下線部分は特に意味が分からなかった箇所です。

   

 南泉いはく、「漿水銭且致(しやうすいせんしやち)、草鞋銭教什麼人還(さうあいせんけうしもじんげん)」。

 

    いはゆるは、「こんづのあたひはしばらくおく、草鞋のあたひはたれをしてかかへさしめん」となり。この道取の意旨、ひさしく生々(しやうじやう)をつくして参究すべし。漿水銭いかなればかしばらく不管なる、 留心勤学(りうしんきんがく)すべし。草鞋銭なにとしてか管得(くわんて)する。行脚の年月にいくばくの草鞋をか踏破しきたれるとなり。いまいふべし、「若不還銭(にやくふげんせん)、未著草鞋(みぢやさうあい)≪若(も)し、銭を還さずは、未だ草鞋を著(は)かじ≫」。またいふべし、両三りやう(りやうの漢字は偏が革で旁が兩)。この道得なるべし、この宗旨なるべし。

 

「黄檗便休」。これは休するなり。不肯(ふけん)せられて休し、不肯にて休するにあらず。本色衲子(ほんしきのつす)しかあらず。しるべし。休裏有道は、笑裏有刀のごとくなり。これ仏性明見の粥足飯足(しゆくそくはんそく)なり。

 

    この因縁を挙(こ)して、潙山(ゐさん)、仰山(きやうざん)にとうていはく、「莫是黄檗他南泉不得麼(もしわうばくこうたなんせんふてま)≪是れ黄檗他(か)の南泉を搆(こう)すること得ざるにあらずや≫」。

 

 仰山いはく、不然。須知、黄檗有陷虎之機≪然らず。須(すべか)らく知るべし、黄檗陷虎(かんこ)之機あることを≫」。

 

 潙山云(いはく)、子見処、得恁麼長(ていんもちやう)≪子(なんぢ)が見処、恁麼(いんも)に長ずることを得たり≫」

 

 大潙の道は、そのかみ黄檗は南泉を搆不得(こうふて)なりやといふ。

 

 仰山いはく、「黄檗は陷虎の機あり」。すでに陷虎することあらば、虎頭(らつこてう)なるべし。

 

 陷虎捋虎(かんこらつこ)、異類中行(いるいちゆうぎやう)。明見仏性也(や)、開一隻眼(かいいしやくげん)。仏性明見也、失一隻眼。速道速道(しゆくたうしゆくたう)。仏性見処、得恁麼長≪虎を陥れ虎を捋(と)る。異類中に行く。仏性を明見しては一隻眼を開き、仏性明見すれば一隻眼を失す。速やかに道(い)へ、速やかに道(い)へ。仏性の見処、恁麼に長ずることを得たり≫なり。

 

 このゆゑに、半物全物(はんもつぜんもつ)、これ不依倚(ふえい)なり。百千物、不依倚なり。百千時、不依倚なり。このゆゑにいはく、羅籠(らろう)一枚、時中十二。依倚不依倚、如葛藤依樹(によかつとうえじゆ)。天中及全天(てんちゆうぎふぜんてん)、後頭未有語(こうてうみいうご)≪羅籠は一枚、時中は十二、依倚も不依倚も、葛藤の樹に依るが如し。天中と全天と、後頭だ語あらず≫なり。

 

 

用語について

 

・参究⇒【定義】①善知識に親しく参禅して、その指導によって一大事を究めること。②事象を客観的に知るのではなくて、それそのものに入って究めること。

                    (つらつら日暮らしwiki)

 

・不管⇒不管の概念の説明→お構いなしだ、周囲への気遣いをしないさま、なおざりだ、するべきことをしないで,ほうっておくさま、手ばなし、条件や制限を加えず,放任しておくこと

                    (EDR日中対訳辞書)

 

・管⇒字義 1くだ、パイプ、チューブ。2つかさどる、とりまとめる。

                    (wiktionary )

 

・なにとしてか⇒なに-と-し-て 【何として】→分類連語①どうやって。どのようにして。なぜ。▽理由などについての疑問の意を表す。②どうして…か、いや、…ない。▽反語の意を表す。

                 (学研全訳古語辞典)

 

・両三りやう(りやうの漢字は偏が革で旁が兩)⇒ほんの二、三足   (脚注)

 

・休する⇒問答をやめた。 (脚注)

 

・本色衲子⇒本物の修行者  (脚注)

 

・衲子⇒【定義】 衲僧に同じ。破れ衣をまとった禅僧のこと。

              (つらつら日暮らしwiki)

 

・粥足飯足⇒粥は禅林の朝の食事、飯は昼の食事。朝も昼も腹一杯で何不足ないこと。

                    (脚注)

 

・仰山⇒仰山慧寂。潙山の法嗣。  (脚注)

 

・搆⇒1 かまえる。組み立てる。組み合わせる。 2 ひく。ひっぱる。

                        (漢字辞典online)

 

・恁麼⇒【定義】①その、この、そんな、こんな、そのように、このように、の意であり、話題にしている事物の状態を指していう近称の指示詞である。与麼と同じ。

 

【内容】(前文略)この恁麼とは、まさに何物(或いは何必・不必・如是・如何、等と同義)としか言い表せない真理そのものである。何かを言ってしまえば、それが直ちに把われとなるような仏法そのものであり、まさに「説似一物即不中」である。そして、道元禅師は雲居道膺禅師の語を引いて、坐禅自体を恁麼であるとしている。

 

                (つらつら日暮らしwiki)

 

・捋⇒1 (指で押さえ滑らせてひげ・頭髪・衣服・縄など細く薄いものを整えたりしわを伸ばしたりするために)なでる,なでつける,しごく.2((方言)) 整理する.

                                                                              ((weblio 日中・中日辞典)) 

 

 

・異類中行⇒【定義】異類とは、仏果位以外の菩薩や衆生などの六道に生きる者をいう。異類中行は、異類の中を行く意味であり、発願利生する菩薩が成仏した後も涅槃にとどまらずに六道の衆生を救うことである。

 

【内容】発願利生した菩薩が成仏した後、涅槃にとどまらずに、生死の迷界・六道輪廻に身を転じつつ、一切の衆生を救うことだが、異類中に自己を投げ入れて利他行することを意味している。

 

道元禅師は、概念に前提されている「自」「他」そして「行」それぞれに考察していくため、本義を書き換えている。

 

除覚支は、もしみづからがなかにありてはみづからと群せず、他のなかにありては他と群せず、我得你不得なり、灼然道著異類中行なり。『正法眼蔵』「三十七品菩提分法」巻

 

ここでは、自己とも他己とも対しない絶対の覚を考察するのに「異類中行」が使われている。

いはゆる雲巖道の宗旨は、眼睛乞眼睛なり、水引水なり、山連山なり、異類中行なり、同類中生なり。 「眼睛」巻

 

自己が自己に再帰的に関わっていくことを「異類中行」とされている。この両方の用法に、単純な「自-他」という区分がないことを重々理解されたい。

 

 

・覚支(かくし)⇒仏教用語。覚分,菩提分ともいわれ,悟りに到達するために役立つ方法という意味。これを7種に分けて七覚支と呼んでいる。七覚支を含む悟りに達するための行道三十七法をも覚支と呼ぶ場合がある。それらは四念処,四正勤,四如意足,五根,五力,七覚支,八聖道である。

                  (ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

            

・一隻眼 いっせき‐がん⇒1 一つの目。隻眼。2 ものを見抜く特別な眼識。独特の批評眼。「一隻眼を具する」

                   (デジタル大辞泉)

 

・羅籠⇒羅は魚をとる網、籠は鳥を入れておくかご。とらわれて自由のきかない煩悩を言うが、それごと、一枚の仏性である。  (脚注)

 

・後頭未有語⇒ここまで言えば、あとは言葉もなくなる。(脚注)

 

・未⇒詳細な意味 副詞 1 否定を表し、「不」に相当する。not 2 否定を表し、「ない」、「まだ…ない」に相当する。not;not yet;never 3 疑問を表し、文末に用いて、「か」、「~ないか」に相当する。or not  4 禁止を表し、「~するな」、「~してはならない」に相当する。

don’ t   (名詞、形容詞、動詞の詳細な意味 略)  (Bidu Wiki)

 

意 訳

 南泉が言った、「漿水銭且致(しょうすいせんしゃち)、草鞋銭教什麼人還(そうあいせんきょうしもじんげん)」。

 

 つまり、「米のとぎ汁の代金はしばらく言及しないでおくが、草鞋の代金は誰に返させましょうか(返金させなければなりませんね)」ということだ。この言葉の意味を長い時間をかけて究めなさい。米のとぎ汁の代金はどういう訳でしばらく放っておくのか、心を留めて、勤学しなさい。草鞋の代金については、なぜ言及したのか。これまで行脚でどれだけの草鞋を履きつぶしてきたことか。今、こう言いなさい、「もしも草鞋の代金がもどってこないというなら、もともと草鞋は履かなかったものを(教えを求め諸国行脚の旅にでるということは、分別心を除く旅でもある。この心を除けばすべての物事は一体であり、頼る頼られるという関係はない。草鞋に頼るという関係もない、この無分別の心を得られないというなら、もともと行脚にはでない)」と。またはこう言いなさい、「具体的に草鞋二、三足(の代金分は返却されるに値する)」と。これは仏法の道理を言い表している言葉であり、禅宗の教えの主旨に関わる言葉である。

 

 「黄檗すなわち休す」。南泉にこう言われては、黄檗が問答を止めてしまうのも道理というものだ。南泉に認め受け入れてもらえなくて止めたのでも、南泉の言った言葉を受け入れることができなくて止めたのでもない。本物の禅僧というものは、そういうものではない。知りなさい。この無言のなかに言葉が秘められている、そしてそれは笑いのなかに刀が秘められているようなものなのだ。このことは、仏性が明らかに現れていることの十分な証なのだ。

 

 この南泉と黄檗の問答を取り上げて、潙山霊祐禅師が弟子の仰山慧寂禅師に、こう質問した。「これは黄檗が南泉を納得させることができなかったのではないか」。

 

 仰山慧寂禅師が答えた、「そうではありません。当然次のことを知らなければなりません。黄檗は虎を落とし穴にいれて捉まえる能力があることを」。

 

 潙山が言った、「お前のその見解は真理として秀でたものだ」

 

 大潙の言葉は、最初、黄檗は南泉の納得を得られなかったのかというものである。

 

 仰山が言った、「黄檗は虎を落とし穴にいれて捉まえる能力がある」。虎を落とし穴に入れてしまえば、虎の頭をなでるだろう。

 

 虎を落とし穴にいれて、頭をなでる(自己と虎の間で隔てがなくなる)、異類の中で行ずる(自己と異類との隔てがなくなる)。仏性を明見するとは、片方の眼(無差別の眼)が開くことであり、仏性が明らかに現れるとは、片方の眼(分別の眼)が閉じることである。速やかに言いなさい。速やかに言いなさい。(概念であれこれと考えず、間髪を入れないことで、真理に直結した言葉をいいなさい)。仏性の現れる処で、真理に秀でることを得たのだ(黄檗は南泉の分別心で捉えた言葉の意味を無分別の視点で捉えかえすことができているのだ)」。

 

 こうした訳で、物の半分であっても全体であってもそれに頼らないのである。百千の物々でも百千の時々であってもそれに頼らないのである。こうした訳で、次のように言おう、煩悩を抱えた一人が一日の中の時々に生きている。頼ったり、頼らなかったり、葛藤が木に纏わりついているようなものだ(本来は、葛藤と木というふうに区別できない一体のものだが、分別心によって、依る、依らないという関係ができてしまう)。この宇宙の中の一部と言わず、全てと言わず、どこにいても、ここまで言えばあとは言葉もなくなるのだ(そもそも言葉は分別心を生むだけだ、黄檗のすなわち休すというのもこういうことである)。

 

感 想

 

・南泉は、真意を知っているが、弟子の黄檗を試すために、「こんづのあたひはしばらくおく、草鞋のあたひはたれをしてかかへさしめん」と質問したのだろうか。それとも黄檗の何物にも依らないという言葉の真意を理解できないまま、こう質問したのでしょうか。

 

・「一隻眼」を 一つの目と解したが、 ものを見抜く特別な眼識と解したら「特別な眼識が開けて仏性を明見しても、それは同時に障りとなって、その眼識を失うことにもなる、常に新たであれ」とでも訳することになるのでしょうか。

 


 冬の間3月半ほど岐阜県でアルバイトしてきましたが、郡上八幡(郡上市八幡町)には時々、観光や買い出し、運動で汗を流しに行ったものです。この前、その郡上八幡

が日本で最初に酷暑日を記録したとニュースで見ました。40度とは本当にひどい暑さだと思います。

 

 有名な郡上おどりも行われているのでしょうが、夜とはいってもかなりの温度だと思います。北海道人の私では、身体が持たないだろうな。踊られる方々のことを思えば、気温が少しでも下がればと思うのですが、………。

 

 町中には、長良川、吉田川、小駄良(こたら)川などが流れていますが、どの川の水もとてもきれいなのが印象深かったです。写真は観光スポットの一つ宗祇水のすぐそばの橋の上から小駄良川と家々を撮ったものです。(2026年1月21日撮影)

 

 

 

 

 

 

 下線部分は特に意味がわからなかったところです。

 

 

  黄檗在南泉茶堂内坐。南泉問黄檗、「定慧等学、明見仏性。此理如何」。

 

≪黄檗、南泉の茶堂(さあだう)の内に在つて坐す。南泉、黄檗に問ふ、「慧等学(ぢやうゑとうがく)、明見仏性。此理如何」≫ 

 

 黄檗云(いはく)、「十二時中不依倚一物始得(ふえいいちもつして)≪十二時中一物にも依倚せずして始得ならん≫」。

 

 南泉云、「莫便是長老見処(もべんしちやうらうけんじよま)≪便(すなは)ち是れ長老の見処なることなきや≫」。

 

 黄檗曰、「不敢(ふかん)」。

 

 南泉云、「漿水銭且致(しやうすいせんしやち)、草鞋銭教什麼人還(さうあいせんけうしもじんげん≪奬水銭は且(しばら)く致(お)く草鞋銭は什麼人(なにびと)をしてか還(かへ)さしめん≫)」。

 

 黄檗便休(べんきう)≪黄檗便ち休す≫。

 

 いはゆる「定慧等学」の宗旨は、定学の慧学をさへざれば、等学するところに明見仏性のあるにはあらず、明見仏性のところに、定慧等学の学あるなり。「此理如何」と道取するなり。たとへば、「明見仏性はたれが所作なるぞ」と道取せんもおなじかるべし。「仏性等学、明見仏性、此理如何」と道取せんも道得(だうて)なり。

 

 黄檗いはく、「十二時中不依倚一物」といふ宗旨は、十二時中たとひ十二時中に処在せりとも、不依倚なり。不依倚一物、これ十二時なるがゆゑに仏性明見なり。この十二時中、いづれの時節到来なりとかせん、いづれの国土なりとかせん。いまいふ十二時は、人間(にんげん)の十二時なるべきか、他那裏(たなり)に十二時のあるか、白銀(びやくごん)世界の十二時のしばらくきたれるか。たとひ此土(しど)なりとも、たとひ他界なりとも、不依倚なり。すでに十二時中なり、不依倚なるべし。

 

 「莫便是長老見処麼」といふは、「これを見処とはいふまじや」といふがごとし。長老見処麼と道取すとも、自己なるべしと回頭(ういてう)すべからず。自己に的当なりとも、黄檗にあらず。黄檗かならずしも自己のみにあらず、長老見処は露回々(ろういうい)なるがゆゑに。

 

 黄檗いはく、「不敢(ふかん)」。

 

この言(ごん)は、宋土に、おのれにある能を問取せらるゝには、能を能といはんとても、不敢といふなり。しかあれば、不敢の道は不敢にあらず。この道得(だうて)はこの道取なること、はかるべきにあらず。長老見処たとひ長老なりとも、長老見処たとひ黄檗なりとも、道取するには「不敢」なるべし。一頭水牯牛出来道吽(いてうすいくにうしゆつらいだううんうん)≪一頭の水牯牛出で来りて吽吽と道(い)ふ≫なるべし。かくのごとく道取するは道取なり。道取する宗旨さらに又道取なる道取、こゝろみに道取してみるべし。

 

用語について

・見処⇒〘 名詞 〙 ( 「けんしょ」とも ) 仏語。① 禅でいう語。観じた所。観点。視点。② さまざまな誤った見解を生じる依りどころ。

                  (精選版 日本国語大辞典)

 

麼⇒[訓義]1. こまかい、ちいさい、かすか。2. なに、いかに、か、や。

3. 語助詞

                     (普及版 字通)

 

・禅那⇒【定義】パーリ語のjhana、サンスクリット語のdhyanaの音写。意味としては禅定に同じ。旧訳では「定」と訳したが、新訳では「静慮」と訳す。

 

・禅定⇒【定義】①禅(禅那・dhyana)という梵語の音訳と、定という意を合した語句。真理を観ずるために、坐禅を修し、心を一処に住して散乱しないこと、習禅。六波羅蜜の一。②色界の四禅と、無色界の四定とを合わせて、四禅八定という。③坐禅と同じ意で用いる。

 

【内容】③に関連して、道元禅師は坐禅と禅定とを混同してはならないとしている。それは、坐禅が仏行であり、智慧を得る手段に堕する禅定とは一線を画するからである。

                    (以上 つらつら日暮らしwiki)

 

・不敢⇒[動]1 <謙>(=不敢当bùgǎndāng)おそれいります.

2 …する勇気がない.(勇気がなくて)…できない.

                     (中日辞典)

 

 

・漿水⇒〘名詞 〙 どろりとした飲み物、おもゆなど。また、米のとぎ汁。濃漿(こんず)。                 (精選版 日本国語大辞典)

 

・宗旨⇒1 宗門の信仰内容の主旨として説くところ。ある宗教の教えの中心教義。「

2 一つの宗教の中の流派。宗門。宗派。

3 自分の主義・主張・趣味。好みのやり方や考え方。

                        (デジタル大辞泉)

 

・道得⇒【定義】「道い得る」と訓ずる。①仏法の道理を説き尽くすこと。②略

【内容】道得という言葉は普通、口業説法の意で解されることが多いわけだが、しかし、道元禅師は「真理を表詮し得る」という意味で用い、口業のみに限定されず、身業説法に於いてもそれが可能であると示す。

                (つらつら日暮らしwiki)

 

 

・回頭⇒〘名詞 〙

①     頭をめぐらすこと。ふりむくこと。② 船、飛行機などが進路を変えること。変針。転進。

                  (精選版 日本国語大辞典)

 

・水牯牛⇒中国南方の水辺に飼われる牛  (脚注)

 

意 訳

 黄檗が南泉の茶堂の内に坐していた時、南泉が黄檗に次のように質問した、「禅定と智慧を等しく学ぶ、仏性を明らかに見る。此の二つの関係をどう思いますか」。

 

 黄檗が答えた、「1日中、何物にも頼らないことで、初めてその道理が分かるだろう」

 

 南泉が言った、「(長老の今言われたことでは、私の質問の答えになってないように思う のですが)長老の見解はないのですか」

 

 黄檗が答えた、「さあどうでしょうか」。

 

 南泉が言った、「何物にも頼らないというのでしたら、食事代はひとまず置いておいて、師を求め、教えを求めて(頼って)全国を行脚するのに履いた草鞋のお金を返させましょう。」

 

 黄檗は黙った。

 

 以上の黄檗と南泉のやり取りを私(道元禅師)はどう見るかというと「定慧等学」の大切な意味合いは、禅を学び、行うことは、智慧を身につけることを妨げはしないので、禅定と智慧を等しく学ぶことで、仏性を明見することができる、ということではなく、反対に仏性を明見すれば、禅定と智慧を等しく学べるようになるということを言っているのである。「此理如何」とはこの道理は「何」としか言いようのない説明できないものだと言っているのだ。端的に言えば、「仏性を明見したのは、誰か」と言っているのと同じである(定慧等学できていることは仏性を明見したことのある証であると言えるので、具体的に誰が仏性を明見したとわかるのだが、等学の先に明見仏性があるとしたら、明見仏性とは概念にしか過ぎなく、雲を攫むようなものである)。「仏性を明見するところに、仏と仏性を等しく学ぶことができる。この道理は何のごとし」と言うとしたら、それもまた道理を説き尽くした言葉と言える。

 

 黄檗の言う、「一日中、何物にも頼らない」の言葉の大切な意味合いは、一日という時間の中に在るとしても、頼らないのである。何物にも頼らないということが日常の生活で行われる時、仏性が明らかに現れるのである。仏性が明らかに現れるとは、この一日において、一体どの時節が来たというのだろうか、明らかに現れた所はどこの国土なのだろうか(と思いたくなるものだが、時節にも場所にも関係がないのである)。今言う一日は、人間の一日というのが適当なのか、それとも他の者の一日というものがあるのか、白銀世界の一日が一時来たと言うのか、たとえこの世界としても、たとえ別の世界だとしても、頼らないのである。確かに一日のなかでのことであり、頼らないのである。

 

 「便(すなは)ち是れ長老の見処なることなきや」と言うのは、「これ(十二時中不依倚一物………)を、南宋の問いに対する長老の見解だと言わないのか(見解には違いないが、それが長老のなのかどうか)」と言っているようなものである。長老の見解か、と言っても、長老の自己の見解だと考えをめぐらしてはいけない。自己にあてはまりはするが、それは黄檗ではない。黄檗とは、必ずしも自己のことだけを言うのではない、自己以外の黄檗というのもあるのだ(心を寄せたあらゆる事物が黄檗であり、そこに仏性は明らかに現れるということもあるのだから)、と言うのも、長老の見解というものは、明らかであり、窮屈感のない広々としたものだからである。

 

 

 黄檗が答えた、「不敢(さあどうでしょう)」。(あなたの見解はないのですか?    or

あなたは仏性を明見したことはないのですか?に対する答え)

 

 この言い方は、宋の時代の中国では、自己にある能力を問われた際、能力があると言うのが適当だとしても、不敢と言うのだ。そうであるから、不敢という言葉は、不敢の本来の意味を表してはいない。この真理を表出しているところの不敢という言葉(今述べた本来の意味を表していないところの不敢という言葉、道得)は不敢という言葉(一般的な意味の不敢という言葉、道取)であるそのことに余計な詮索をしてはいけない。長老の見解が譬え長老のものであっても、黄檗のものであっても、答えるときは、「さあどうでしょうか」と言うのがふさわしい。牛が出てくれば、モウモウというしかない(のと同じでその本性からでてきたものである)。このように言う(牛の例、道取)のは、何の詮索もいらないそのままの意味の言葉(道取)である。その言葉の持つ大切な隠れた意味をもつ言葉と、また包み隠さない、何の詮索もいらない意味の言葉(道取)を、試みに言ってみなさい(道得が道取であるものと道取が道取である、この二つの道取(言葉)があるのだ)。

 

感 想

・今回もよくわからないところばかりでした。「長老見処」の見処を考え、見識くらいの意味にとって解釈しましたが、仏性を明見するところという意味もあるのかなと思っています。

 「何物にも頼らないがよい」というのも、その見解が、そのまま仏性を明見したものであることを証しているのではないだろうか。今回取り上げた部分の前半で、「明見仏性はたれが所作なるぞ」と道取せんもおなじかるべし、という文があったが、その後の文にずっと反響しているように感じる。なので、それを見解とは言わないのかとか、だれの見解なのかを問題にしているのだろうか。

 

・言葉には大切な意味が隠れている(意図して隠したり、言った本人も気づかない場合もある)言葉とありのままの意味の言葉がある(今回の不敢のように、本人はありのままに言ったのだが、周りがそうはとらない場合もある)。

 道元禅師は、よく~の宗旨は、~であるという感じで説かれることがあるが、言葉の隠れた意味を教えてくれている。

 

 

≪百丈山大智禅師、衆に示して云く「仏は是れ最上乗なり、是れ上々智なり。是れ仏道立此人(りつしにん)なり、是れ仏有)仏性なり、是れ導師なり。是れ使得無所礙風(むしよげふう)なり、是れ無礙慧(むげゑ)なり。於後(ここに)能く因果を使得(すて)す、福智自由なり。是れ車となして因果を運載す。生に処して生に留められず、死に処して死に礙(さ)へられず、五陰に処して門の開くるが如し。五陰に礙へられず、去住自由にして、出入無難なり。若し能く恁麼なれば、階梯勝劣を論ぜず、乃至蟻子之身(ぎすのみ)も、但(ただ)能く恁麼なれば、尽く是れ浄妙国土、不可思議なり」≫

 

 

 これすなはち百丈の道処なり。いはゆる五蘊は、いまの不壊身(ふゑしん)なり。いまの造次は門開なり、不被五陰礙なり。生(しょう)を使得(すて)するに生にとゞめられず、死を使得するに死にさへられず。いたづらに生を愛することなかれ。みだりに死を恐怖(くふ)することなかれ。すでに仏性の所在なり、動著し厭却(えんきや)するは外道なり。現前の衆縁と認ずるは使得無礙風なり。これ最上乗なる是仏なり。この是仏の処在、すなはち浄妙国土なり。

 

 

用語について

・五陰⇒五陰と五蘊は、サンスクリット語「パンチャ・スカンダ」を訳した同じ仏教概念であり、訳語やニュアンスの違いはあるものの、内容としては「色・受・想・行・識」という五つの心身要素を指す点で同一です。古い訳では「五陰」、玄奘以降の新訳では「五蘊」と表記されることが多く、「陰」は真理を覆い隠す側面、「蘊」は集まり・積み重なりの側面を強調します。(AIの回答)

 

・不壊身⇒並外れて固く、決して壊れないこと。または、非常に意志が固いこと。「金剛」は「堅固」という意味の梵語を、漢語に翻訳した言葉。「不壊金剛」ともいう。

                       (四字熟語辞典 online)

 

・造次⇒【定義】①僅かの間の振る舞い、挙動。②いそいで。③かりそめにも。

                       (つらつら日暮らしwiki)

 

・さ・ふ 【障ふ】⇒[一]自動詞ハつかえる。[二]他動詞 妨げる。

                          (weblio 古語辞典)

 

・みだり⇒り【乱・妄・濫・猥・漫】〘 形容動詞ナリ活用 〙

① 秩序を無視するさま。道理がたたないさま。

② 思慮、分別を欠いているさま。いいかげんであるさま。

③ しかるべき根拠、理由がないさま。

④ 節度を失しているさま。度を過して、むやみやたらであるさま。

⑤ 他から規制されず、自分の意志のままであるさま。勝手気ままであるさま。

⑥ 礼儀、作法にもとるさま。

⑦ 特に男女関係、性について慎みのないさま。みだら。

                   (精選版 日本国語大辞典)

 

・すでに⇒副詞①すっかり。まったく。②〔多く下に過去や完了の表現を伴って〕もはや。もう。とっくに。③〔多く下に推量の表現を伴って〕今まさに。もう少しで④〔多く下に断定の表現を伴って〕まさしく。確かに。現に。

                       (weblio 古語辞典)

 

意 訳

 百丈山大智禅師が大衆に次のように説示された、「仏は衆生にとって悟りの彼岸に渡してくれる最上の乗り物であり、この上もない智であり、仏の道という、此れを立てた人(or 仏の道にこの人は立っているのであり)であり、仏に仏性有りと言われるところの仏性を具現している人であり、衆生を導く師である。そして、自己を、また他を害さない、動じさせない働きを使いこなし(平常心)、また、自他を害さない、束縛しない智慧である。ここに至って、因果に翻弄されるのではなく、逆に能く因果を使いこなす(処する)ことになり、だから福にも智にも縛られることなく、追い回すことがなく、福智から自由である。だから仏は、自己を車となして、因果を載せて運んでいるようなものだ(因果を自己の外にあるものとするのではなく、一体となっているのだ)。生に於いては、生に引き留められることなく、死においては、死に害されることがなく、物質(色)、感受作用(受)・概念作用(想)・意志作用(行)・認識作用(識)の五陰(この身)に処しても門が開いているように、それらの五陰に妨げられる、縛られるということがないので、五陰に留まることにも去ることにも執着がなく、五陰への出入りに難がないのである(五蘊に去住し、出入りする、それが真の自己、自己の正体であり、さらに真の自己の本性である仏性を具現しているのが仏という存在である)。こうなれば、優劣などという物差しなど意味がなく、人間はおろか蟻も、その身もその身の周りの環境も、悉くが浄土となる。なんと人智を超えたことであることか。」

 

 以上が百丈が説示した言葉である。私(道元禅師)が補足して言うと次のようになる。

 

 よく使われる五蘊(五陰)という言葉は、ここでは仏の身となっているので不壊身を意味している。た、五陰に住しているつかの間の働きは、ここでは、仏の働きとなっているので、五陰に束縛されることがない、五陰を妨げとなるものと意識しない働きである。だから生に処するのに、生に留められることなく、死に処するのに、死に妨げられるということがない、生死と一体となっている(処するとはそういうことである)。わたしたちは、意味もなく生を愛してはいけない、思慮を欠いて死を恐怖してはいけない、その身には確かに本性としての仏性が在しているのであり、仏性と一体であり、生死に動じたり、生死を忌み嫌って退けたりするのは、仏道から外れた道である。縛られる因縁という、私たちがそれに隷属するものではなく、私たちが主体として、現成させるところの多くの因縁の現れがこの世界であると認識することは、正に無礙なる風を使いこなす(自他を害さないし、動じさせない)ふるまいである。これが、衆生を悟りへ渡してくれる最上の乗り物である真の仏、仏の正体というものである。この真の仏の在する処である、仏の身もその身の周りの環境も悉くが浄土である(浄土とはそういうものを言う)。

感 想

・正法眼蔵を読んでいると、自己とは何かとよく考えさせられるし、道元禅師はそこのところ、どう観ていたのかとも考えさせられる。それは、仏性とは何か、仏とは何かを考えることと切っては考えられないですね。このブログでも以前に「自己について1~4」で、自分なりに考えていることや岡潔博士の言葉を引用させてもらって感じることを書きましたが、真の自己を知るには、きっと理性というものではわからない、純粋直観というものに依らなければわからないのでしょう。

 

・今回もかなり勝手な解釈をしていると思います。