今回も用語の説明がかなり多いです。引用元は略しました。文字数6千5百ほどのブログになってしまいました。

 

<先師古仏の云(いは)く、渾身(うんしん)口に似て虚空に掛り、東西南北の風を問はず、一等他と般若を談ず。滴丁東了滴丁東(ていちんとんりやんていちんとん)>

 

 これ仏祖嫡嫡の談般若なり、渾身般若なり、渾他般若なり、渾自般若なり、渾東西南北般若なり。

 

 <釈迦牟尼仏の言く、「舎利子、是の諸(もろもろ)の有情、此の般若波羅蜜多に於て、仏の住したまふが如く供養し礼敬(らいきやう)すべし。般若波羅蜜多を思惟すること、応(まさ)に仏薄伽梵(ぶつばがぼん)を供養し礼敬するが如くすべし。所以(ゆゑ)は何(いかん)。般若波羅蜜多は仏薄伽梵に異ならず、仏薄伽梵は般若波羅蜜多に異ならず。般若波羅蜜多は即ち是れ仏薄伽梵なり。仏薄伽梵は即ち是れ般若波羅蜜多なり。何を以ての故に。舎利子、一切の如来応正等覚は、皆(みな)般若波羅蜜多より出現することを得るが故に。

舎利子、一切の菩薩摩訶薩、独覚、阿羅漢、不還(ふげん)、一来、預流(よる)等、皆般若波羅蜜多によりて出現することを得るが故に。舎利子、一切世間の十善業道・四静慮(しじやうりよ)・四無色定・五神通、皆般若波羅蜜多によりて出現することを得るが故に>

 

 しかあればすなはち、仏薄伽梵は般若波羅蜜多なり。般若波羅蜜多は是諸法なり。この諸法は空相なり、不生不滅なり、不垢不浄、不増不減なり。この般若波羅蜜多の現成せるは仏薄伽梵の現成せるなり。問取すべし、参取すべし。供養礼敬(くやうらいきやう)する、これ仏薄伽梵に奉覲承事(ぶごんじようじ)するなり。奉覲承事の仏薄伽梵なり。

 

 正法眼蔵摩訶般若波羅蜜多第二

 

  爾時天福元年夏安居日在観音導利院示衆

 

  寛元二年甲辰春三月廿一日侍越宇吉峰精舎侍司書写之 懐奘

 

 

用語について

先師古仏⇒天童如浄禅師。続く文章は 「如浄語録下、風鈴頌(ふうりんしょう)」

 

滴丁東了滴丁東(ていちんとんりやんていちんとん)⇒風鈴の擬声語。

 

薄伽梵(ばがぼん)⇒薄伽梵は、梵語バガヴァット(bhagavat)の音写(婆伽婆とも)。世尊(世界中でもっとも尊い者)と意訳する。徳や名声のある人という意味もある。

 

仏陀⇒ブッダ(梵: Buddha)は、サンスクリット語の「知る」「目覚める」を意味する動詞ブドゥ(梵: budh)の過去分詞形で、「目覚めた者」や「真理、本質、実相を悟った人」、「覚者」・「智者」と訳す。「正覚者」のことであり、聖人・賢者をブッダと呼ぶようになった。  

悟りの最高位「仏の悟り」を開いた人を指す。歴史的には実在した釈迦を意味するブッダ(「仏陀」は漢字による音写の一つ。また、仏という漢字は末尾の母音の脱落などがあり「ブト」と省略され、それに「仏(佛)」の音写が当てられたとの考え方がある)という呼称は、インドでは仏教の成立以前から使われていた。釈迦が説いた原始仏教では、仏陀は「目覚めた人」を指す普通名詞であり、釈迦だけを指す固有名詞ではなかった。現に原始仏典にはしばしば仏陀の複数形(buddhā)が登場する。しかし釈迦の死後、初期仏教では、仏教を開いた釈迦ただ一人が仏陀とされるようになった。初期の大乗経典でも燃燈仏や過去七仏や、弥勒菩薩が未来に成仏することなど過去や未来の仏陀の存在を説いたものもあるが、現在の仏陀は釈迦一人だけであり、釈迦の死後には現在まで現れていないとされている。また、多くの仏教の宗派では、「ブッダ(仏陀)」は釈迦だけを指す場合が多く、悟りを得た人物を意味する場合は阿羅漢など別の呼び名が使われる。ただし大乗仏教においては、涅槃教や法華経などの経典により、人は誰にも平等に仏性が備わっているとされ、将来的には誰もが仏になることができるともされている。

 大乗仏教では三身説をとるが、姿・形をもたない宇宙の真理たる法身仏、有始・無終の存在で衆生を救う仏である報身仏(人間に対する方便として人の姿をして現れることもある)に対して、応身仏である釈迦如来は衆生を救うため人間としてこの世に現れた仏であると説明される。

 

仏教の教義上、悟りを得て解脱した者は皆 六神通を使えるようになるが、社会の混乱をきたすため六神通をむやみに濫用してはならないとされている

 

釈迦⇒ネパール南部がインド大平原に連なるあたりに位置したカピラ城を中心に、サーキヤSākiya, Śākya人の小国があり、その国王の浄飯王(じょうばんのう)Śuddhodanaの長子として、生まれた。釈迦の呼称はこの種族名に由来し、尊称して釈迦牟尼(むに)(ムニmuniは聖者)とよばれ、釈尊と漢訳する。姓はゴータマGotama, Gautama(瞿曇(くどん)と音写)、名はシッダッタSiddhattha、シッダールタSiddhārtha(悉達多(しっだるた)と音写)という。多くは、覚者(悟った人)を表す普通名詞を固有名詞化して、仏陀(ブッダBuddha)または仏とよばれ、これが転訛(てんか)して日本では「ほとけ」となる。さらに如来(にょらい)(タターガタTathāgata、真理の完成者)や勝者(しょうじゃ)(ジナGina)その他、多数の名でよばれ、これを名号(みょうごう)と称する。

 

受持⇒①教えを受けたならば、記憶していくこと。受け持つこと。

②非常に強い信心を持って、大乗の経典などを自己の所有とすること。受持・読・誦・解説・書写(・広説)は、大乗経典の功徳を発すとされる。

 

如来応正等覚⇒それぞれ①如来②応供おうぐ(阿羅漢、供養されるべき人)③正遍知(正しくさとった人。等正覚、正等覚ともいう

 

じゅうごう/十号仏の一〇種の称号。仏の十号、如来の十号ともいう。それぞれ①如来②応供おうぐ(阿羅漢、供養されるべき人)③正遍知(正しくさとった人。等正覚、正等覚ともいう)④明行足(智慧と行いを具えた人)⑤善逝ぜんぜい(よくさとりに達した人)⑥世間解(世間を知った人)⑦無上士(最高の人)⑧調御丈夫じょうごじょうぶ(人を巧みに指導する人)⑨天人師(神々と人間の師たる人)⑩仏世尊、という称号である。仏世尊を仏と世尊に分ける場合もあり、その場合は一一の称号があることになるので、経典によっては一〇種にするためにいずれかを一つにまとめている。

 

十善業道⇒仏教徒がなすべき十の善き行い。十善戒に同じ。不殺ふせつ・不盗ふとう・不邪婬ふじゃいん・不妄語ふもうご(嘘をつかない)・不両舌ふりょうぜつ(他人を仲違いさせるようなことを言わない。)・不悪口ふあっく・不綺語ふきご・不貪欲ふとんよく・不瞋恚ふしんに(激しい怒りをいだかない。)・不邪見ふじゃけん(因果の道理を無視した誤った見解を持たない。)

 

四静慮(しじやうりよ)⇒初静慮・第二静慮・第三静慮・第四静慮の四つに分類される、禅定の境涯のこと。ここでいう静慮とは禅定と同義で、心を静めて集中し、良く対象を思慮することである。なお、四静慮と呼称される場合は、欲界を超えて色界の四禅天に至った禅定を指す。

 

境涯⇒立場、地位、身分、身の上、境遇

 

欲界⇒欲界とは、三界の最も下にあり、淫欲・食欲の2つの欲を有する生き物の住む世界である。欲の盛んな世界のこと。この中に六道がある。そして、欲界の天を、六天(六欲天)という。

 

色界⇒三界(欲界・色界・無色界)の一。物質的な制約は残るものの、淫欲と食欲を離れた生きものが住む世界で、精神統一の状態(色界定?)としての色界を指す場合と、そのような場所そのものを指す場合とがある。色界の天を四禅天、無色界の天を四無色天などという。そして色界の四禅天と無色界の四無色天は、天界として生まれ変わる場所であるが、同時に禅定の境地をも意味している。このように輪廻を繰り返す外界としての世界と、禅定の境地を表す内なる世界とが密接に結びついている点は仏教の世界観の特徴といえる。また仏典においては、三界は煩悩に縛られ輪廻にさまよう場所であるから厭うべきものとされ、そこから速やかに抜け出すことが説かれている。浄土宗においては阿弥陀仏の本願を信じて称名念仏を修して往生することこそが三界を出離するために必要なこととされる。

 

無色界⇒欲望も物質的条件も超越し、ただ精神作用にのみ住む世界であり、禅定に住している世界。下から空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処の4つがある

 

空無辺処⇒定を抑える一切の想を滅し、虚空(Ākāśā;何もない)に果てがない(無辺; anattā)であると思惟する定

 

識無辺処⇒識(ヴィニャーナ)に果てがない(無辺)であると思惟する定

 

無所有処⇒何物も無しと思惟する定

 

・非想非非想処⇒非有想非無想処とも。何物も無しと思惟する定を超えて極めて昧劣(まいれつ)な想のみが存在する定。有における天界の最上部であるため、有頂天とも呼ばれる。

 

禅那(ぜんな)⇒〉dhyānaの音写。ディヤーナ。「瞑想」「静慮」などを表す言葉。定(じょう)・静慮(じょうりょ)などと訳す

 

⇒①さだめる。さだまる。きめる。きまる。②しずめる。しずまる。③おちつく。動かない。④さだめ。きまり。おきて。⑤さだめて。必ず。⑥じょう。仏教で、雑念を断って無念無想になること。

 

・五神通⇒仏語。禅定を修めることなどによって得る五種の不思議な超人的はたらき。思いどおりのところに行ったり、心のままに境界を変えたりすることのできる神足通(神境通)、遠近粗細の境が見わけられる天眼通、三界の声が聞こえる天耳通、他人の心を知ることができる他心通、過去の一切がわかる宿命通の五つ。五通。

 

・於⇒意義 ~に於て。場所、時間、場合、事柄、仮定条件を表す。

 

・問取⇒取は助字であり、「問」は、問うの意。質問すること。

 

・参ずる⇒1 上位者の所に「行く」また「来る」の意の謙譲語。参上する。まいる。うかがう。2 一員として加わる。参加する。3 参禅する。「夏行(げぎょう)に—・ずる」

 

安居⇒安居(あんご)とは、それまで個々に活動していた僧侶たちが、一定期間、1か所に集まって集団で修行すること、およびその期間のことを指す。雨期を意味する梵語(サンスクリット)の vārsika (または varsa 〈ヴァルシャ〉)、パーリ語での vassa を漢語に訳したものである。

 

本来の目的は、雨期には草木が生え繁り、昆虫、蛇などの数多くの小動物が活動するため、遊行(外での修行)をやめて1か所に定住することにより、小動物に対する無用な殺生を防ぐことである。後に、雨期のある夏に行うことから、夏安居(げあんご)、雨安居(うあんご)とも呼ばれるようになった。

 

示衆⇒師家が学人に対して説法し指導すること。示衆の方法は、口頭で説法する他にも、文書を読み上げたりはせずに、書いた文章を弟子に渡すということもあったと推察されている。

 

 

意 訳

 先師古仏であらせらる如浄禅師がこう言われた。この身は全く、口に似て虚空に掛かっている。そして風鈴の様に東西南北、どの方向から吹いてくる風であろうと、等しく風鈴は、自身の音色を出すように、この身は他と般若を談ずる。

 これが仏祖から代々、正しく伝わってきた般若を談ずるというありようである。そしてこの時、身全体が般若であるだけではなく、自身全体が般若であり、自己以外の全て全体が般若であり、東西南北全体が般若である。

 

 釈迦牟尼仏は次の様に言われた。「舎利子よ、この諸々の有情は、般若波羅蜜多について、仏がおられるがごとくに供養し、礼敬すべきである。般若波羅蜜多を思惟するのは、世尊を供養し礼敬するがごとくに思惟すべきである。世尊は般若波羅蜜多に異なるものではない。般若波羅蜜多は、世尊である。世尊は般若波羅蜜多である。なぜなら、舎利子よ、仏の称号である如来、応、正等覚といったものは一切般若波羅蜜多によって出現することを得るからであり、舎利子よ、菩薩摩訶薩、独覚、阿羅漢、不還、一来、預流等一切が般若波羅蜜多によって出現することを得るからである。舎利子よ、一切世間の十善業道、四静慮(しじやうりよ)・四無色定・五神通、皆般若波羅蜜多によって出現することを得るからである。

 

 そうであればつまり、世尊は般若波羅蜜多であり、般若波羅蜜多は諸法(ここでは私たちの認識の対象となる一切の存在する物、事くらいの意に受け取っておきます)である。そして、この諸法は空相であり、不生不滅、不垢不浄、不増不減である。この般若波羅蜜多が現成することは、世尊が現成することである。世尊に問いかけなさい、世尊のところへ出向きなさい。般若波羅蜜多を供養礼敬することは、世尊にお目にかかり、御用を承(うけたまわ)ることである。御用を承(うけたまわ)るところの世尊である。

 

 

ときに1233年夏安居の日、観音導利院において、示衆す。

   1244年3月21日越前吉峰精舎にてこれを書写す 懐奘

 

感 想

・道元禅師の言われている「般若」とはなんだろう。仏道の視点からみたというか、仏道にのっとった物、事一切は般若であり、そしてそれは悟りにいたるのに必要なものとも言える。そう思った。

 般若波羅蜜多について、巻の最初のほうで、六根、六境という心の働きを生じさせるもの、そして過去、現在、未来、そして阿耨多羅三藐三菩提という仏の悟りを般若波羅蜜多と言っていた。今回取り上げた文章では、般若波羅蜜多は仏薄伽梵であり、諸法であると言っている。そして、諸々の物事がここから出現することを得たといっている。般若波羅蜜多は般若がどんどん研ぎ澄まされていったものという感じのものであり、般若の土台になるものでもあるという感じかな。

 テキトウな解釈だが、今はそう解釈している。

 

・私たちは、時に神社、寺院、墓前で神に、仏に、霊に向かって、供養、礼敬する。供養、礼敬によって結ばれる。それによってしか結ばれる道はないんじゃないだろうか。願掛けによっても結ばれるのだろうか。願いがすべてを生み出してくる。神、仏、霊を。だが供養、礼敬には自我(自己本位のセンス)は働かない。願いには自我がある。………。

 お目にかかれたなら、何事かを承るのですね。(「承る」⇒他人から何かを受け取ったり、相手の意志や意見を理解し受け入れたりする行為を指す。)

 

・風鈴はこんな音を鳴らしてやろうと思って、鳴るわけではない。それは自己を忘れて、万法に証せられている姿といえる。虚空に掛かっている。悟りの姿である。

 

・「渾身般若なり、渾他般若なり、渾自般若なり、渾東西南北般若なり。」 渾という字には、独特な意味合いがあると思うのだが、全身全霊とか、ひとつ残らずすべてとか、身心脱落しているとか、いろいろ考えたのだが良くわからなかった。

 

・道元禅師は、「般若心経」の最後の方の「故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪是 無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 」については、言及されていないと思う。

 

 摩訶般若波羅蜜1(般若心経って?)で、代表的な翻訳として

『それゆえに知るべきである。「智慧の完成」は大いなる真言(mantro)であり、大いなる明らかな智慧の真言であり、この上ない真言であり、すべての苦しみを鎮める。それは、並ぶもののない真言であり、誤つことなきがゆえに真実である。「智慧の完成」において、真言が誦される。すなわち(tadyathā)、

gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā!

(行った、行った、向こうの岸に行った。向こうの岸に完全に至った。悟りよ、幸いあれ!)と』と載せたが、

 gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā!の部分は、私なりには「わかった、わかった、すっかりわかった、智慧よ、悟りよ、感謝いたします。」というくらいの意味かなと思っている。何か今でいうイメージトレーニングのように感じられる。

 この真言の部分が般若心経で最も大切なことをいっていると受け取る方達も居られるようだが、………。

 

 

 

 

<天帝釈、具寿善現(ぐじゅぜんげん)に問うて言く、「大徳、若(も)し、菩薩摩訶薩、甚深般若波羅蜜多を学せんと欲(おも)はば、まさに如何(いかん)が学すべき」>

 

<善現答(こた)へて言く、「憍尸迦(きょうしか)、もし菩薩摩訶薩、甚深般若波羅蜜多を学せんと欲はば、まさに虚空の如く学すべし」>

 

   しかあれば、「学般若」これ「虚空」なり、「虚空」は「学般若」なり。

<天帝釈、また仏に白(まう)して言(まう)さく、「世尊、若し善男子善女人等、此の所説の甚深般若波羅蜜多に於て、受持読誦し、如理思惟し、他の為に演説せんに、我れまさに云何(いかん)が守護すべき。ただ願はくは世尊、哀(あい)を垂れ示し教へましませ。>

 

<爾(そ)の時に具寿善現、天帝釈に謂つて言く、「憍尸迦、汝、法の守護すべき有るを見るや否や」>

 

<天帝釈言く、「不(いな)や、大徳、我れ法の是れ守護すべき有ることを見ず」>

 

<善現言く、「憍尸迦、若し善男子善女人等、是(かく)の如くの説をなさば、甚深般若波羅蜜多、即(これ)守護すべし。若し善男子善女人等、所説の如くなさば、甚深般若波羅蜜多、常に遠離(おんり)せず。まさに知るべし、一切人非人(にんひにん)等、其の便(たより)を伺求(しぐ)して、損害を為さんと欲(せ)んに、終に得ること能(あた)はじ。

憍尸迦、若し守護せんと欲(おも)はば、所説の如くなすべし。甚深般若波羅蜜多と、諸菩薩とは異なること無し、欲守護虚空と為す」>

 

  しるべし、受持読誦、如理思惟、すなはち守護般若なり。「欲守護」は「受持読誦」等なり。

 

 

用語について

・天帝釈⇒仏教を守護する神。仏教の世界観では、須弥山(しゅみせん)の頂に住し、居城を善見城(ぜんけんじょう)という。

 

・梵王(ぼんおう)⇒梵天王のこと。仏教の世界観において最高位の一つである梵天界の主である。十二天の一尊として天(上)を守護する。梵はブラフマン(brahman)の漢訳。帝釈天と対になって祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。

 

・具寿善現(ぐじゅぜんげん)⇒須菩提(しゅぼだい)のこと。須菩提は原語の「スプーティー」の音写であり、善現はその意訳である。具寿は尊称。仏十大弟子中、解空(げくう)第一の人。ちなみに「西遊記」の孫悟空の師匠も須菩提である。

 

・憍尸迦(きょうしか)⇒帝釈が人間であった時の姓。

 

・摩訶薩⇒『般若経』に頻出する仏教用語で、必ず菩薩(サンスクリット:Bodhisattva、ボーディサットヴァ)と一緒に菩薩摩訶薩というかたちで使われる。その意味は、菩薩は「覚りを求める衆生」であり、摩訶薩は「偉大な衆生」である。『般若経』成立以前の、般若経典編纂者たちのいわゆる小乗仏教時代の菩薩という用語は、成道以前の釈迦の称号であったが、『般若経』では『覚りを求める衆生』と意味が拡張され、大乗仏教の立場で覚りを求める意義を強調するために摩訶薩を付加するようになった。

 

・虚空⇒①天空や空中を表す言葉であるが、広大無辺の空間が、一切の存在を包容して障害とならないことを称した言葉。悟りを意味する。

②虚しいこと。空無、虚無。

 道元禅師は、仏祖及びその言葉とは虚空が現実化した存在であるとされる。

 

感 想

1 「もし菩薩摩訶薩、甚深般若波羅蜜多を学せんと欲はば、まさに虚空の如く学すべし」とあるが、虚空を学すのか虚空が学すのか、どちらなんだろうと思ったのだが、私は「虚空が学するが如くに甚深般若波羅蜜多を学しなさい」という意味に解した。理由は、自分勝手な視点ですが、その方が私には意味があるから。

 

 私の母親はたいへん信仰心のある人だったので、小さい頃は、仏壇の前でお参りしている母の隣に座って、時々一緒にお参りしていたものだ。そんなこともあって、般若心経と阿弥陀経は、私にはなじみのあるお経であり、今では私が仏前やお墓参りで、般若心経を読誦している。ただ私と仏教との関係といったらその程度のものだ。(僧侶や仏教学者ではない世間一般の人も同じだと思うが) 仏教の中身はほとんど何も知らない。

 

 時間に余裕ができたら、正法眼蔵をじっくり読んでみたいと昔思ったことがあり、今そうしているのだが、用語を調べたり、仏教の考え方や道元禅師が言われていることはどういうことかとその意味を考えていても、こう言ってはなんだが、どうも心がすっきりしない。

 

 読まないで離れていると、それはそれで心が荒れやすくなる感じもあり、読むことの意味がないとは思わないが、読んでいても小我の殻が薄くなるということはなく、反って、理解しよう、解釈しようという執着心が強くなって、よくないなあと自分を振り返って感じている。

 

 アランはどこかで、「人を健康にしない考えは、どこか間違っている」といったこと(私の曲解かもしれない)を書いていたと記憶している。坐禅(私のしているのが坐禅といえるか疑問ではあるが)はとても大切なものだ、これは間違いないと実感しているのだが、本は読んでいても気持ちが晴れてくるということはない。

 

 なぜだろう?私の解釈なり理解に間違いがあるからか?それとも学び方に問題があるからか?と思うことがよくある。

 

 今回の引用した文章を読んでいて、当たり前のことではあるが、気づいたというか気づかなかったことがある。

 

 それは道元禅師が参学せよと言われるときの参学というのは、参禅学道のことであり、参禅(坐禅)して仏道を学ぶことだ。机に向かって、お経やその論についての本を読んで、文章の意味を理解することではない。それは経師、論師として、禅師は非難している。

 

 仏教の瞑想法には2種類あるようだ。

①   止(サマタ、samatha)瞑想 心を何かに集中し、一体化して雑念を静める瞑想法。止(サマタ、samatha)瞑想は雑念を禁止する坐禅の瞑想といえる。

②   観 (ヴィパッサナー、vipassana)瞑想 自分の心身や外界の絶え間ない変化をありのままに観察し、分析する瞑想法

 

 般若心経の最初で「観自在菩薩行甚般若波羅蜜多時…」というのは、②の観瞑想を行じていたということだろうし、それが参学というものだと思う。

 

 また、現成公案の巻に「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。………」という文章があるが、そういう状態で学することが大切なのだろう。それが虚空の如く学すということでもあると思う。難しいことではあるが。

 

 結局は、基本的なこと、禅師がこれまでも何回もおっしゃっていたことを、私は素通りしていたわけで、私の学び方が間違っているのだ。

 

2 『これ「虚空」なり、「虚空」は「学般若」なり。』は、学する般若を虚空と言い、虚空は学をする般若であると言っているのか。

 

3 天帝釈が守護しようと欲している対象は、善男子善女子等でよいのか。

「法の守護すべき有るを見るや否や」というのは、守護すべき法というのは有るのかと言っているのか。

 そして、善男子善女子等が甚深般若波羅蜜多に於いて、受持読誦し、如理思惟するなら、甚深般若波羅蜜多は、善男子善女人等を離れることなく、守護する。それは、諸菩薩と何ら変わることはない。だから、天帝釈が守護しようと思うなら、甚深般若波羅蜜多のように、虚空の如く守護しなさい。<欲守護虚空と為す>

 

 そして、受持読誦、如理思惟という行為が守護するのであり、それは守護する般若と言えるし、守護せんと欲(おも)っているのは「受持読誦」等と言ってよい。

 

 かなり、苦しいですが、とりあえず今はこう解釈した。

 私が読んでいる岩波文庫「正法眼蔵」道元著 水野弥穂子校注の本文には漢文も記載されているが、ここでは省略した。なお、<>内の文章は、校注者による省略した漢文の訓読文です。

 

 

<釈迦牟尼如来の会中(ゑちゅう)に一(ひとり)の苾蒭(びっすう)あり、竊(ひそ)かに是の念をなさく、「我れ甚深般若波羅蜜多を敬礼すべし。此の中に諸法の生滅無しと雖も、而も戒蘊・定蘊・慧蘊・解脱蘊・解脱知見蘊の施設可得(しせつかとく)有り、また預流果(よるか)・一来(いちらい)果・不還(ふげん)果・阿羅漢果の施設可得有り、また独覚菩提の施設可得有り、また無上正等菩提の施設可得有り、また仏法僧宝の施設可得有り、また転妙法輪・度有情類の施設可得有り」>

 

<仏、其の念を知(しろしめ)して、苾蒭に告げて言(のたまは)く、「是(かく)の如し、是の如し。甚深般若波羅蜜は、微妙なり、難測なり」>

 

    而今(しきん)の「一苾蒭」の「竊作念(せつさねん)」は、「諸法」を「敬礼(きょうらい)」するところに、雖無生滅(すいむしょうめつ)の般若、これ敬礼なり。

この正当敬礼時(しょうとうきょうらいじ)、ちなみに「施設可得」の般若現成せり。いはゆる「戒定慧」乃至「度有情類」等なり、これを無といふ。無の施設、かくのごとく可得なり。これ「甚深」「微妙難測」の般若波羅蜜なり。

 

用語について

苾蒭⇒比丘に同じ。出家の仏弟子。

五分法身⇒戒・定・慧・解脱・解脱知見(解脱の確認・自覚)という五つの性質を五分法身といい、蘊、五分、五支、五衆とも略称される。(戒を保ち、定を得、慧を得て解脱を得、解脱知見を得た法身)。有情の体は有漏五蘊(色・受・想・行・識)であるのに対し、聖者(無学位阿羅漢・仏)は五分を順次成就し、五分を体とすることから、その体は無漏五蘊といわれる。

 

むろ・うろ/無漏・有漏⇒無漏とは単に煩悩を増大させないものと、煩悩や業を滅ぼすように働きかけるもの。有漏とは煩悩の対象となり、または他の煩悩に働きかけて、煩悩を増大させるもの。

 

ぼんのう/煩悩⇒苦しみを引き起こす原因であり、身心をわずらわせ、悩ませ、汚し、束縛し、覆う精神作用のこと。 

 

預流果・一来果・不還果・阿羅漢果⇒悟りに至る各段階の境地。

 

施設⇒仏教で「仮の指定・設定」といった原義の語であり、「概念」を意味する語。仮設・仮説(けせつ)、説仮(せつけ)、仮名(けみょう)等とも。

 

独覚⇒独力でさとりに向かい、さとりを開いた人。縁覚(えんがく) 、辟支仏(びゃくしぶつ)とも

 

敬礼(きょうらい)⇒敬って礼拝すること。またその礼拝をいう。

 

三宝⇒仏教徒が帰依すべき三つの宝、すなわち仏・法・僧のこと。仏とはさとりを開いたもの、法とは仏によって説かれた教え、僧とはその教えに従って生活する集団である。

 

⇒「わたる」「到る」の意味から、Ⓢpāramitā(波羅蜜、到彼岸)の訳語ともなる。また調伏(教化)の概念とも結びついて、諺に「縁なき衆生は度し難し」といわれるごとく、仏典では「救済」の意味でも使用される。その場合はⓈ√tṛīに対応する。

 

感 想

 

1      前半の<>内の文章は「大般若経」の中の「著不著相品(じゃふじゃそうほん)からの

    引用だが、「此の中に諸法の生滅無しと雖も………」というのは、「甚深般若波羅蜜

    に於いては、諸法は空であり、実体(自性)のないものだが、同時にそうした空におい

    ても、戒定慧度有情類といったもろもろのものごとが、施設(概念)として得ること

    ができるとは、甚深般若波羅蜜はありがたいものだなあ、敬礼しなければならない

    なあと言っているのかなあと感じた。

 

2   また、この苾蒭(びっすう)がひそかに甚深般若波羅蜜を敬礼しているのは、諸法が

     生滅無し(諸法は空である)であるとひろく言われているのに対し、それでももろもろ

     の施設可得があると違ったふうに観ているからで、それは諸法を大事にし、敬礼し  

     ているからだ、敬礼することが、何もかもの基になるくらいに大切なんだと言って

     いるように感じた。

 

     そこから自分なりに考えを広げて、こうして生きている世界が根本的には空であ

    るという考えには、苦を抜く力があるが、しかし、なにもかもが抜け落ちてしまう

     ように感じる。生きている現実を疎かにしてはいけないし、意味を持たせたいとも         思う。空と私たちが普通に持つ現実感覚とのバランスが大切だと感じる。

 

           俳優が役を演じるように人生を生きる。虚にいて実を行う。………。

       数学者の岡潔さんの本のなかで、はっきりとは思い出せないが「人類の進歩は、情 

       緒を浄く、澄んだものにしていくことだと思う」ということが書かれていたように

       記憶している。人類に進歩というものがあると仮定したなら、こんなに良いものは

       ないと思う。私にとっては元気のでる言葉であり、これを実にしたいとはずかしな

       がら思っている。

 

3          現成公案3で引用した文章に「……水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらを

         かんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず,ところをうべか

         らず。このところをうれば、この行李<あんり>したがひて現成公案す。このみち

         をうれば、この行李したがひて現成公案なり。……」

 

              私は、上記の文章を「そうであるから,水,空を究めた後に,水,空を行く行

          為を真似しようとする魚,鳥がいたなら,水にも空にも行く道を,そして生きる

          所も得ることができない。究めてからというのは無理な話なのだ。生きる所を,

          行く道を得て,道を生きるなかで所が,道が究まるのだ。もしこの水,空という

          所を得れば,魚,鳥の日常の営みが,彼らにとって解決しなければならない大切

          な問題を現出させることになる。また,その所を得た魚、鳥が水の道,空の道を

          得たなら 日常の営みこそが,かれらが解かなければならない現出した問題なの

           だ。」とテキトウな解釈をしたが、人においてもまづは、日常生活をしっかり生 

           きることだと思う。ただ、道元禅師は、人においては、仏道という道を修証する

            ことが大切であると言われるだろうが………。

 

4       ある方がキリスト教における神学について、どうしてこうも神というものをよ

     く知っているのか、神というのは、人智を絶したものでしょうが…。と言って

   いるのを聞いたことがあるが、私は神学のことはまったく知らないが、この言

              葉に共感する。、煩悩や無明の中にいる私たちに教えるのに、こういう表現がよ

              いだろうという方便として神を語るのは、分かるのだが。仏教においても、あ

              まりにも知りすぎているという点はないのだろうかと思うことはある。 

  

                   お釈迦さまは、一切ご自身で記録を残されなかったという。お釈迦さまがお 

               亡くなりになった後、沢山のお弟子たちが集まり、お釈迦さまの教えを後の人

               たちのために残すため、代表の一人が、説法を「このように私は聞きました」

               と語り、その内容に間違いないか五百人で徹底討議して、その結果として全員

                一致したものを記録として残していったと伝えられているようだ。その経典に

                ついて、いろいろな論がでて、いろいろな宗門ができたということでしょう。