は9時38分にアメリカン航空77便(ボーイング757)の突入を受けた。大爆発が引き起こされてビルの一部は炎上、10時10分に4階が崩壊、10時15分に1階までが全て崩壊した。77便乗客・乗員全員が死亡し、189人の国防総省職員も死亡した。激突の瞬間の映像がペンタゴンの駐車場の監視カメラによって記録され、すぐにFBIにによって回収、調査された。
事故現場はボーイング757の機体の判別が困難なほど焼けたが、ビルの倒壊は5層になっているビル全体の1番と2番で抑えられた。また、この部分は長官執務室の反対側であり、ビルの補強工事中で普段よりも職員が少ないことが被害を抑えた。世界貿易センタービルへの突入の影響で情報は錯綜し、最初の報道は単なる爆発炎上というだけであったが、後に付近を通行中のドライバーや歩行者によってアメリカン航空機が北側から旋回して激突したとの目撃が証言された。
この無差別テロ事件の犠牲者は、すべての死者を合計すると2,973人とされている。内訳はハイジャックされた4機の旅客機の乗員・乗客が246人、アメリカ国防省で125人。世界貿易センタービルで2,602人とされている(あくまで「確認された人数」ということであり、実際には多少の誤差があると言われている)。
このうち世界貿易センタービルでの死者数には、ニューヨーク市消防署の消防士343人、ニューヨーク市警察の警察官23人、ニューヨーク港湾管理委員会の職員37人が含まれている。
このほかにも世界貿易センタービルではこの事件の被害者と思われる24人の行方不明者がいる。なお、ビルの残骸に含まれていたと考えられる約1,100人の遺体は最後まで発見できなかった。遺体はもちろんあらゆるものが、粉々に破壊されて散乱した。近隣のビルの屋上で発見された遺体の破片もある。
当時のブッシュ政権は、このテロ事件後のアメリカ合衆国世論の変化に合わせて、2002年に国際テロ組織とテロ支援国と断じた悪の枢軸(イラク、イラン、北朝鮮)との戦いを国家戦略とし、「アメリカの防衛のためには、予防的な措置と時には先制攻撃が必要」として推進する方針を決めた。これをもとに、アメリカ合衆国はイラクに対して大量破壊兵器を隠し持っているという疑惑を理由に、イラク戦争に踏み切った。
この行動に対しては、アフガニスタン(=ターリバーン政権)攻撃と異なり、国際的な態度は分かれ、イギリスや日本、フィリピンやスペイン、イタリアなどのアメリカ合衆国同調国と、フランスやドイツ、ロシア、中華人民共和国などのアメリカ非同調の立場に分かれた。
その後の2004年10月、アメリカ合衆国政府調査団は「開戦時にはイラク国内に大量破壊兵器は存在せず、具体的開発計画もなかった」と結論づけた最終報告書を米議会に提出。2006年9月には、アメリカ上院情報特別委員会が「旧フセイン政権とアルカイダの関係を裏付ける証拠はない」との報告書を公表しており、開戦の正当性が根底から揺らぐ結果となっている。また、ブッシュ大統領は、イラク戦争後の2004年に中東首脳を招いて会談を開き、サウジアラビアやシリアの様に王制や独裁が色濃い中東各国がテロの温床になっているとして、これらの国々を民主化すると宣言し、中東各国は“それぞれの国情を無視しアメリカ式を押し付けるもの”と強く反発した。アメリカ合衆国は中東民主化を今後の外交の方針に掲げるとしているが、この様な強権的なやり方には中東諸国のみならず、多くの国から批判が集中している。
さらに、、「アメリカ合衆国がアメリカ合衆国であり続ける為に必要」として、「愛国者法(反テロ法)」を制定、2005年7月には暫定法であった同法を恒久化。市民のプライバシーを大幅に制限、公安活動の用に供するとして、また12月には、国家安全保障局の行う不法な盗聴を大統領権限で事実上黙認していたこと、2006年5月には、、“テロリスト関係者、またはそれらと少しでも接触のあった外国人”をアメリカ合衆国入国の際に令状抜きで不法に連行・収監(=拉致)、自白を取るための拷問がCIAとFBIによって行なわれていた事が明らかになるなど、全体主義化傾向が国内のリベラリスト・市民団体から批判されている。
今日という日【9月10日】
■大日本蹴球協會創立
1921年9月10日。
現「日本サッカー協会」の前身である「大日本蹴球協會」が創立。
「財団法人日本サッカー協会」は、日本国内におけるサッカーの活動の振興を行う統括団体。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)や日本フットボールリーグ(JFL)、日本女子サッカーリーグ(なでしこリーグ)の試合や天皇杯全日本サッカー選手権大会、全日本女子サッカー選手権大会などの公式サッカー大会を主催する。プロ・アマの活動を一本化して管理している。
1918年、日本にはまだサッカー(当時:蹴球)を統括する組織はなく、日本一を決める全国大会も実施されていなかった。この年の1月に大阪の豊中で行われた「日本フートボール優勝大会(関西地区のみの大会。現:全国高等学校サッカー選手権大会の前身)、同年2月に関東地区で「関東蹴球大會」、名古屋では「東海蹴球大會」が別々に開催され、1918年以降にも引き続いて開かれた。
東京で行われた「関東蹴球大會」には「チャールズ・エリオットイギリス帝国大使」も列席し、その模様を本国に伝えた。これら1918年に行われた一連の旧制中学や師範学校及び旧制高等学校を中心とした地域大会の開催の模様をイギリス帝国の新聞が「日本サッカー協会が発足し、全日本選手権大会が始まった」と誤って報道した。
翌1919年、「チャールズ・エリオット大使」の報告に加え、その新聞記事を見た「イングランドサッカー協会(FA)」は、イギリス帝国大使館の「ウィリアム・ヘーグ書記官」が日本の全国大会優勝チームに授与するための「FA杯」の寄贈を提案したこともあり、「日本蹴球協會の設立を祝して銀杯を寄贈します。全國大會の優勝チームに授與して下さい」といったメッセージを添えて、イギリス帝国大使館の「グリーン在日大使」を通じて日本に「シルバーカップ(銀杯)」を寄贈する。FAは当時、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカなどイギリス帝国各地の協会に、ほぼ同じデザインの銀杯を贈っている。
1902年日英同盟を結んで以来、東アジア及び太平洋地域の覇権をめぐり、日本は当時、イギリス帝国にとって重要な同盟国だった。つまり、銀杯の寄贈には、当時の日本がイギリス帝国に重視されていた、あるいはイギリス帝国加盟国に準ずるものとみなされていたことが背景としてある。
FAが日本に銀杯を寄贈したという3月12日付の東京朝日新聞の記事を、東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現筑波大学)の校友会蹴球部長を務めていた「内野台嶺」が読み、そのカップの行き先を思案することとなる。
しかし、なかなかいい案が浮かばず、東京高等師範学校の校長で当時、「大日本體育協會(現:日本体育協会)の会長も兼務していた戦前の日本スポーツ界の重鎮「嘉納治五郎」を訪ねた。そして「この際、急いで設立せよ」と、、内野は嘉納から厳命を受ける。内野はその後、イギリス帝国大使館の「ウィリアム・ヘーグ書記官(そのまま大日本蹴球協會初代賛助会員となった)と体育協会の各理事の協力を仰ぎ、規約・規則の作成と役員人事を進め、1921年9月10日に「大日本蹴球協會」を創立。初代協会会長に「嘉納治五郎」の信任が厚く、「大日本體育協會」の筆頭理事を務めていた「今村次吉」が就任した。
この「大日本蹴球協會(現:日本サッカー協会)」設立のきっかけとなったシルバーカップは現存していないと言われている。太平洋戦争の戦況が悪化すると、日本政府は戦争遂行のために、広く国民に鉄や銅、貴金属などの拠出を求めるようになった。スポーツ界も例外ではなく、1945年1月の銀器献納でシルバーカップは姿を消したと言われているが、真相は不明である(終戦後に内務省関係の役所で見かけたとする話もある)。
尚、そのシルバーカップが2011年8月にイングランドサッカー協会の手で復元され、改めて日本サッカー協会に贈呈される運びとなり、8月23日にイングランド・ウェンブリー・スタジアムにて贈呈式が行われた。
