用語について
・大満禅師⇒主に中国禅宗の五祖である弘忍(ぐにん/こうにん)に贈られた諡号(しごう)として知られている。 (AIの回答より)
・諡号⇒貴人・僧侶などに、その死後、生前の行いを尊んで贈る名。贈り名。
(精選版 日本国語大辞典)
・性海⇒【定義】仏性海のこと。生死する世界の差別相に対し、平等一如の涅槃を大海に喩えた言葉ではあるが、道元禅師はこれが「本覚の性海」などのように用いられ、仏教で否定すべき本体・本我のように捉えることについては『弁道話』、「大修行」「深信因果」巻などで批判している。
(つらつら日暮らしwiki)
・六神通⇒「直接的な知識」「高度な知識」「超常的な知識」のこと。六通ともよばれ、止観の瞑想修行において、止行(禅定)による三昧の次に、観行(ヴィパッサナー)に移行した際に得られる、自在な境地を表現したものである。悟りを開いたブッダ・阿羅漢が備える3つの三種の明知(智慧・解脱知)である三明の宿命知・生死知・漏尽知に他心通・神足通・天耳通を加えて六神通とする
神足通(じんそくつう)⇒自由自在に自分の思う場所に思う姿で行き来でき、思いどおりに外界のものを変えることのできる力。空中飛行や水面歩行、壁歩き、すり抜け等をし得る力。
天耳通(てんにつう)⇒世界すべての声や音を聞き取り、聞き分けることができる力。
他心通(たしんつう)⇒他人の心の中をすべて読み取る力。
宿命(しゅくみょう)通⇒自他の過去の出来事や生活、前世をすべて知る力。
天眼(てんげん)通⇒一切の衆生の業による生死を遍知する智慧。一切の衆生の輪廻転生を見る力
漏尽(ろじん)通⇒煩悩が尽きて、今生を最後に二度と迷いの世界に生まれないことを知る智慧。生まれ変わることはなくなったと知る力。
(wikipedia)
・阿笈摩教⇒『阿含経』にて説かれる教えのこと。「阿笈摩」は「阿含」の別訳。なお、大乗仏教が成立してからは、原始仏教の教えを阿笈摩教として批判した。
(つらつら日暮らしwiki)
・前三三後三三⇒『碧巌録』第三十五則
挙す。文殊、無著(むじゃく)に問ふ。近離什麼(きんりいづれ)の処ぞ。無著云く。南方。殊云く。南方の佛法如何が住持す。著云く、末法の比丘少しく戒律を奉ず。殊云く、多少の衆ぞ。著云く、或は三百或は五百。無著文殊に問ふ、比間如何(すかんいかん)が住持す。殊云く、凡聖同居、龍蛇混雑。著云く、多少の衆ぞ。殊云く、前三三後三三。
私訳
<どこから来たのか? 南方から。南方では仏道はどんな具合だ?仏道は大分衰えまして、多少の僧侶が戒律を奉じて、護持しております。何人ぐらいいるのか?三百人から五百人程度でございます。こちらではどんな具合ですか?凡聖同居、龍蛇混雑だよ。何人ぐらいおられますか?前三三後三三だよ。
・滞累たいるい⇒積もり重なった累(わずら)い。
(普及版 字通)
・朝宗ちょう‐そう〔テウ‐〕⇒読み方:ちょうそう [名](スル)
1 《「朝」は春に、「宗」は夏に天子に謁見する意》古代中国で、諸侯が天子に拝謁すること。
2 多くの河川がみな海に流れ入ること。
3 権威あるものに寄り従うこと。
(デジタル大辞泉)
・付属⇒【定義】他にも附属・附嘱・付嘱などとも書く。仏祖の正法を伝付して、後進にその護持を依嘱すること。
(つらつら日暮らしwiki)
・如是⇒① 経の最初に書かれていることば。また、印可(いんか)のことば。かくのごとく、このように、の意。② 示されたことが仏意にかなっているとして認められること。またその印可のことば。③ 信成就の意で、六事成就の一つ。自己の聞く法に信順すること。④ ( 不変不易の義 ) 真如実相の当体。⑤ 法華経で説く十如是のその一つ一つに冠せられることば。
(精選版 日本国語大辞典)
・六事成就⇒「六事成就」とは、仏教の経典が成立するために必要な6つの条件を指します。これらは経典の冒頭に記され、その教えが信頼できるものであることを示します。
六事成就は以下の6つの要素で構成されます。
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信成就(如是) |
「このように」と信じ受け入れること。阿難が仏の教えを信じたことを示します。 |
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聞成就(我聞) |
「私が聞いた」と、教えを直接聞いた者がいること。阿難が仏の説法を直接聞いたことを指します。 |
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時成就(一時) |
説法が行われた「ある時」を示すこと。感応道交の時を意味します。 |
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主成就(仏) |
説法を行った「仏」がいること。教えの主体が仏であることを示します。 |
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処成就(在某処) |
説法が行われた「場所」があること。耆闍崛山などが例として挙げられます。 |
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衆成就(与衆若干人俱) |
説法を聞いた「大衆」がいること。菩薩や二乗、天人などが含まれます。 |
六事成就の意義
これらの六つの条件が揃うことで、その教えが捏造されたものではなく、信頼に足るものであると証明されます。これは「証信序」とも呼ばれ、後世の人々が経典を信じるための根拠となります。
(以上 AIの回答)
露柱⇒【定義】むきだしになった柱のことで、法堂や仏殿にある円柱のことを指す。瓦礫や灯籠などと同じように、無情・非情な物の喩えに使われて、特に曹洞宗の宗乗では、この露柱こそが仏法を説いている無情説法を会得せんとする。
・挙揚こよう⇒【定義】「挙」も「揚」も、ともに「あげること」の意。仏法を宣揚して(ひろく世の中にあらわして)、人を導くこと。
(以上 つらつら日暮らしwiki)
・たど・る 【辿る】[一]他動詞ラ行四段活用 ①迷いながら行く。②あれこれ思案する。知ろうとする。
(学研全訳古語辞典)>
・投機⇒【定義】修行者が禅の真の精神に契うこと。師家と学人との機が一致統合すること。師家と修行者との心が一致すること。機根に契うこと。
・機根⇒【定義】仏道を修行する能力、またそれを持っている人のこと。
・直趣⇒【定義】悟りに直通であること。なお、道元禅師は「この宗旨は、直趣無上菩提、しばらくこれを恁麼といふ。」(「恁麼」巻)とされて、恁麼ということが、無上菩提に直通であることを示している。いわば、恁麼とは悟りを直趣する言葉である。
(以上つらつら日暮らしwiki)
意 訳
第十二祖馬鳴(めみやう)尊者が十三祖のために仏性海について説くのにこう言われた、「山河大地は皆、仏性海に依って出来上がっている、禅定とその結果得られる神通力は仏性海から発現している」。
そうであるなら、この山河大地は皆仏性海である。「皆依建立」というのは、出来上がっているその時は、仏性海はこの山河大地である。すでに出来上がっているこの山河大地、仏性海のかたちはこのようなものであると知りなさい。さらにこの山河大地の内、外、中間は仏性海とどんな関係があるのだなどと分別心を働かせて思考すべきではない、色眼鏡をつけて見ずにありのままを観なさい。そうであるなら、山河をみるのは仏性をみることであり、仏性をみるのは、ロバのあごや馬の口先をみるのと同じであることに気づく。そして「皆依」という言葉は、全依ということであり、皆というのは、山河大地のみならず、その他すべてということであり、全てが仏性海に依り、また仏性海はこの全てに依っていると理解し、また理解することを止めてただ観ることが大切だ。
「禅定とその結果得られる六神通は、仏性海から発現する」。次のことを知りなさい、諸々の三昧が発現するかしないかは、同じく皆仏性の時節因縁に依る。全ての六神通は、この仏性海によって発現、よらないことで発現しないということ自体が皆仏性に依っている。ここでいう六神通は、単に阿笈摩教が言う六つの神通力のことではない。六というのは数のことではなく、ある基点を設けるとその前(優れている)にも無数にあり、その後(劣っている)にも無数にあるのだが、基点を外してしまえば、優劣のない区別のつかないものが無数にある、そういう意味の六である。そうであればこの六神通はこの上もないものと言ってよい。そうであれば明白になった森羅万象や明らめられた達磨の西来の意味といったものだけを六神通の働きと考えてはいけない。六神通という流れを止めてうまく把握しているが、それでは仏性海に流れ込んでいる六神通の川を詰まらせているようなものだ。
五祖大満禅師(弘忍禅師)は蘄州黄梅(きしうわうばい)の出身である。生まれる前に父を亡くし、幼くして仏の道を得られた。すなわち松を植えるという道である。初め蘄州の西山に住んで松を植えていたが、その時四祖の出遊に出逢った。四祖はその松を植えている者に向かって次のことを告げた、「私はあなたに法を伝えよう、ただあなたは年を取りすぎているので、あなたが生まれ変わってくるのを待つとしよう」。
五祖は四祖の言葉を理解し、やがて周氏家の女のもとで生まれ変わった。女は訳あって、その子(黄梅)を濁り汚れた川の水の出入りするところに捨ててしまった。不思議な力がこの子を守り7日間生き続け、それを見て母はこの子を拾って養った。この子(黄梅)は七歳の時、路上で四祖大医禅師に出逢った。
四祖は、この子(黄梅)を見て、この子は、小児ではあるが、骨相が非常に秀でている、世間一般の童とは異なっていると感じた。
四祖が子を見てこう問いかけた。「姓は何ていうの」。五祖は答えて言った。「姓は即ち有りますが、是れは一般の姓ではありません」。
四祖が言った、「是れは何という姓かね」。
五祖が答えて言った、「是れは仏性」
四祖が言った、「あなたに仏性は無い」。
五祖が返答した、「仏性は実体がなく、縁によって生起するもので自性というものがない、つまり空である。それで無と言ったのですね」。
四祖はこの返答に、この童が法器であることを感得して、侍者として側において、後にこの童に正法眼蔵を伝え、その護持を任せた。黄梅は東山に居を移し、大いに仏祖の奥深い家風を巻き起こした。
上記のやり取りから四祖の言われたことをよくよく考えてみると「四祖いはく汝何性(によかしやう)」という言葉には大切な意味合いがある。昔は何国という国の人がいたし何姓(かしやう)という姓(しやう)もあった。そこであなたは何姓という姓だと言ったのだがそこには「何」という正体の不明なものである意が言下にある。この四祖の言葉は、例えば吾と汝と機根(仏道を修行する能力)を一にしているのだ、と言っているようなものだ。
五祖は答えた、「姓(性)即有、ただ一般でいうところの姓ではない」。つまり、有ると一体となっている姓(性)は、一般で言う姓ではない。常姓は即有(有ることと一体)というのではないのだ。
「四祖が言った、是何姓」とは、何は是(真如としての自己であり、四祖と五祖との間で共通に理解されているもの)である、是を何という言葉で表示した。それが何という姓である。何(その正体が曰く言い難いもの)としたのは、是(真如としての自己)のせいである。是と限定できたのは何と表わしたからである。姓(性)は是であり、何である。このことを肝に銘じて日常の生活をおくることである。
五祖がいった、「是仏性」。この言葉の大切な意味は、是は仏性であり、何と表した点では、是は仏である。ただ、是は何姓だけに究められるものだろうか、そうではないだろう。世間一般の姓(性)としての周でもあるのだ。是は、四祖と五祖が出逢って問答される以前(不是の時)でも仏姓(性)であった。是であろうが不是であろうが仏性であるというのは、是は何であり、仏であると言っても、実体がある訳ではなく、それは必ず姓(性)であるということだ。五祖の場合は周という周家の姓(性)がそれである。その性質は父や先祖から受け継いだものではなく、母親にも似ていない。その性質は世間一般がその外見や身なり等から見てとるところと等しくはないのだ。
四祖が言った、「汝無仏性」。ここで言っていることは、つまり汝はどこそこの~という姓をもった者といっているのではなく、それは汝に任せるとして、ただ汝に仏性は無いと言っているのだ。知りなさい、学びなさい、今はどんな時節で無仏性なのかを。正に仏である時節に無仏性なのか、仏が向上の道にある時節に無仏性なのか。学ぶに際して、あらゆることに通達しているのに、その道を塞いだり、模索したり余計なことはしてはいけない。また無仏性は三昧の境地にいる時が無仏性なのだと習い修めることもある。仏性は仏となった時(仏性と一体になった時)、無仏性なのか、。悟りを得ようとする心を起こした時(仏性を自己の外に区別した時)、無仏性なのかと自問してみなさい、答えてみなさい。露柱にも問わさせなさい、そしてその柱に答えを求めてみなさい、仏性にも問わさせなさい。
そうしてみたならば、無仏性の言葉は、四祖の奥深さから聞こえてくるものなのだ。黄梅が見聞し、趙州に流通し、大潙が挙揚(こやう)した。無仏性という言葉の意味するところをよくよく考えて見なさい、そしてその道を修行し専心しなさい。戸惑ってはいけない。無仏性の言葉と道を思索し、また辿ろうといっても、無仏性は「何」という曰く言い難いものというのが標準であって、汝と言われる時節もあれば、是といって、師と弟子との間で共通して識られもするし、周という世俗の姓をもって生きてもいる、そのどれでもが無仏性にじかに繋がっているのであり、どれであっても、それに精進するなら無仏性に達する道は開かれているのだ。
五祖が言った、「仏性空故、所以言無」。これは空は無ではないと明言しているのだ。半斤とか八両とか数量で言わずに無と言い切った。絶対的空だから空と言わず、絶対的無だから無とは言わない。だから仏性空の空は絶対的空ゆえに無と言ったのだ。だから~が無い、~が無いといった「無い」は「空」という言葉の意味を理解する目印になるものであり、、逆に空は無を理解する力となる。空と無はそういう関係にある。一般的に理解されている空というのは、色即是空で言われている空とは違う。色即是空という言葉は、色を取り除いて空を作る意味でもないし、空を色から分離して空を作るのでもない。色即是空の空は、空是空としか言いようのない絶対的空である。空是空の空は、空の中のひとかけらの石である。絶対的空では、この石は空である。相対的な空における石(色)が絶対的空の視点で空になった時、石は無となる。そうであるから、仏性無と仏性空と仏性有について四祖と五祖の問答が現成したのである。