(文章の最後の部分を削り、一文添えました。)




ブログをいつも読んで下さってる方々、また、お読みくださる方々、ありがとうございます。

本記事タイトルは、まあ、思いつきのユーモアです。

でも、タイトルを書いたあとに、今までそんな感じの記事幾つもあったような、って思ったりしました。

あ、でも、『毒舌セラピー「混沌の館」』なんてブログタイトルにはしませんので。念のため(笑)

…うん。「毒舌セラピー」に当たる記事は、いくつか書いてきましたね。これってなんのためにやってきたのか。

まあ多分、軽くなるため。自分を肯定するためとか、ストレス発散、とか、そんな感じでしょう。変わりたい、もひょっとしたらあったかも知れません。

そうしつつ、そうした「毒舌セラピー」に対して、あまり嬉しく思ってない自分もいたかも知れません。単なる愚痴だよな、とか、他のせいにして、とか。

今では、そうして、やったことについて自分を低くしたりしてきたように思いますが、気づきと自分をいたぶることは切り離して考えるのが心の健康にはいいですね。

とは言え、切り離すのが難しい、出来ないって、また出来ない、難しいといった意識に囚われてしまってきてましたけど。

で。

今まで色んなメッセージやメソッドの存在に触れては、それを一つにして捉えようとしてきました。

そこには、相反するメッセージを無理矢理一つにしようとするといった執念にも似たこだわりがあったんです。

それと自分の癒しと同時進行でしようとして、いやむしろ、後者の思いの方が強いのか?くらいだったので、
そのあたりが自分についての思いと密接に結びついて、混乱を作ってきた気がします。

誰かから何かいいよ、と言われるとつい気になる、が増えていき、なかなか手放せないタイプですね。
(さすがエニアグラムタイプ6?)


というわけで、毒舌セラピーがセラピーになっていたのかはわかりませんが、
ブログ上だと、自分のやりきれない思いなどをアップしたあと、かえって読む方の目を気にしていたようにも思います^^;



これからは、なんかちょっと変えてみたくなりました。
前記事の続きです。
わかったことを書いていきます。



・何を獲得したり変えたりしなくても自分が自分でいることにしっくりきて安心していられる存在感覚(ひいては自分軸)がなく、

自分の在り方や性格上の欠点などを否定していて、

・承認欲求や愛情欲求、安心欲求や自己保存欲求の満足や存続などを求めていて、

・その満たされない自分のままで欲求という見えないフィルターを投影しつつ人とコミュニケーションをとり、また、情報を仕入れていること


真我というものを単なる知識や概念で知り、それをマインドの部分で扱おうとしていた。マインドは憧れの対象である真我に軸足を置き、真我を優れたものとして扱い、個我を否定しようとしていた


マインドのレベルでの処理自体を否定しつつマインドで全てを把握しようという矛盾


さらにマインドの整理がうまくいけば真我や目覚めなどへの到達などもクリアされるんじゃないかと働き続けるマインド

(エゴ・思考の巧妙さと言えるのかな……本にいくら書いてあっても自分でわからないと、ですね)

マインドは区別し分類する機能を持っているのに、そのマインドをもってして、本来繋がり得ないだろう性質のことを雑多に扱い、無理矢理一つに統合しようとしていた。

端的にいうと整理が下手ということだったが、その理由がわかった

パソコンのフォルダ分けのようにアレはアレ、コレはコレと分けておき、目的に応じて使えるものだけ出してきて使えばいい

→その目的自体が決まってない


→パラレルワールドなど全ての概念を扱おうとすると、扱おうとするものが大きすぎて、何をどこから扱ったらいいのか収拾がつかない

そしてそれらがクリアにならないと全く個我としての人生を扱う手がかりすら見えないという思い・感覚

(やっぱり、背伸びしすぎ、無理しすぎ、しょい込みすぎですけどね)

あと、自分のことを複雑な人間だと思い込んでいた節があるかもしれないが、実は僕自体はシンプル。
複雑にしてるのは思考だけ→扱い切れてない情報の多さをなんとか一つの図にしたい執着心が複雑だと思い込ませていた

なぜ複雑にし続けてきたか?

シンプルであると言われることがそのまま、知能的な面で自分が劣っていると思う劣等感の強さと結び付き、同義に捉えていた






とりあえず、こんなところで。