政治家はまず戦略に信憑性を持たせ、そして利益を予想させるべき | 空気の意見 

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過去の規制緩和による捻れた競争社会に、公正な競争を導入し、不当な競争から労働者を保護しよう! 介護福祉は国営化。国が労働者管理機構をつくり、労使へのアクセスとバックアップ、フィードバックを強化し、労働者達へのセーフティーネット強化の土台をつくろう。

 実際、現実に謝罪するなら謝罪するで政治というものは、
そのときに目的というか戦略が裏になければ、無為無策の無能政治になってしまう。

 たとえその謝罪に誠意とか誠実が多分に含まれていたとしても、
「誠意」とか「誠実」とかそういったものを持ち出し中心にすえるなら、
「無償の愛」といったところに近づいていかなければほとんど真実味が薄れてしまう。
そういった打算と誠実にさいなまれながら現実の政治に対して決定を下し、
あるいは戦略を変更していかなければならない。
そこで、あくまで算盤をはじき通すか。
それか、あくまで宗教的、哲学的な精神を、つまり愛情や思想を主体にするべきかが問題になってくる。
しかし僕達の、前世代からの試行錯誤により、
民主主義が民主主義ならではの危険性を含みながらも、
福祉政策と国際社会への無償有償の援助を政策に取り込んでいった結果、
民主主義と資本主義社会は他の体制よりは優位を勝ち取っているところであります。
 それを想像してみると、人間が口に算盤をくわえ、
空いた手足で福祉と援助を不恰好に抱えている状態なのかもしれません。

 小泉はバブル崩壊後から前クリントン政権時代の、
あの日本冷遇から放置されていた関係を見事に(日米同盟を強靭に)鍛えなおしたとも考えられます。
もちろんその結果アジア外交はぎくしゃくしたでしょう。
 あの頃バブル辺りには、好景気の勢いを背景に、
日本の知識人にも傲慢さが見え、日本人のアメリカ軽視も表面化していた。
(アメリカは嫉妬しているのだ、という反発心であります)
アメリカは日本の輸出と対日赤字に神経を尖らせ、日米お互いが過剰に過敏に反応しあった時期で、
日本のバブル崩壊とその後の財政悪化により、一応のある程度の決着がついたということでしょうか。
 現在のトヨタ自動車などのアメリカ進出企業が、アメリカの雇用を支えているという評価を考えれば、
日本企業の努力は素晴らしいものがあります。
苦しい、様々なルール変更や市場解放を行った結果、逞しく生き抜いている。
すべてが小泉の手柄ではりませんが、改革路線に信憑性を感じさせたことと、
日米同盟を強化させたことは評価されてもいいのではないでしょうか。
(それがどう正しかったは、今後の話ですが)

 はっきりいうと、日本はアメリカに圧力をかけられれば強引にも同盟を強化させられたかもしれない。
けれどもベストフレンドとして参加するか、嫌々参加している顔をしているかでは心証がかなり違う。
日本と韓国をアメリカからそれぞれ眺めれば、いまアメリカ国民の目にどう映っているか?
将来、そういった印象的な効果がなにと繋がるか、とても興味深い。

 最後に、「戦略は?」と訊ねられて「平和であること」と答えるのはおかしい。
平和という状態は大抵いつも達成される目標の一つに入っているけれども、
「平和」は戦略そのものではないからおかしい。
例えば「中国、台湾間での軍事衝突を未然に防ぎつつ、
かつ中国の海軍力に対抗する軍事力を持ち続け、人民軍の軍事行動及び日本領海内の不法行為を抑止する」
くらい話せば、賛否はあっても具体的に何をしようと考えているのかはわかるのではないでしょうか。

 話が戻りますが、ただいたずらに強硬になったり、謝罪したりするのは無能であります。
小泉は強硬して掴むものはなんとかあった。しかし謝罪をしようと主張した側になにか掴むものはあったのか?
「アメリカに恩を売った」と考えている人はもちろんいるでしょう。
 けれどもあの段階で中韓に謝罪をして、石油問題、コピー商品、竹島問題、
対馬での韓国漁船による不法操業、歴史問題、あるいは民主党の沖縄への政策、
などなどを解決させられるという説得力、信憑性、そこから発生する利益を、
国民に想像させ印象的に与えられなかった時点で、あの衆院総選挙敗北は必然だったのかもしれない。

 「政権交代」は達成される目的の一つだけれども、戦略でもなんでもない。
そんなものを必死に錦の旗にしても、国民にはまるでピンとこない。
 いざ、自分たちの提案された政策に与党が妥協したならば、
政策決定を放棄して飛んで逃げていくようではダメだ。
これでは政権交代をさせようとしても、民主党や野党は走って日本海に飛び込んでしまうだろう。
ついでに、彼らがそのまま溺れているところの近海に、ミサイルが落下してしまうかもしれない。
もちろんそれでも彼らは無傷だろうけれども。