非常に拙いながらも今まで色々と書いてきました。
「今回のトピックはこちら」的に扱いつつ…。

そしてまたその中で関わりを持ってくださる方々がいらっしゃって、嬉しくやり取りをさせていただいては、
いつの間にか「あれ?ブログ書きたいのにまた書けないなp(´⌒`q)」の繰り返しでした。

そのわけが最近わかりかけてきました。

僕の望むことはある意味明らかなはずなのに、何一つ選択できない、そのわけも。

時々お茶する友達とお茶をしました。

葛藤をあれこれ話して付き合わせてしまうかもしれないな…。とも思ってたんですが、会ったら話しちゃってて。

僕の話を聞いて、その友人が話してくれたフィードバックから、
「ああ、だから俺は葛藤してて、思考で整理しようとしててもできなかったのか」と一つ合点がいきました。

友達は「なんでいつもそんなに苦しそうだったのか今までわからなかったけど、やっとわかった」と。

友達の例えがまたわかりやすかったんですね。

今まで僕がやろうとしていたことは「そらはじめから無理なことだよな」とうなづけるものでした。

自分で思ってたこととは実際は全く逆ということもありました。

ちぐはぐだったんです。

その、「なぜ無理か」の根本をわきまえないままにしてたから、何に触れて取り入れようとしてきたから混乱していたのか、という感じがしました。

そして、ブログ上でそれを表現しようとしても到底できなかったワケもおおかたわかりました。


今まで色々書いてきた記事には、読む方々にとっては今でもなるほどと思える価値を感じる情報も幾つもあるかも知れません(そして、これからの僕自身にとっても)。

それだけの様々なことに着目してきたような気もします。

でも、それとは別に、そこには決定的に欠けていたというか、見落としていたというか、置き去りにしてきたものがありました。

それが何なのかについては、文章化はしづらいかも知れません。

(抽象化すれば誰にでも伝わるように書くのも可能かと思いますが、性格的に細かく表現しがちなので)

整理せず勢いに任せて話していくうちに、感覚的に「あ」ってなる方が、流れとしては楽なんでしょう。


数日間コメントなどお送りしたいけどできずにいる方々のことも思いつつ、せめてこれだけでも書きたくなりましたm(_ _)m



あ、友達とは色々話せて面白かったです(^ー^)
(記事内容を分割記事から一つにしました)




前記事から気づきがあったので、続けます。



「たった一つの冴えたやり方」を求めていたはずが、

人生に対してもほとんどの人に対しても妙に「冷めた状態」、(ニヒリズム的な…)の自分でいたこと、

それを創りだしていたのが劣等感や諦めや自責や自虐などで、
自分の能力や頭の悪さなどスペック面などの劣等感やそれを恥ずかしく思う気持ち、
または自分の性格面の邪悪さと思っているところやメンタルの弱さなど、

またはそれらを支えた過去の体験などがあったように思います。

僕の人生というキャンバスは、それらの織り成すタペストリーだったわけです。(キャンバスなのにタペストリー?なんのこっちゃ。)

ともかく、そういった色々が自分の在り方や価値観や認識の仕方、ゲシュタルトを創っていたので、

目覚めについての情報に触れても、そうしたものを自我が不足感を埋め合わせてかりそめの安定を手に入れるために必死だったのでしょう。

これを書いてる今でも尚色濃く自我は存在しているでしょうが。

そこを癒すまでは気づかずに自我に乗っ取られやすい気がしますね。

まあそんなわけで、「目覚めた状態(真我、観察意識、それを超えたところ)」を目指していた自分が実は、ニヒリズム的に「冷めた自分(自我の織り成す在り方)」で、
こんだけ知ってるんだぞう、でもまだまだ足りないから求め続けるぜ~(飢餓感&不足感→もっともっとの欲求&焦燥感)みたいな。

真我や目覚めをおもちゃや愛情などを欲しがる子供のように、はたまた依存の対象から得られる(と思っていた)エネルギーが切れて荒れた人のようになっていたんでしょう。


あ、何かを望むこと自体を否定しているわけじゃないですよ。念のため。



冷めた生き方をしていたのは、恥をかいたりしないため、など自分を守るためだったんですが、それで満足が得られるわけじゃなかった、ということかと感じました。

先月の某日。

あるアニメを観てると、家族Oから「何でそんな番組観てるのかわからない、自分なら観ない」というニュアンスで、
「好きだから観てるのか?」と聞かれました。

「いや~、好きだからとかではないかな」と答えました。

さらに「面白いから観てるんじゃないのか?」と家族O。

「面白いからとかでもなく」と僕。

家族Oは、どうもはっきり言葉にできる理由づけがないと理解できず、そのままにしてはいられないようで。

僕は、そうした理由とかわからないまま観てるのがあってもいいかと思ってるので…。

「観ささってるんだからそれでよくね?」的に答えました。

他の家族Iは、理由づけなんかいらないめんどくさい、て感じでした。


「観ささる」って言葉の使い方に馴染みがない方のために、説明など。

テレビ番組「ぴったんこカンカン」で大泉洋さんが出ていた時、たしか飲食店内で同じ北海道出身の安住さんと語っていて、大泉さんから北海道の方言の話になりました。

たしか大泉さんは「書かさる」「押ささる」などの例を挙げて説明されてました。

たしかこんな感じだったかと。

「例えばだね~、ここにペンがあって書こうとするけどインクが出なくて書けない。

すると北海道の人は「このペン書かさんないね」っていうんだよ。

他にもだね、自分では気づかずに部屋の壁のスイッチを肘とか背中で押しちゃってて、点いてた部屋の明かりが消えちゃったりするとだね~、
押したそいつが「あ、ごめんごめん押ささっちゃったよ~」と言うわけよ。
すると周りも「あ~、押ささっちゃったのか~それなら仕方ないわね~」と、こうなるわけよ。」

とまあ、そんな感じで。

かたく表現すると、「動詞+ささる(ささらない)」って感じで、

「本人の意図によるものではないことだけどその人の行動がもたらした結果」について表現した方言です。

こう表現すると、なんかクッションみたいになって、自然と雰囲気もおおらかになれるような便利な言葉な感じです。

「お茶が入りました」ともなんか似てますね。

行動の結果は人を通して表現されたものだけど、その人の意志(引いては我)がそれを起こしてるのではなくて、起こることが起こった、みたいな。

〈全体〉が起こしてることに委ねる意識なら、それを通してもたらしている人に対して感謝も起こってきたり、おおらかになれたりするのかも知れませんね。

言葉ってすごい?