第十二祖馬鳴(めみやう)尊者、十三祖のために仏性海をとくにいはく、「山河大地皆依建立(せんがだいちかいえこんりふ)、三昧六通由茲発現(さんまいろくづうゆうじほつげん)《山河大地皆依って建立し、三昧六通茲(これ)に由つて発現す》」。

 

 

 しかあれば、この山河大地、みな仏性海なり。「皆依建立」といふは、建立せる正当恁麼時、これ山河大地なり。すでに「皆依建立」という、しるべし、仏性海のかたちはかくのごとし。さらに内外中間(ないげちゆうげん)にかゝはるべきにあらず。恁麼ならば、山河をみるは仏性をみるなり、仏性をみるは驢腮馬觜(ろさいめし)をみるなり。「皆依」は全依なり、依全なりと会取(ういしゆ)し、不会取するなり。

 

 「三昧六通由茲発現」。しるべし、諸三昧の発現未現、おなじく皆依仏性なり。全六通の由茲不由茲、ともに皆依仏性なり。六神通はたゞ阿笈摩教(あぎふまけう)にいふ六神通にあらず。六といふは、前三三後三三(ぜんさんざんごさんざん)を六神通ハラ蜜といふ。しかあれば、六神通は明々百草頭、明々仏祖意なりと参究することなかれ。六神通に滞累せしむといへども、仏性海の朝宗(てうそう)に罣礙(けいげ)するものなり。

 

 五祖大満禅師、蘄州黄梅人也。無父而生、童児得道、乃栽松道者也。初在蘄州西山栽松、遇四祖出遊。告道者、「吾欲伝法与汝、汝已年邁。若待汝再来、吾尚遅汝」。

 

 ⦅五祖大満禅師は蘄州黄梅(きしうわうばい)の人なり。父無くして生まる、童児にして道を得たり、乃ち栽松道者なり。。初め蘄州の西山に在りて松を裁ゑしに、四祖の出遊に遇ふ。道者に告ぐ、「吾れ汝に伝法せんと欲(おも)へば、汝已(すで)に年邁(す)ぎたり。若し汝が再来を待たば、吾れ尚(なほ)汝を遅(ま)つべし」⦆

 

 師諾。遂往周氏家女托生。因抛濁港中。神物護持、七日不損。因収養矣。至七歳為童子、於黄梅路上逢四祖大医禅師。

 《師、諾す。遂に周氏家の女(むすめ)に往(ゆ)いて托生す。因(ちな)みに濁港(ぢよくかう)の中に抛(す)つ。神物(じんもつ)護持して七日損ぜず。因みに収りて養へり。七歳に至るまで童子たり、黄梅路上に四祖大医禅師に逢ふ》

 

 祖見師、雖是小児、骨相奇秀、異乎常童。

 

 《祖、師を見るに、是れ小児(せうに)なりと雖も、骨相奇秀、常の童(わらはべ)に異

 なり》

 

 祖見問曰(そみてとうていはく)、「汝何姓《汝何(いか)なる姓ぞ》」。

 師答曰(しこたへていはく)、「姓即有、不是常姓《姓(しやう)は即ち有り、是れ常の姓

 にあらず》」。

 

 祖曰、「是何姓《是れ何(いか)なる姓ぞ》」。

 師答曰、「是仏性《是れ仏性》」。

 祖曰、「汝無仏性《汝に仏性無し》」。

 師答曰、「仏性空故、所以言無《仏性空なる故に、所以(ゆゑ)に無と言ふ》」。

 祖識其法器、俾為侍者、後付正法眼蔵。居黄梅東山、大振玄風。

 《祖、其の法器なるを識つて、侍者たらしめて、後に正法眼蔵を付す。黄梅東山に

 居(こ)して、大きに玄風を振ふ》

 

 しかあればすなはち、祖師の道取を参究するに、「四祖いはく汝何性(によかしやう)」は、その宗旨あり。むかしは何国人(かこくじん)の人(じん)あり、何姓(かしやう)の姓(しやう)あり。なんぢは何姓(かしやう)と為説(ゐせつ)するなり。たとへば吾亦如是(ごやくによぜ)、汝亦如是(によやくによぜ)と道取するがごとし。

 

 五祖いはく、「姓即有(しやうそくう)、不是常姓(ふぜじやうしやう)」。

 いはゆるは、有即姓は常姓にあらず、常姓は即有に不是なり。

 

 「四祖いはく、是何姓」は、何は是なり、是を何しきたれり。これ姓なり。何ならしむるは、是のゆゑなり。是ならしむるは何の能なり。姓は是也、何也なり。これを蒿湯(かうたう)にも点ず、茶湯にも点ず、家常の茶飯(さはん)ともするなり。

 

 五祖いはく、「是仏性」。

 いはくの宗旨は、是は仏性なりとなり。何のゆゑに仏なるなり。是は何姓のみに究取しきたらんや。是すでに不是のとき仏姓なり。しかあればすなはち是は何なり、仏なりといへども、脱落しきたり、透脱(てうとつ)しきたるに、かならず姓なり。その姓すなはち周なり。しかあれども、父にうけず祖にうけず、母氏(もし)に相似ならず、傍観に斉肩ならんや。

 

 四祖いはく、「汝無仏性」。

 いはゆる道取は、汝はたれにあらず、汝に一任すれども、無仏性なりと開演するなり。しるべし、学すべし、いまはいかなる時節にして無仏性なるぞ。仏頭にして無仏性なるか、仏向上にして無仏性なるか。七通を逼塞(ひつそく)することなかれ。八達を模索(ぼさく)することなかれ。無仏性は一時の三昧なりと修習(しゆじふ)することもあり。仏性、成仏のとき無仏性なるか、仏性発心のとき無仏性なるかと問取すべし、道取すべし。露柱(ろしゆ)をしても問取せしむべし、露柱にも問取すべし、仏性をしても問取せしむべし。

 

 しかあればすなはち、無仏性の道、はるかに四祖の祖室よりきこゆるものなり。黄梅(わうばい)に見聞し、趙州(でうしう)に流通(るづう)し、大潙(だいゐ)に挙揚(こやう)す。無仏性の道、かならず精進すべし。趦趄(しそ)することなかれ。無仏性たどりぬべしといへども、何なる標準あり、汝なる時節あり、是なる投機あり、周なる同姓あり、直趣(ぢきしゆ)なり。

 

 五祖いはく、「仏性空故、所以言無(しよいごんむ)」。

あきらかに道取す、空は無にあらず。仏性空を道取するに、半斤といはず、八両といはず、無と言取するなり。空なるゆゑに空といはず、無なるゆゑに無といはず、仏性空なるゆゑに無といふ。しかあれば、無の片々は空を道取する標榜なり、空は無を道取する力量なり。いはゆるの空は、色即是空の空にあらず。色即是空といふは、色を強為(かうゐ)して空とするにあらず、空をわかちて色を作家(そか)せるにあらず。空是空の空なるべし。空是空の空といふは、空裏一片石なり。しかあればすなはち、仏性無と仏性空と仏性有と、四祖五祖、問取道取。

 

用語について

大満禅師⇒主に中国禅宗の五祖である弘忍(ぐにん/こうにん)に贈られた諡号(しごう)として知られている。                           (AIの回答より)

 

諡号⇒貴人・僧侶などに、その死後、生前の行いを尊んで贈る名。贈り名。

(精選版 日本国語大辞典)

 

性海⇒【定義】仏性海のこと。生死する世界の差別相に対し、平等一如の涅槃を大海に喩えた言葉ではあるが、道元禅師はこれが「本覚の性海」などのように用いられ、仏教で否定すべき本体・本我のように捉えることについては『弁道話』、「大修行」「深信因果」巻などで批判している。

                                   (つらつら日暮らしwiki)

 

六神通⇒「直接的な知識」「高度な知識」「超常的な知識」のこと。六通ともよばれ、止観の瞑想修行において、止行(禅定)による三昧の次に、観行(ヴィパッサナー)に移行した際に得られる、自在な境地を表現したものである。悟りを開いたブッダ・阿羅漢が備える3つの三種の明知(智慧・解脱知)である三明の宿命知・生死知・漏尽知に他心通・神足通・天耳通を加えて六神通とする

 

神足通(じんそくつう)⇒自由自在に自分の思う場所に思う姿で行き来でき、思いどおりに外界のものを変えることのできる力。空中飛行や水面歩行、壁歩き、すり抜け等をし得る力。

天耳通(てんにつう)⇒世界すべての声や音を聞き取り、聞き分けることができる力。

他心通(たしんつう)⇒他人の心の中をすべて読み取る力。

宿命(しゅくみょう)通⇒自他の過去の出来事や生活、前世をすべて知る力。

天眼(てんげん)通⇒一切の衆生の業による生死を遍知する智慧。一切の衆生の輪廻転生を見る力

漏尽(ろじん)通⇒煩悩が尽きて、今生を最後に二度と迷いの世界に生まれないことを知る智慧。生まれ変わることはなくなったと知る力。

                       (wikipedia)

 

阿笈摩教⇒『阿含経』にて説かれる教えのこと。「阿笈摩」は「阿含」の別訳。なお、大乗仏教が成立してからは、原始仏教の教えを阿笈摩教として批判した。

                                                                                                     (つらつら日暮らしwiki)

 

前三三後三三⇒『碧巌録』第三十五則

 

挙す。文殊、無著(むじゃく)に問ふ。近離什麼(きんりいづれ)の処ぞ。無著云く。南方。殊云く。南方の佛法如何が住持す。著云く、末法の比丘少しく戒律を奉ず。殊云く、多少の衆ぞ。著云く、或は三百或は五百。無著文殊に問ふ、比間如何(すかんいかん)が住持す。殊云く、凡聖同居、龍蛇混雑。著云く、多少の衆ぞ。殊云く、前三三後三三。

 

私訳

<どこから来たのか? 南方から。南方では仏道はどんな具合だ?仏道は大分衰えまして、多少の僧侶が戒律を奉じて、護持しております。何人ぐらいいるのか?三百人から五百人程度でございます。こちらではどんな具合ですか?凡聖同居、龍蛇混雑だよ。何人ぐらいおられますか?前三三後三三だよ。

 

滞累たいるい⇒積もり重なった累(わずら)い。

                        (普及版 字通)

 

朝宗ちょう‐そう〔テウ‐〕⇒読み方:ちょうそう [名](スル)

1 《「朝」は春に、「宗」は夏に天子に謁見する意》古代中国で、諸侯が天子に拝謁すること。

2 多くの河川がみな海に流れ入ること。

3 権威あるものに寄り従うこと。

                        (デジタル大辞泉)

 

付属⇒【定義】他にも附属・附嘱・付嘱などとも書く。仏祖の正法を伝付して、後進にその護持を依嘱すること。

                         (つらつら日暮らしwiki)

 

如是⇒① 経の最初に書かれていることば。また、印可(いんか)のことば。かくのごとく、このように、の意。② 示されたことが仏意にかなっているとして認められること。またその印可のことば。③ 信成就の意で、六事成就の一つ。自己の聞く法に信順すること。④ ( 不変不易の義 ) 真如実相の当体。⑤ 法華経で説く十如是のその一つ一つに冠せられることば。

                     (精選版 日本国語大辞典)

 

六事成就⇒「六事成就」とは、仏教の経典が成立するために必要な6つの条件を指します。これらは経典の冒頭に記され、その教えが信頼できるものであることを示します。

六事成就は以下の6つの要素で構成されます。

 

 

信成就(如是)

「このように」と信じ受け入れること。阿難が仏の教えを信じたことを示します。 

聞成就(我聞)

「私が聞いた」と、教えを直接聞いた者がいること。阿難が仏の説法を直接聞いたことを指します。

時成就(一時)

説法が行われた「ある時」を示すこと。感応道交の時を意味します。

主成就(仏)

説法を行った「仏」がいること。教えの主体が仏であることを示します。

処成就(在某処)

説法が行われた「場所」があること。耆闍崛山などが例として挙げられます。

衆成就(与衆若干人俱)

説法を聞いた「大衆」がいること。菩薩や二乗、天人などが含まれます。

 

六事成就の意義

これらの六つの条件が揃うことで、その教えが捏造されたものではなく、信頼に足るものであると証明されます。これは「証信序」とも呼ばれ、後世の人々が経典を信じるための根拠となります。                   

                     (以上 AIの回答)

 

 

露柱⇒【定義】むきだしになった柱のことで、法堂や仏殿にある円柱のことを指す。瓦礫や灯籠などと同じように、無情・非情な物の喩えに使われて、特に曹洞宗の宗乗では、この露柱こそが仏法を説いている無情説法を会得せんとする。

 

挙揚こよう⇒【定義】「挙」も「揚」も、ともに「あげること」の意。仏法を宣揚して(ひろく世の中にあらわして)、人を導くこと。

                     (以上 つらつら日暮らしwiki)

 

たど・る 【辿る】[一]他動詞ラ行四段活用 ①迷いながら行く。②あれこれ思案する。知ろうとする。

                     (学研全訳古語辞典)>

 

・投機⇒【定義】修行者が禅の真の精神に契うこと。師家と学人との機が一致統合すること。師家と修行者との心が一致すること。機根に契うこと。

 

 

機根⇒【定義】仏道を修行する能力、またそれを持っている人のこと。

 

直趣⇒【定義】悟りに直通であること。なお、道元禅師は「この宗旨は、直趣無上菩提、しばらくこれを恁麼といふ。」(「恁麼」巻)とされて、恁麼ということが、無上菩提に直通であることを示している。いわば、恁麼とは悟りを直趣する言葉である。

                       (以上つらつら日暮らしwiki)

 

 

 

 

意 訳

 第十二祖馬鳴(めみやう)尊者が十三祖のために仏性海について説くのにこう言われた、「山河大地は皆、仏性海に依って出来上がっている、禅定とその結果得られる神通力は仏性海から発現している」。

 

 そうであるなら、この山河大地は皆仏性海である。「皆依建立」というのは、出来上がっているその時は、仏性海はこの山河大地である。すでに出来上がっているこの山河大地、仏性海のかたちはこのようなものであると知りなさい。さらにこの山河大地の内、外、中間は仏性海とどんな関係があるのだなどと分別心を働かせて思考すべきではない、色眼鏡をつけて見ずにありのままを観なさい。そうであるなら、山河をみるのは仏性をみることであり、仏性をみるのは、ロバのあごや馬の口先をみるのと同じであることに気づく。そして「皆依」という言葉は、全依ということであり、皆というのは、山河大地のみならず、その他すべてということであり、全てが仏性海に依り、また仏性海はこの全てに依っていると理解し、また理解することを止めてただ観ることが大切だ。

 

 「禅定とその結果得られる六神通は、仏性海から発現する」。次のことを知りなさい、諸々の三昧が発現するかしないかは、同じく皆仏性の時節因縁に依る。全ての六神通は、この仏性海によって発現、よらないことで発現しないということ自体が皆仏性に依っている。ここでいう六神通は、単に阿笈摩教が言う六つの神通力のことではない。六というのは数のことではなく、ある基点を設けるとその前(優れている)にも無数にあり、その後(劣っている)にも無数にあるのだが、基点を外してしまえば、優劣のない区別のつかないものが無数にある、そういう意味の六である。そうであればこの六神通はこの上もないものと言ってよい。そうであれば明白になった森羅万象や明らめられた達磨の西来の意味といったものだけを六神通の働きと考えてはいけない。六神通という流れを止めてうまく把握しているが、それでは仏性海に流れ込んでいる六神通の川を詰まらせているようなものだ。

 

五祖大満禅師(弘忍禅師)は蘄州黄梅(きしうわうばい)の出身である。生まれる前に父を亡くし、幼くして仏の道を得られた。すなわち松を植えるという道である。初め蘄州の西山に住んで松を植えていたが、その時四祖の出遊に出逢った。四祖はその松を植えている者に向かって次のことを告げた、「私はあなたに法を伝えよう、ただあなたは年を取りすぎているので、あなたが生まれ変わってくるのを待つとしよう」。

 

五祖は四祖の言葉を理解し、やがて周氏家の女のもとで生まれ変わった。女は訳あって、その子(黄梅)を濁り汚れた川の水の出入りするところに捨ててしまった。不思議な力がこの子を守り7日間生き続け、それを見て母はこの子を拾って養った。この子(黄梅)は七歳の時、路上で四祖大医禅師に出逢った。

 

四祖は、この子(黄梅)を見て、この子は、小児ではあるが、骨相が非常に秀でている、世間一般の童とは異なっていると感じた。

 

四祖が子を見てこう問いかけた。「姓は何ていうの」。五祖は答えて言った。「姓は即ち有りますが、是れは一般の姓ではありません」。

 

四祖が言った、「是れは何という姓かね」。

五祖が答えて言った、「是れは仏性」

四祖が言った、「あなたに仏性は無い」。

五祖が返答した、「仏性は実体がなく、縁によって生起するもので自性というものがない、つまり空である。それで無と言ったのですね」。

 

四祖はこの返答に、この童が法器であることを感得して、侍者として側において、後にこの童に正法眼蔵を伝え、その護持を任せた。黄梅は東山に居を移し、大いに仏祖の奥深い家風を巻き起こした。

 

上記のやり取りから四祖の言われたことをよくよく考えてみると「四祖いはく汝何性(によかしやう)」という言葉には大切な意味合いがある。昔は何国という国の人がいたし何姓(かしやう)という姓(しやう)もあった。そこであなたは何姓という姓だと言ったのだがそこには「何」という正体の不明なものである意が言下にある。この四祖の言葉は、例えば吾と汝と機根(仏道を修行する能力)を一にしているのだ、と言っているようなものだ。

 

五祖は答えた、「姓(性)即有、ただ一般でいうところの姓ではない」。つまり、有ると一体となっている姓(性)は、一般で言う姓ではない。常姓は即有(有ることと一体)というのではないのだ。

 

「四祖が言った、是何姓」とは、何は是(真如としての自己であり、四祖と五祖との間で共通に理解されているもの)である、是を何という言葉で表示した。それが何という姓である。何(その正体が曰く言い難いもの)としたのは、是(真如としての自己)のせいである。是と限定できたのは何と表わしたからである。姓(性)は是であり、何である。このことを肝に銘じて日常の生活をおくることである。

 

五祖がいった、「是仏性」。この言葉の大切な意味は、是は仏性であり、何と表した点では、是は仏である。ただ、是は何姓だけに究められるものだろうか、そうではないだろう。世間一般の姓(性)としての周でもあるのだ。是は、四祖と五祖が出逢って問答される以前(不是の時)でも仏姓(性)であった。是であろうが不是であろうが仏性であるというのは、是は何であり、仏であると言っても、実体がある訳ではなく、それは必ず姓(性)であるということだ。五祖の場合は周という周家の姓(性)がそれである。その性質は父や先祖から受け継いだものではなく、母親にも似ていない。その性質は世間一般がその外見や身なり等から見てとるところと等しくはないのだ。

 

四祖が言った、「汝無仏性」。ここで言っていることは、つまり汝はどこそこの~という姓をもった者といっているのではなく、それは汝に任せるとして、ただ汝に仏性は無いと言っているのだ。知りなさい、学びなさい、今はどんな時節で無仏性なのかを。正に仏である時節に無仏性なのか、仏が向上の道にある時節に無仏性なのか。学ぶに際して、あらゆることに通達しているのに、その道を塞いだり、模索したり余計なことはしてはいけない。また無仏性は三昧の境地にいる時が無仏性なのだと習い修めることもある。仏性は仏となった時(仏性と一体になった時)、無仏性なのか、。悟りを得ようとする心を起こした時(仏性を自己の外に区別した時)、無仏性なのかと自問してみなさい、答えてみなさい。露柱にも問わさせなさい、そしてその柱に答えを求めてみなさい、仏性にも問わさせなさい。

 

そうしてみたならば、無仏性の言葉は、四祖の奥深さから聞こえてくるものなのだ。黄梅が見聞し、趙州に流通し、大潙が挙揚(こやう)した。無仏性という言葉の意味するところをよくよく考えて見なさい、そしてその道を修行し専心しなさい。戸惑ってはいけない。無仏性の言葉と道を思索し、また辿ろうといっても、無仏性は「何」という曰く言い難いものというのが標準であって、汝と言われる時節もあれば、是といって、師と弟子との間で共通して識られもするし、周という世俗の姓をもって生きてもいる、そのどれでもが無仏性にじかに繋がっているのであり、どれであっても、それに精進するなら無仏性に達する道は開かれているのだ。

 

 五祖が言った、「仏性空故、所以言無」。これは空は無ではないと明言しているのだ。半斤とか八両とか数量で言わずに無と言い切った。絶対的空だから空と言わず、絶対的無だから無とは言わない。だから仏性空の空は絶対的空ゆえに無と言ったのだ。だから~が無い、~が無いといった「無い」は「空」という言葉の意味を理解する目印になるものであり、、逆に空は無を理解する力となる。空と無はそういう関係にある。一般的に理解されている空というのは、色即是空で言われている空とは違う。色即是空という言葉は、色を取り除いて空を作る意味でもないし、空を色から分離して空を作るのでもない。色即是空の空は、空是空としか言いようのない絶対的空である。空是空の空は、空の中のひとかけらの石である。絶対的空では、この石は空である。相対的な空における石(色)が絶対的空の視点で空になった時、石は無となる。そうであるから、仏性無と仏性空と仏性有について四祖と五祖の問答が現成したのである。

 

 前回、「しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、根茎枝葉みな同生し同死し、同悉有なる仏性なるべし。」という文章を、「そうであるなら、たとえ凡夫の見解に任せるとしても、根、茎、枝、葉とも皆、生じ、死すという点で同じであり、それぞれの悉くに仏性が有るという点で同じなのである。」と意訳しましたが、訳す時に、「同時に生じ、同時に死す」と解するのかな?とも思っていたのたのですが、今振り返って考えてみて、「同時に生じ、同時に死す」と改めたいと思います。

 

 最近、夢で、ツツジのような何か細い木を切って、木が萎えてしまうのを見て、悲しく感じている自分がいる、そんな夢を見たのですが、その時、根茎枝葉みな一緒に枯れてしまうんだということを強く感じた。当たり前と言えば当たり前のことなんですがね。問題は同時に生じるということですが、種子が生じた時、根茎枝葉も同時に生じる…。これは今回取り上げる文章の時節因縁、若至、既至といったことに関わっているのかなと思います。 

 

 

仏言、「欲知仏性義、当観時節因縁。時節若至、仏性現前(よくちぶつしやうぎ、たうくわんじせついんねん。じせつにやくし、ぶつしやうげんぜん)」。

 

《 仏の言(のたまは)く、「仏性の義を知らんと欲(おも)はば、まさに時節因縁を観ずべし。時節若し至れば、仏性現前す」 》 

 

いま「仏性義をしらんとおもはゞ」といふは、たゞ知のみにあらず、行ぜんとおもはゞ、証せんとおもはゞ、とかんとおもはゞとも、わすれんとおもはゞともいふなり。かの説・行・証・忘・錯・不錯等も、しかしながら時節の因縁なり。時節の因縁を観ずるには、時節の因縁をもて観ずるなり。払子(ほつす)・拄杖(しゆぢやう)等をもて相観するなり。さらに有漏智・無漏智・本覚・始覚・無覚・正覚等の智をもちゐるには観ぜられざるなり。

 

「当観」といふは、能観・所観にかゝはれず、正観・邪観等に準ずべきにあらず、これ当観なり。当観なるがゆゑに不自観なり、不他観なり。時節因縁聻(にい)なり、超越(てうをつ)因縁なり、仏性聻なり、脱体(とつたい)仏性なり。仏々聻なり、性々聻なり。

 

「時節若至」の道(だう)を、古今のやから往々におもはく、仏性の現前する時節の向後(きやうこう)にあらんずるをまつなりとおもへり。かくのごとく修行しゆくところに、自然(じねん)に仏性現前の時節にあふ。時節いたらざれば、参師問法するにも、辦道功夫するにも、現前せずといふ。恁麼見取(いんもけんしゆ)して、いたづらに紅塵にかへり、むなしく雲漢をまぼる。かくのごとくのたぐひ、おそらくは天然外道の流類(るるい)なり。

 

いはゆる「欲知仏性義」は、たとへば「当知仏性義」といふなり。「当観時節因縁」といふは、「当知時節因縁」といふなり。いはゆる仏性をしらんとおもはゞ、しるべし。時節因縁これなり。「時節若至(にやくし)」といふは、「すでに時節いたれり、なにの疑著(ぎぢや)すべきところかあらん」となり。疑著時節さもあらばあれ、還我仏性来(げんがぶつしやうらい)《我れに仏性を還(かへ)し来れ》なり。しるべし。「時節若至」は、十二時中不空過なり。

 

「若至」は、「既至」といはんがごとし。時節若至すれば、仏性不至なり。しかあれば、すなはち、時節すでにいたれば、これ仏性の現前なり。あるいは其理自彰(ごりじしやう)なり。おほよそ時節の若至せざる時節いまだあらず、仏性の現前せざる仏性あらざるなり。

 

 

用語について

・義⇒1 人のふみ行うべき正しい筋道。2 私欲を捨て、公共のためにすること。3 意味。主旨。4 血縁でなく約束でつながった関係。5 実物のかわり。仮の。  

                        <デジタル大辞泉 小学館>

 

・払子(ほつす)⇒ 獣毛などを束ね、これに柄を付けて蚊やアブを払うのに用いたものである。なお、払子はもともと蚊などの虫に苦しめられていた比丘のためにブッダが用いることを許した。

                        < つらつら日暮らしwiki >

・拄杖(しゆぢやう)⇒つえ。特に、禅僧が行脚あんぎゃのときに用いるつえ。

                       <デジタル大辞泉 小学館>

 

・正覚⇒正しく完全な覚りのこと。一切諸法の真理を知った、仏の真の覚りのこと。

 

 

・本覚⇒【定義】本来の覚性のこと。一切衆生に本来的に具有されている覚(悟り)の智慧を指す。

【内容】

これは、インドの原典には用例を見出すことが出来ず、中国での造語であるとされており、特に真諦訳『大乗起信論』での用例が基本的なものであるとされる。現実に於ける迷いの状態である「不覚」と、修行の進展によって種々の煩悩を破して悟りの智慧が段階的に当事者に露わになる始覚とが相関して説かれている。そして、本覚とは、始覚によって到達されるべき目標であると同時に、始覚が進展することを可能とする内在的根拠であるともされる。

 

・無覚⇒① 仏語。一切の知覚や分別を離れること。

・有漏智⇒仏語。世俗の事物を対象とするとき起こる智。世俗智。

・無漏智⇒仏語。煩悩のけがれのない、きよらかな智慧。

                     (以上 精選版 日本国語大辞典)

 

・錯⇒[字音] サク・ソ  [字訓] みがく・まじわる・あやまる

                     (普及版 字通)

 

・当観⇒【定義】訓ずれば「まさに見るべし」となるが、道元禅師はこの「当観」について、自他に関わらない「観」としている。ここからすれば、正邪という二分法ですら、まだこの「当観」には及ばないことが理解でき、いわばこれは、一種の知的直観であることが理解できる。

観ることが、そのまま知ることとなる。

                     (つらつら日暮らしwiki)

 

・まぼる⇒食べる。 まぼ・る 【守る・護る】⇒①見つめる。見守る。②見守って世話をする。守護する。

                       (学研全訳古語辞典)

 

 

意 訳

 お釈迦様がこう言われた、「仏性の意味内容を知ろうと思えば、当然、時節の因縁というものを観ずるべきである。もし時節が至れば、仏性は現前する」と。

 今「仏性の意味内容を知ろうと思えば」と言うのは、単に知るだけでなく、行じようと思えば、明らめようと思えば、説こうと思えばとも、忘れようと思えばとも言っているのだ。この説・行・証・忘・錯(みがく?まじわる?誤る?)・不錯等も、ことごとく時節の因縁に依っている。時節の因縁を観ずるには、時節の因縁に依って観ずるのだ。払子・拄杖などの形相を見て観ずるのだ。決して有漏智・無漏智・本覚・始覚・無覚・正覚等の智を使っては観ぜられないものだ。

 

「当観」と言うのは、観る主体、観られる客体がどのようなものであるかに影響されず、また正しい、間違ったという観方という範疇もない。これがまさしく当観である。であるから、当観は自他の区別をした観方ではない。時節の因縁を観ずる時は、その他一切の因縁を超越して時節因縁だけがある。仏性だけがある。仏だけがある。性だけがある。

 

「時節若至」の言葉を聞いて、古今の輩はしばしばこのように思った。仏性が現前する時節の後に居ようと( or「仏性が現前する時節の後があるだろうから」?)その時を待つことだと思った。このように思って修行していくところに、自然と仏性が現前する時節にあう。時節が至らなければ、師に参じ、聞法しても、仏道修行に励んでも仏性は現前しないと言う。このように見て、意味もなく俗世間に帰り、むなしく、夜空の天の川を見守る。このような類は、多分天然外道の仲間である。

 

いわゆる「仏性の意味内容を知ろうと思う」とは、例えば「当に仏性の意味内容を知る」という事なのだ。「当に時節因縁を観る」とは、「当に時節因縁を知る」という事なのだ。

仏の言われた「欲知仏性義、当観時節因縁。時節若至、仏性現前」は「当知仏性義、当知時節因縁 …」ということであり、よく言うところの仏性を知ろうと思うなら、次の事を知りなさい。時節因縁が仏性であると。そして、「時節若至」というのは、「すでに時節は至った。何の疑うべきところがあるだろうか」という事である。疑う時節とはそのようにあることなら、そうあれ。ただ、それは我に仏性を返しに来いと、自分の外に仏性があると思っているようなものだ。知りなさい。「時節若至」というのは、、種子が根茎枝葉を生じさせる時、根茎等が古今の時に不空であるように、「時節若至」は時の流れの中で決して空しく過ごさないのである。若至とはそういうことであり、すでに至ったというようなものなのだ。

                                 

「若至」は、「既至」と言うようなものである。ただ、時節が若至すれば、仏性はまだ至らずということである。つまり、時節の因縁によって、若至が既至になった時、その時は仏性の現前である。または、その理は自ずと目立って明らかである。全く未だ時節の若至しない時節ということはなく、現前しない仏性というのもない。

 

感 想

・若至(にやくし)とは、「もしいたれば」と、本では訓読していますが、仮定の意味合いというより、至るにはまだ若い、至る途中にあるといったように私は解釈しています。

 

 小林秀雄さんが吉田兼好の徒然草だったかを引用されて、「外からやって来るのではなく、内に準備されて満ちるのだ」という様なことを、どの御本だったか忘れましたが、書いておられたのをふと思い出しました。

 ネットで徒然草のどの部分だったか調べてみたら、多分第155段の文章だったと思います。少し長いですが、引用します。

 

 春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催(もよほ)し、夏より既に秋は通ひ、秋は即ち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅も蕾(つぼ)みぬ。木の葉の落つるも、先づ落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌(きざ)しつはるに堪(た)へずして落つるなり。迎(むか)ふる気、下に設けたる故(ゆゑ)に、待ちとる序(ついで)甚だ速し。生(しょう)・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎたり。四季は、なほ、定まれる序(ついで)あり。死期(しご)は序(ついで)を待たず。死は、前よりしも来らず、かねて後(うしろ)に迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟(ひかた)遥(はる)かなれども、磯より潮の満つるが如し。

 

・道元禅師の時空間の観方(時空間に限らないが)は、私たち一般人の何気なく思っている時空間とは全く違うので、その超えたところで言っておられるのか、下で言っておられるのか気にしておかなければいけないと思います。

 

・二次元に住む生き物には三次元の存在全体を知覚できない。平面を球が通過するとして、平面上には点が生じ、円が大きくなり、小さくなりして、最後点が消える。物理学や数学ではどこまで次元を上げても問題はないのでしょうかね。かなりの多次元でもOKなのでしょう。仏教では、多分無次元ということになるのでしょうか? 数量化できないものとして世界を観ている、質というか性というかそういうものとしてしか扱えないものと観ているのではないかと個人的には思っています。

 

・相観というのはどういうのかよくわかりませんでした。怪しい訳ばかりですが、「還我仏性来(げんがぶつしやうらい)《我れに仏性を還(かへ)し来れ》なり。」の部分もよくわかりませんでした。

 

 

 仏性の言をききて、学者おほく先尼外道の我のごとく邪計せり。それ、人にあはず、自己にあはず、師をみざるゆゑなり。いたづらに風火の動著する心意識を仏性の覚知覚了とおもへり。たれかいふし、仏性に覚知覚了ありと。覚者知者はたとひ諸仏なりとも、仏性は覚知覚了にあらざるなり。いはんや諸仏を覚者知者といふ覚知は、なんだちが云云の邪解を覚知とせず、風火の動静を覚知とするにあらず。たゞ一両の仏面祖面、これ覚知なり。

 

 

 往々に、古老先徳、あるひは西天に往還(おうげん)し、あるひは人天を化導する、漢唐より宋朝にいたるまで、稲麻竹葦(たうまちくゐ)のごとくなる、おほく風火の動著を仏性の知覚とおもへる、あはれむべし、学道転疎なるによりて、いまの失誤あり。いま仏道の晩学初心、しかあるべからず。たとひ覚知を学習すとも、覚知は動著にあらざるなり。たとひ動著を学習すとも、動著は恁麼にあらざるなり。もし真箇の動著を会取することあらば、真箇の覚知覚了を会取すべきなり。仏之与性(ぶつしよしやう)、達彼達此<仏と性と、彼に達し、此に達す>なり。仏性かならず悉有なり。悉有は仏性なるがゆゑに。悉有は百雑砕にあらず、悉有は一条鉄にあらず。拈拳頭なるがゆゑに大小にあらず。すでに仏性といふ、諸聖と斉肩(せいけん)なるべからず、仏性と斉肩すべからず。

 

 ある一類おもはく、仏性は草木の種子のごとし。法雨のうるひしきりにうるほすとき、芽茎生長(げきやうしやうちゃう)し、枝葉花果もすことあり。果実さらに種子をはらめり。かくのごとく見解する、凡夫の情量なり。たとひかくのごとく見解すとも、種子および花果、ともに条条の赤心なりと参究すべし。果裏に種子あり、種子みえざれども根茎等を生ず。あつめざれどもそこばくの枝条大囲となれる。内外の論にあらず、古今の時に不空なり。しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、根茎枝葉みな同生し同死し、同悉有なる仏性なるべし。

 

用語について

了知⇒明らかに知ること、明らかに悟ること。十分に理解すること。

 

 知は覚知にあらず、覚知は小量?なり。了知の知にあらず、了知は造作なり。 『正法眼蔵』「坐禅箴」巻

 

・覚知⇒悟ること。

・造作⇒①造りなす意のこと。作り上げること。②作り上げられた物。

・赤心⇒赤心とは、ありのままの心のこと。何物にも覆われない、この心のこと。

 

意 訳

 仏性という言葉を聞いて、仏法を学ぶ者の多くが、先尼外道が説く我のごとくと誤って推し量った。それは、人に、そして真の自己にも合わず、師にも参じたことがないからである。無暗に動じる心の働きを仏性の覚めて知る働きと思っている。誰が言ったのか。仏性にはそうした働きがあると。確かに覚めた知恵をもっているのは諸仏であるが、だからといって仏性はそうした知る働きではない。まして、諸仏を覚った者、知った者という時の覚知とは、おまえたちが誤った解釈をして覚知といっているものとは違うし、無暗に動じる分別心の働きのことでもない。覚知とは、(仏性とおなじで言葉で言い表そうとしても無理で)ただ釈迦牟尼仏のお顔や祖師のお顔といった具体的でありのままに有るところのもの(そこに覚知が刻印されているもの)としか言いようがない。

 

 よくあることなのだが、古老先徳たちは、インドに行き来するものもあれば、人間界、天上界を教化して善に導こうとする者は、漢唐より宋朝にいたるまで、稲麻竹葦(たうまちくゐ)のごとく非常に多くいたが、その多くは無暗に動じる分別心を仏性の知覚と自然と思っていたのは、あわれなことであり、疎かに仏道を学んできたからこのような誤りをしてしまった。今の仏道晩学の者たちはそうあってはいけない。かりに覚知について学ぶとしても、覚知は心をこちらから働かせるということではないし分別心で認識することでもない。たとえ動著(心を働かせる)について学ぶとしても、動著とはそういうものではない。若しも真の動著を理解するなら、真の覚知覚了を理解することができる。その時は、仏と性はいたるところにあることがわかるだろう。仏性は全く悉く有るという有り方をする。その有り方が仏性であるから。その有り方は、こなごなになった多くの物という有り方ではないし、かと言ってひとすじの鉄の様に有る訳でもない。握られた拳のようにそれぞれの指が合わさってあるようなものであり、その大きさは問題ではない。すでに仏性と命名しているのだから同じく命名された諸聖人とは区別されなければならないし、命名前の仏性と等しいとみてはいけない。

 

 ある人たちが思うことには、仏性は草木の種子のようなものだと。法雨が繰り返し潤す時、茎や芽は生長し、枝や葉、花、果実をつける。そして果実は内に種子をはらんでいる。このように見ている。これは凡夫の情的な思量である。かりにこのように見たとしても、種子及び花果はそれぞれがありのままの心なんだと見極めなさい。果実の中に種子がはいっている、その種子は今は見えないけれども根、茎等を生じ、その茎を広く囲むように、集めてきたわけではないところのたくさんの枝々となることができる。種子の中にその働きがあるとか雨のうるおいという外因が必要だとか内、外と区分して考えるべきものではなく、根、茎、枝等は時の流れにおいて、不在であるということはない、それが赤心としての根、茎、枝等というものである。そうであるなら、たとえ凡夫の見解に任せるとしても、根、茎、枝、葉とも皆、生じ、死すという点で同じであり、それぞれの悉くに仏性が有るという点で同じなのである。

 

感 想

・覚知とは、こちらから働かせる弁別心ではなく、坐禅によって、三昧によって自ずと生じるところの知覚とでも言ったもののように感じます。そして、言葉では説明できなく、ただ仏のお顔を指し示すしかない、でお顔の表情を解釈してもいけない、あるがままに受け取るということ、でもそれがとても難しく感じます。

 

・私たちの脳は、眼耳鼻舌身意を通して、受け取ったものが様々に繋がりながら記憶されている。昔よく聴いていた音楽を今聴いて、当時の何とも言えない感情が蘇ってくるといったこともその一例だろう。

 故人のことを回想し、その言動が蘇ってくる。が今はもういない。その言動というものに対して無常を感じてしまう。言動というものも、無常を感じるということも、何もかもは風火の動著である心意識にすぎない? 赤心なる故人を捉えるには………。赤心なる故人は古今に不空なり………。

 

・「すでに仏性といふ、諸聖と斉肩(せいけん)なるべからず、仏性と斉肩すべからず。」の部分は意訳はしてみたが、よくわからないまま意訳しました。