あの雨の夜

「そういえば、7月最後の金曜日って空いてる?」

珍しく、周の方から次に会う日を打診された

妻の髪の長さをちひろに当てられ、話題を変える為に言い出したのかと思ったが

「土曜日は…夕方からバイトがあるけど昼間だったら大丈夫です」

スマホでスケジュールを確認したちひろは、その日付が持つ特別な意味に気がついた

「じゃあ7月29日のお昼に、いつもの駐車場で待ってるね」

「…はい」

7月29日

ちょうど1年前、ふたりがバーで出会った日

周が以前からプランを練っていた記念日のデートに、ちひろは少し遅れてやって来た

「すみません、お待たせして」

ノースリーブの黒いワンピース

紺のバケットハットを目深にかぶっているため、表情は良くわからなかったが

「どうしたの?元気ないね」

「大丈夫です」

その声は明らかにいつもと違っていた

「とにかく、外は暑いから早く乗って」

助手席のドアを開け、エアコンの効いた車内にちひろを誘ったが

「乗りません。エンジンを止めてください、大事な話があるんです」

ちひろは強い口調で言いながら、哀しみを湛えた瞳を周に向けた

「ちひろ?」

ようやく事態の深刻さに気づいた周が、エンジンを切って車のドアを静かに閉める

「もう、会わない…ううん、会えない!なにもわかってなかったんです、わたし」

絶対に泣かないと決めていたのに

なんども頭の中でおさらいした別れの言葉は、ひと文字も思い出せなかった

「ごめんなさい、ほんとにごめんない」

感情があとからあとから、洪水のように胸の奥から溢れてくる

「あんな小さな子に、わたしはずっとひどいことを」

「落ちついて、わかるように話してくれないか。小さな子って、誰のこと?」

さっきから両手をきつく握りしめているちひろの腕を周が掴んだ

「見たんです、先週」

うつむいた声はひどくか細い

「見たって、なにを?」

「水上さんが、紗良ちゃんといるところ。デパートに、抱っこして入っていきましたよね?」

それまで冷静さを保っていた周が息を呑む

「あそこにいたの?気づかなかったな」

「日傘で顔を隠してたから」

「娘の名前は、どこで知ったの?」

「前に守屋さんが教えてくれたし…あの時も、水上さんが大きな声で紗良ちゃんのことを呼んでいたから」

「そうか」

娘といるのを目撃して、ショックを受けるのはわからないではない

「でも、俺に妻と娘がいるのは最初からわかってたよね?どうして今さら…」

「だから、違うんです!」

ちひろが再び語気を強めて、周を見上げる

「どういうこと?」

「責任なんか取れないくせに、自分勝手なことばかりして…」

最後はやはり泣き声になった

「ちひろ、もういい」

周に抱きしめられたあとも尚、ちひろは「ごめんなさい」と謝り続けた

「ほんとうにほんとうに…ごめんなさい」

「ねえ、ちひろ。最後に俺の言うことを聞いて、絶対に嘘はつかないって約束するから」

風ひとつない真夏の公園に

ふたりの最後の時間が流れ始めた



つづく↓