この記事 を読んで、興味深いものを感じたのでブログの記事にしたい。
教育現場のいじめに対する意識を、工場製品の不良品報告を隠したがる工員の意識に例えたが、なかなか的を得ている。
俺もいじめに対する学校側の意識は、失敗や失策、落ち度のように感じて、保身に走りがちであると指摘したが、この例え方は妙味だと思う。
大津市中学生が自殺した事件について、なぜ学校・教育委員会側が隠蔽体質になってしまうのかについては俺も考察したけれど、コトは在校生らの現場に影響は留まらない。近隣の風評は悪くなるし、地区の小学生は将来的にその中学校に進学しなければならない。親の立場として、不安視するのは当然だ。
在校生らもいずれは卒業し、いじめ自殺した痕跡はいずれ風化するだろう、"表向き"は。
だが、いじめによって自殺した、という事実は残る。十年経とうがなんだろうが、残るんだ。
これを問題だ、と思う人は居るかもしれないが、悪いことした生徒は、ブン殴ってもいいんじゃないだろうか。暴力反対だとか甘っちょろいことを抜かしている場合ではない。
殴られれば痛い、殴れば痛いということを身にしみて覚えさせなければ、いじめる側のエスカレートは止まらない気がする。気持ちを分かり合うだとか思いやるとかの言葉だけで、理解出来る・理解してもらえるほど、全人類はそんなにデキが良いのだろうか?デキの悪い人間だと自覚している俺は、百聞は一見に如かずという言葉通り、身を持って経験させることも大事だと思うのだが、どうだろうか。