「奇跡のコース」関連本である「神の使者」についてですが、僕はその内容に引かれていつつも完全に解釈を間違えていたのではないかと今は思います。

「人生は楽しむこと」と「エゴの解体が宇宙の解体になる」ということがどうしても混ざり合わないまま、混乱していたようです。

僕の読解力のなさのためだと思いますが、さすがは純粋な非二元と書かれている本です。

この本は気になりつつもまだ買えていないのですが、

たしか「二元論から半二元、非二元、純粋な非二元……スピリチュアルの道はどれも長い道のりだ、準備の整っていないものには成し遂げられない」といったメッセージが書かれていたのを思い出します。


以前も書いたかもしれませんが、それでもどこかこの本のことが気になり、最終的にはそれしかないとばかりに意識の底でこだわっていた気がします。

ここで、気がつくと自分の言葉が言葉足らずで語弊を生んでいるかもしれないなと思って補足なのですが、

「こだわること」も本やメッセージもそれ自体は役に立つ価値や可能性を持つ物、あるいはニュートラルで、すべては使い手次第なんだと思います。

また、単に合う合わないの問題かと。

何度も過去記事でそう書いてきたのに上で書いたことに本当には気づけずにきたのは、

自分を信じられないことと余裕のない必死なもがきが、概念的に完成された一番の完成された権威を求めたから……それで世界と渡り合うしかないと……それが自分自身を救うための最後の砦だと思っていたからなのでしょう。

力不足にもほどがありましたが(笑)

補足してまたまた思ったのが、エニアグラムタイプ6がタイプ5のサポートをし、自己破壊的な方向で協力しあった一つの例かと(笑)

他にもタイプ6の特性が自分にとって否定的に作用した面はあるのですが(僕のブログにも見える特徴ですが)、とりあえず割愛します。


エニアグラムを知らない方がこれを読むと、エニアグラムはずいぶん否定的なんだなと映るつるきらいがあるかも知れません。

これは僕が霊的探求色の強い源流的な系統のエニアグラムに引かれたためかも知れませんが(エニアグラムは会派様々です)、
もっと大きな理由は、僕のものの見方が否定的だったからです。


一般的に広まってるエニアグラムは人の持つ特徴の短所も長所も知って受け入れて、自分を好きになって活かしていこうね、ってものだと思います。




続きます。
魂の話の続きです。


この先自分などいなかった、魂などなかったということに気づくこともあるかも知れませんし、
神の意志というものにとって代わられるかも知れません
(それでもきっと、その時もそれを選択するこの意識はあるでしょうし、それからも顕れとしての自分を通しての表現はなされていくでしょうけれど)。


魂の旅は、いつか終わりを迎えるかも知れません。


それは今の僕には本当のところ、わかりません。


ただ、少なくとも別の指針がとって変わるそれまでは、この魂と手をとって、感じて、認めて、受け入れて、基盤、源としていこうと思います。

ここまで書きつつ、魂ということについてはうまく知らないかもしれませんが、それはこれからです。


ようやく、スピリチュアル的な色んな見方で未整理なまま混乱していた大きな葛藤が一つ、おさまるところにおさまったようです。

僕に作用しているエニアグラムタイプ6の根源の怖れ自体は、まだ解消したわけでは全くないかもしれません。

まだ想念観察や想念から自由になることなどにちゃんと取り組めているわけでもないので。それはむしろこれからです。

と、ここまでムダに意気込んで書きつつ、やれるの?(;´Д`)なんて腰が引けたような疑いが起こってきてますけど(^_^;)(これも黙って観照したり手放したり、ですね)


ただ、自己感覚を信じることや魂などについて、自分なりの一つの答えに至ったこと、これは大きさとしては最も小さいかも知れませんが、大切なポイントかも思いました。


エニアグラムの本を読むと、タイプ6は自己感覚を培うようになるまでは、自分以外の何かの権威に依存するようです。

自己感覚を信頼するということを世の中から責任追及される立場にさらされることの怖れと強く結び付けていて、その自信を全く喪失していた僕ですが、

ようやく自己感覚を信頼する一つのポイントへの気づきが起こってきて、

書くエネルギーも起こってきたのだろうと思います。


これまで、書きたいことがちゃんと書けてきているかわかりませんが、そこは疑わずにいてもいいのかな、と思います。




ともあれ、ようやく、ここに着きました。

すべてのはじまりの一歩のための足場、それが魂だと捉えました。



次の記事からは、ちょっとだけ今回の記事の補足的な文章を載せることにします。
魂について、どうも書き方が不十分かもしれないと思いました。
今回の連続記事は「魂」から語りはじめていたのに。


今の自分は、〈魂〉を、
これが自分自身として自己完結でき肯定的に受け入れられるもの、
全体と関わっていける可能性をいつでも持っている基盤、

全体や、神といわれる「それ」などと今ここの自分を繋げるエネルギー

といった感じにして受け止めています。

魂は、目的や視点が変わるとまた別の顕れ方をするものになるかも知れません。

魂を活かすことは、観照意識と現象面を両立させどちらも活かすためのバランサー、仲介者、神の代行者、といった位置づけです。


(僕が言葉にすると堅い感じがしますが)


なので、どんなに無力感や絶望感を味わっているとしても、意識が曖昧に感じているとしても、

意識がある間は、感じていることが少しでもある間は、完全には終わっていなくて、すべてから見放されきってもいないのだろうと思います。

意識がもたらす魂は、いつも今ここにあります。

そのすべてを幻想として扱うとしても、その扱う基盤はあります。


ここに書いていることすべてが誰か他の人や間違っていても否定されても、別の瞬間にいる自分から否定されても、別にそれはそれでいいと思います。

もちろん、これは終着駅なんかじゃありません。

僕のエニアグラムタイプ6の怖れの探求や気づきからの自己感覚というところから着いた、一つのプラットフォームです。

例えここにいつかは手放されるべきエゴ思考が混ざっていたとしても。


そういう意味で、意識だけでなく、魂はいつもここにありました。

はじめから。


自分が混乱してたために、見失ったいただけで。


この先、魂が何と手をつなぐかも、どう変わるかも、その時々の魂が決めます。

いつでもそうだったかも知れませんが、これからはそれに自覚的になれるんじゃないかと思います。






次に続きます。