今回も用語の説明がかなり多いです。引用元は略しました。文字数6千5百ほどのブログになってしまいました。
用語について
・先師古仏⇒天童如浄禅師。続く文章は 「如浄語録下、風鈴頌(ふうりんしょう)」
・滴丁東了滴丁東(ていちんとんりやんていちんとん)⇒風鈴の擬声語。
・薄伽梵(ばがぼん)⇒薄伽梵は、梵語バガヴァット(bhagavat)の音写(婆伽婆とも)。世尊(世界中でもっとも尊い者)と意訳する。徳や名声のある人という意味もある。
・仏陀⇒ブッダ(梵: Buddha)は、サンスクリット語の「知る」「目覚める」を意味する動詞ブドゥ(梵: budh)の過去分詞形で、「目覚めた者」や「真理、本質、実相を悟った人」、「覚者」・「智者」と訳す。「正覚者」のことであり、聖人・賢者をブッダと呼ぶようになった。
悟りの最高位「仏の悟り」を開いた人を指す。歴史的には実在した釈迦を意味するブッダ(「仏陀」は漢字による音写の一つ。また、仏という漢字は末尾の母音の脱落などがあり「ブト」と省略され、それに「仏(佛)」の音写が当てられたとの考え方がある)という呼称は、インドでは仏教の成立以前から使われていた。釈迦が説いた原始仏教では、仏陀は「目覚めた人」を指す普通名詞であり、釈迦だけを指す固有名詞ではなかった。現に原始仏典にはしばしば仏陀の複数形(buddhā)が登場する。しかし釈迦の死後、初期仏教では、仏教を開いた釈迦ただ一人が仏陀とされるようになった。初期の大乗経典でも燃燈仏や過去七仏や、弥勒菩薩が未来に成仏することなど過去や未来の仏陀の存在を説いたものもあるが、現在の仏陀は釈迦一人だけであり、釈迦の死後には現在まで現れていないとされている。また、多くの仏教の宗派では、「ブッダ(仏陀)」は釈迦だけを指す場合が多く、悟りを得た人物を意味する場合は阿羅漢など別の呼び名が使われる。ただし大乗仏教においては、涅槃教や法華経などの経典により、人は誰にも平等に仏性が備わっているとされ、将来的には誰もが仏になることができるともされている。
大乗仏教では三身説をとるが、姿・形をもたない宇宙の真理たる法身仏、有始・無終の存在で衆生を救う仏である報身仏(人間に対する方便として人の姿をして現れることもある)に対して、応身仏である釈迦如来は衆生を救うため人間としてこの世に現れた仏であると説明される。
仏教の教義上、悟りを得て解脱した者は皆 六神通を使えるようになるが、社会の混乱をきたすため六神通をむやみに濫用してはならないとされている
・釈迦⇒ネパール南部がインド大平原に連なるあたりに位置したカピラ城を中心に、サーキヤSākiya, Śākya人の小国があり、その国王の浄飯王(じょうばんのう)Śuddhodanaの長子として、生まれた。釈迦の呼称はこの種族名に由来し、尊称して釈迦牟尼(むに)(ムニmuniは聖者)とよばれ、釈尊と漢訳する。姓はゴータマGotama, Gautama(瞿曇(くどん)と音写)、名はシッダッタSiddhattha、シッダールタSiddhārtha(悉達多(しっだるた)と音写)という。多くは、覚者(悟った人)を表す普通名詞を固有名詞化して、仏陀(ブッダBuddha)または仏とよばれ、これが転訛(てんか)して日本では「ほとけ」となる。さらに如来(にょらい)(タターガタTathāgata、真理の完成者)や勝者(しょうじゃ)(ジナGina)その他、多数の名でよばれ、これを名号(みょうごう)と称する。
・受持⇒①教えを受けたならば、記憶していくこと。受け持つこと。
②非常に強い信心を持って、大乗の経典などを自己の所有とすること。受持・読・誦・解説・書写(・広説)は、大乗経典の功徳を発すとされる。
・如来応正等覚⇒それぞれ①如来②応供おうぐ(阿羅漢、供養されるべき人)③正遍知(正しくさとった人。等正覚、正等覚ともいう
・じゅうごう/十号⇒仏の一〇種の称号。仏の十号、如来の十号ともいう。それぞれ①如来②応供おうぐ(阿羅漢、供養されるべき人)③正遍知(正しくさとった人。等正覚、正等覚ともいう)④明行足(智慧と行いを具えた人)⑤善逝ぜんぜい(よくさとりに達した人)⑥世間解(世間を知った人)⑦無上士(最高の人)⑧調御丈夫じょうごじょうぶ(人を巧みに指導する人)⑨天人師(神々と人間の師たる人)⑩仏世尊、という称号である。仏世尊を仏と世尊に分ける場合もあり、その場合は一一の称号があることになるので、経典によっては一〇種にするためにいずれかを一つにまとめている。
・十善業道⇒仏教徒がなすべき十の善き行い。十善戒に同じ。不殺ふせつ・不盗ふとう・不邪婬ふじゃいん・不妄語ふもうご(嘘をつかない)・不両舌ふりょうぜつ(他人を仲違いさせるようなことを言わない。)・不悪口ふあっく・不綺語ふきご・不貪欲ふとんよく・不瞋恚ふしんに(激しい怒りをいだかない。)・不邪見ふじゃけん(因果の道理を無視した誤った見解を持たない。)
・四静慮(しじやうりよ)⇒初静慮・第二静慮・第三静慮・第四静慮の四つに分類される、禅定の境涯のこと。ここでいう静慮とは禅定と同義で、心を静めて集中し、良く対象を思慮することである。なお、四静慮と呼称される場合は、欲界を超えて色界の四禅天に至った禅定を指す。
・境涯⇒立場、地位、身分、身の上、境遇
・欲界⇒欲界とは、三界の最も下にあり、淫欲・食欲の2つの欲を有する生き物の住む世界である。欲の盛んな世界のこと。この中に六道がある。そして、欲界の天を、六天(六欲天)という。
・色界⇒三界(欲界・色界・無色界)の一。物質的な制約は残るものの、淫欲と食欲を離れた生きものが住む世界で、精神統一の状態(色界定?)としての色界を指す場合と、そのような場所そのものを指す場合とがある。色界の天を四禅天、無色界の天を四無色天などという。そして色界の四禅天と無色界の四無色天は、天界として生まれ変わる場所であるが、同時に禅定の境地をも意味している。このように輪廻を繰り返す外界としての世界と、禅定の境地を表す内なる世界とが密接に結びついている点は仏教の世界観の特徴といえる。また仏典においては、三界は煩悩に縛られ輪廻にさまよう場所であるから厭うべきものとされ、そこから速やかに抜け出すことが説かれている。浄土宗においては阿弥陀仏の本願を信じて称名念仏を修して往生することこそが三界を出離するために必要なこととされる。
・無色界⇒欲望も物質的条件も超越し、ただ精神作用にのみ住む世界であり、禅定に住している世界。下から空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処の4つがある
・空無辺処⇒定を抑える一切の想を滅し、虚空(Ākāśā;何もない)に果てがない(無辺; anattā)であると思惟する定
・識無辺処⇒識(ヴィニャーナ)に果てがない(無辺)であると思惟する定
・無所有処⇒何物も無しと思惟する定
・非想非非想処⇒非有想非無想処とも。何物も無しと思惟する定を超えて極めて昧劣(まいれつ)な想のみが存在する定。有における天界の最上部であるため、有頂天とも呼ばれる。
・禅那(ぜんな)⇒〉dhyānaの音写。ディヤーナ。「瞑想」「静慮」などを表す言葉。定(じょう)・静慮(じょうりょ)などと訳す
・定⇒①さだめる。さだまる。きめる。きまる。②しずめる。しずまる。③おちつく。動かない。④さだめ。きまり。おきて。⑤さだめて。必ず。⑥じょう。仏教で、雑念を断って無念無想になること。
・五神通⇒仏語。禅定を修めることなどによって得る五種の不思議な超人的はたらき。思いどおりのところに行ったり、心のままに境界を変えたりすることのできる神足通(神境通)、遠近粗細の境が見わけられる天眼通、三界の声が聞こえる天耳通、他人の心を知ることができる他心通、過去の一切がわかる宿命通の五つ。五通。
・於⇒意義 ~に於て。場所、時間、場合、事柄、仮定条件を表す。
・問取⇒取は助字であり、「問」は、問うの意。質問すること。
・参ずる⇒1 上位者の所に「行く」また「来る」の意の謙譲語。参上する。まいる。うかがう。2 一員として加わる。参加する。3 参禅する。「夏行(げぎょう)に—・ずる」
・安居⇒安居(あんご)とは、それまで個々に活動していた僧侶たちが、一定期間、1か所に集まって集団で修行すること、およびその期間のことを指す。雨期を意味する梵語(サンスクリット)の vārsika (または varsa 〈ヴァルシャ〉)、パーリ語での vassa を漢語に訳したものである。
本来の目的は、雨期には草木が生え繁り、昆虫、蛇などの数多くの小動物が活動するため、遊行(外での修行)をやめて1か所に定住することにより、小動物に対する無用な殺生を防ぐことである。後に、雨期のある夏に行うことから、夏安居(げあんご)、雨安居(うあんご)とも呼ばれるようになった。
・示衆⇒師家が学人に対して説法し指導すること。示衆の方法は、口頭で説法する他にも、文書を読み上げたりはせずに、書いた文章を弟子に渡すということもあったと推察されている。
意 訳
先師古仏であらせらる如浄禅師がこう言われた。この身は全く、口に似て虚空に掛かっている。そして風鈴の様に東西南北、どの方向から吹いてくる風であろうと、等しく風鈴は、自身の音色を出すように、この身は他と般若を談ずる。
これが仏祖から代々、正しく伝わってきた般若を談ずるというありようである。そしてこの時、身全体が般若であるだけではなく、自身全体が般若であり、自己以外の全て全体が般若であり、東西南北全体が般若である。
釈迦牟尼仏は次の様に言われた。「舎利子よ、この諸々の有情は、般若波羅蜜多について、仏がおられるがごとくに供養し、礼敬すべきである。般若波羅蜜多を思惟するのは、世尊を供養し礼敬するがごとくに思惟すべきである。世尊は般若波羅蜜多に異なるものではない。般若波羅蜜多は、世尊である。世尊は般若波羅蜜多である。なぜなら、舎利子よ、仏の称号である如来、応、正等覚といったものは一切般若波羅蜜多によって出現することを得るからであり、舎利子よ、菩薩摩訶薩、独覚、阿羅漢、不還、一来、預流等一切が般若波羅蜜多によって出現することを得るからである。舎利子よ、一切世間の十善業道、四静慮(しじやうりよ)・四無色定・五神通、皆般若波羅蜜多によって出現することを得るからである。
そうであればつまり、世尊は般若波羅蜜多であり、般若波羅蜜多は諸法(ここでは私たちの認識の対象となる一切の存在する物、事くらいの意に受け取っておきます)である。そして、この諸法は空相であり、不生不滅、不垢不浄、不増不減である。この般若波羅蜜多が現成することは、世尊が現成することである。世尊に問いかけなさい、世尊のところへ出向きなさい。般若波羅蜜多を供養礼敬することは、世尊にお目にかかり、御用を承(うけたまわ)ることである。御用を承(うけたまわ)るところの世尊である。
ときに1233年夏安居の日、観音導利院において、示衆す。
1244年3月21日越前吉峰精舎にてこれを書写す 懐奘
・感 想
・道元禅師の言われている「般若」とはなんだろう。仏道の視点からみたというか、仏道にのっとった物、事一切は般若であり、そしてそれは悟りにいたるのに必要なものとも言える。そう思った。
般若波羅蜜多について、巻の最初のほうで、六根、六境という心の働きを生じさせるもの、そして過去、現在、未来、そして阿耨多羅三藐三菩提という仏の悟りを般若波羅蜜多と言っていた。今回取り上げた文章では、般若波羅蜜多は仏薄伽梵であり、諸法であると言っている。そして、諸々の物事がここから出現することを得たといっている。般若波羅蜜多は般若がどんどん研ぎ澄まされていったものという感じのものであり、般若の土台になるものでもあるという感じかな。
テキトウな解釈だが、今はそう解釈している。
・私たちは、時に神社、寺院、墓前で神に、仏に、霊に向かって、供養、礼敬する。供養、礼敬によって結ばれる。それによってしか結ばれる道はないんじゃないだろうか。願掛けによっても結ばれるのだろうか。願いがすべてを生み出してくる。神、仏、霊を。だが供養、礼敬には自我(自己本位のセンス)は働かない。願いには自我がある。………。
お目にかかれたなら、何事かを承るのですね。(「承る」⇒他人から何かを受け取ったり、相手の意志や意見を理解し受け入れたりする行為を指す。)
・風鈴はこんな音を鳴らしてやろうと思って、鳴るわけではない。それは自己を忘れて、万法に証せられている姿といえる。虚空に掛かっている。悟りの姿である。
・「渾身般若なり、渾他般若なり、渾自般若なり、渾東西南北般若なり。」 渾という字には、独特な意味合いがあると思うのだが、全身全霊とか、ひとつ残らずすべてとか、身心脱落しているとか、いろいろ考えたのだが良くわからなかった。
・道元禅師は、「般若心経」の最後の方の「故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪是 無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 」については、言及されていないと思う。
摩訶般若波羅蜜1(般若心経って?)で、代表的な翻訳として
『それゆえに知るべきである。「智慧の完成」は大いなる真言(mantro)であり、大いなる明らかな智慧の真言であり、この上ない真言であり、すべての苦しみを鎮める。それは、並ぶもののない真言であり、誤つことなきがゆえに真実である。「智慧の完成」において、真言が誦される。すなわち(tadyathā)、
gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā!
(行った、行った、向こうの岸に行った。向こうの岸に完全に至った。悟りよ、幸いあれ!)と』と載せたが、
gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā!の部分は、私なりには「わかった、わかった、すっかりわかった、智慧よ、悟りよ、感謝いたします。」というくらいの意味かなと思っている。何か今でいうイメージトレーニングのように感じられる。
この真言の部分が般若心経で最も大切なことをいっていると受け取る方達も居られるようだが、………。