魂の話の続きです。
この先自分などいなかった、魂などなかったということに気づくこともあるかも知れませんし、
神の意志というものにとって代わられるかも知れません
(それでもきっと、その時もそれを選択するこの意識はあるでしょうし、それからも顕れとしての自分を通しての表現はなされていくでしょうけれど)。
魂の旅は、いつか終わりを迎えるかも知れません。
それは今の僕には本当のところ、わかりません。
ただ、少なくとも別の指針がとって変わるそれまでは、この魂と手をとって、感じて、認めて、受け入れて、基盤、源としていこうと思います。
ここまで書きつつ、魂ということについてはうまく知らないかもしれませんが、それはこれからです。
ようやく、スピリチュアル的な色んな見方で未整理なまま混乱していた大きな葛藤が一つ、おさまるところにおさまったようです。
僕に作用しているエニアグラムタイプ6の根源の怖れ自体は、まだ解消したわけでは全くないかもしれません。
まだ想念観察や想念から自由になることなどにちゃんと取り組めているわけでもないので。それはむしろこれからです。
と、ここまでムダに意気込んで書きつつ、やれるの?(;´Д`)なんて腰が引けたような疑いが起こってきてますけど(^_^;)(これも黙って観照したり手放したり、ですね)
ただ、自己感覚を信じることや魂などについて、自分なりの一つの答えに至ったこと、これは大きさとしては最も小さいかも知れませんが、大切なポイントかも思いました。
エニアグラムの本を読むと、タイプ6は自己感覚を培うようになるまでは、自分以外の何かの権威に依存するようです。
自己感覚を信頼するということを世の中から責任追及される立場にさらされることの怖れと強く結び付けていて、その自信を全く喪失していた僕ですが、
ようやく自己感覚を信頼する一つのポイントへの気づきが起こってきて、
書くエネルギーも起こってきたのだろうと思います。
これまで、書きたいことがちゃんと書けてきているかわかりませんが、そこは疑わずにいてもいいのかな、と思います。
ともあれ、ようやく、ここに着きました。
すべてのはじまりの一歩のための足場、それが魂だと捉えました。
次の記事からは、ちょっとだけ今回の記事の補足的な文章を載せることにします。
この先自分などいなかった、魂などなかったということに気づくこともあるかも知れませんし、
神の意志というものにとって代わられるかも知れません
(それでもきっと、その時もそれを選択するこの意識はあるでしょうし、それからも顕れとしての自分を通しての表現はなされていくでしょうけれど)。
魂の旅は、いつか終わりを迎えるかも知れません。
それは今の僕には本当のところ、わかりません。
ただ、少なくとも別の指針がとって変わるそれまでは、この魂と手をとって、感じて、認めて、受け入れて、基盤、源としていこうと思います。
ここまで書きつつ、魂ということについてはうまく知らないかもしれませんが、それはこれからです。
ようやく、スピリチュアル的な色んな見方で未整理なまま混乱していた大きな葛藤が一つ、おさまるところにおさまったようです。
僕に作用しているエニアグラムタイプ6の根源の怖れ自体は、まだ解消したわけでは全くないかもしれません。
まだ想念観察や想念から自由になることなどにちゃんと取り組めているわけでもないので。それはむしろこれからです。
と、ここまでムダに意気込んで書きつつ、やれるの?(;´Д`)なんて腰が引けたような疑いが起こってきてますけど(^_^;)(これも黙って観照したり手放したり、ですね)
ただ、自己感覚を信じることや魂などについて、自分なりの一つの答えに至ったこと、これは大きさとしては最も小さいかも知れませんが、大切なポイントかも思いました。
エニアグラムの本を読むと、タイプ6は自己感覚を培うようになるまでは、自分以外の何かの権威に依存するようです。
自己感覚を信頼するということを世の中から責任追及される立場にさらされることの怖れと強く結び付けていて、その自信を全く喪失していた僕ですが、
ようやく自己感覚を信頼する一つのポイントへの気づきが起こってきて、
書くエネルギーも起こってきたのだろうと思います。
これまで、書きたいことがちゃんと書けてきているかわかりませんが、そこは疑わずにいてもいいのかな、と思います。
ともあれ、ようやく、ここに着きました。
すべてのはじまりの一歩のための足場、それが魂だと捉えました。
次の記事からは、ちょっとだけ今回の記事の補足的な文章を載せることにします。