今日という日【5月15日】
■「ジュリアナ東京」開店
1991年5月15日。
「ジュリアナ東京」は、かつて東京都港区芝浦に存在したディスコ。
「ジュリアナ東京」はバブル崩壊期の71991年5月15日に総合商社「日岩岩井」とイギリスのレジャー企業「ウェンブリー」の共同出資により設立。正式名称は「JULIANA'S TOKYO British discotheque in 芝浦」。所在地は東京都港区芝浦1-3-10。総面積は1,200㎡で、最大3,000人以上を収容できる規模だった。
「ジュリアナ東京」に関して象徴的に語られることが多いのが、通称「お立ち台」と呼ばれた、ダンスホールの両脇に設置された高さ130cm程のステージ。ボディコン姿の女性が「ジュリ扇」と呼ばれる羽付き扇子を振り回して踊る姿は、今日のバブル時代の特集でも頻繁に取り上げられる。ボディコン姿の女性たちが最寄り駅であるJR田町駅から「ジュリアナ東京」まで徒歩で赴くという光景が見受けられ、ボディコン自体も、素材の質感がエナメル質・露出の多いもの、もしくは水着など過激なものまで存在した。
また、ダンスフロアを挟んでDJブースの向かい側に通称、雛壇(ステージ)も存在した。当時は珍しかったボディソニックの音響設備やレーザー・スモーク・モニター等を取り入れ、ダンスフロアには巨大なシャンデリアを設置するなど、「ジュリアナ東京」は大きな空間を最大限に活用した最先端のディスコであった。

1991年5月15日。
「ジュリアナ東京」は、かつて東京都港区芝浦に存在したディスコ。
「ジュリアナ東京」はバブル崩壊期の71991年5月15日に総合商社「日岩岩井」とイギリスのレジャー企業「ウェンブリー」の共同出資により設立。正式名称は「JULIANA'S TOKYO British discotheque in 芝浦」。所在地は東京都港区芝浦1-3-10。総面積は1,200㎡で、最大3,000人以上を収容できる規模だった。
「ジュリアナ東京」に関して象徴的に語られることが多いのが、通称「お立ち台」と呼ばれた、ダンスホールの両脇に設置された高さ130cm程のステージ。ボディコン姿の女性が「ジュリ扇」と呼ばれる羽付き扇子を振り回して踊る姿は、今日のバブル時代の特集でも頻繁に取り上げられる。ボディコン姿の女性たちが最寄り駅であるJR田町駅から「ジュリアナ東京」まで徒歩で赴くという光景が見受けられ、ボディコン自体も、素材の質感がエナメル質・露出の多いもの、もしくは水着など過激なものまで存在した。
また、ダンスフロアを挟んでDJブースの向かい側に通称、雛壇(ステージ)も存在した。当時は珍しかったボディソニックの音響設備やレーザー・スモーク・モニター等を取り入れ、ダンスフロアには巨大なシャンデリアを設置するなど、「ジュリアナ東京」は大きな空間を最大限に活用した最先端のディスコであった。
今日という日【5月14日】
■紀尾井坂の変
1878年5月14日。
「紀尾井坂の変」は、内務卿「大久保 利通」が東京府麹町紀尾井町清水谷(紀尾井坂)で不平士族6人によって暗殺された事件。「紀尾井坂事件」「大久保利通暗殺事件」ともいう。
5月14日早朝、大久保は福島県令山吉盛典の帰県の挨拶を受けている。話は2時間近くに及び、山吉が辞去しようとしたときに大久保は三十年計画について述べている。これは明治元年から30年までを10年毎に3期に分け、最初の10年を創業の時期として戊辰戦争や士族反乱などの兵事に明け暮れる時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期として、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べるものであった。
午前8時ごろ、大久保は麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出発。明治天皇に謁見するため、二頭立ての馬車で赤坂仮皇居へ向かう。午前8時30分ころ、紀尾井町清水谷(紀尾井坂付近。現:参議院清水谷議員宿舎前)において、暗殺犯6人が大久保の乗る馬車を襲撃。日本刀で馬の足を切った後、御者の「中村 太郎」を刺殺。次いで乗車していた大久保を馬車から引きずり降ろそうとした。大久保は暗殺犯らに「無礼者!」と一喝したが、斬殺された。
介錯として首に突き刺された刀は地面にまで突き刺さっていた。『贈右大臣正二位大久保利通葬送略記・乾』によると大久保は全身に16箇所の傷を受けていた。そのうちの半数は頭部に集中していた。事件直後に駆けつけて遺体を見た「前島 密」は、「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」と表現している。

1878年5月14日。
「紀尾井坂の変」は、内務卿「大久保 利通」が東京府麹町紀尾井町清水谷(紀尾井坂)で不平士族6人によって暗殺された事件。「紀尾井坂事件」「大久保利通暗殺事件」ともいう。
5月14日早朝、大久保は福島県令山吉盛典の帰県の挨拶を受けている。話は2時間近くに及び、山吉が辞去しようとしたときに大久保は三十年計画について述べている。これは明治元年から30年までを10年毎に3期に分け、最初の10年を創業の時期として戊辰戦争や士族反乱などの兵事に明け暮れる時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期として、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べるものであった。
午前8時ごろ、大久保は麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出発。明治天皇に謁見するため、二頭立ての馬車で赤坂仮皇居へ向かう。午前8時30分ころ、紀尾井町清水谷(紀尾井坂付近。現:参議院清水谷議員宿舎前)において、暗殺犯6人が大久保の乗る馬車を襲撃。日本刀で馬の足を切った後、御者の「中村 太郎」を刺殺。次いで乗車していた大久保を馬車から引きずり降ろそうとした。大久保は暗殺犯らに「無礼者!」と一喝したが、斬殺された。
介錯として首に突き刺された刀は地面にまで突き刺さっていた。『贈右大臣正二位大久保利通葬送略記・乾』によると大久保は全身に16箇所の傷を受けていた。そのうちの半数は頭部に集中していた。事件直後に駆けつけて遺体を見た「前島 密」は、「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」と表現している。