今回は、前回の文章から本文2、3ページ飛ばしたところから、
用語について
・尊宿⇒【定義】宿は老大ということであり、特に優れた有徳有道(ゆうどう)の僧に対して用いられる尊称のこと。耆宿(きしゅく)ともいう。(つらつら日暮らしwiki)
・有道⇒《「ゆうとう」とも》正しい道にかなっていること。正しい道にかなった行いをすること。また、その人。 (デジタル大辞泉)
・耆⇒音読み:キ、 ギ、 シ 訓読み:おい・る
・業道依正⇒前業の結果受けている生活の仕方と、環境と主体と。(脚注)
・三乗⇒【定義】三種の乗り物の意。ここでいう乗り物とは、衆生を悟りに導いていく教えを喩えたものであり、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗のことである。または縁覚乗を独覚乗ともいい、菩薩乗を仏乗ともいう。仏は、衆生の機根に応じて、様々な教えを説いたとされ、この三乗については、前二乗が小乗仏教であるとされ、後の一つが大乗仏教であるともされた。(以下略) (つらつら日暮らしwiki)
・声聞乗⇒………大乗仏教では全仏教を声聞乗(しようもんじよう),縁覚乗(えんがくじよう),菩薩乗(ぼさつじよう)の3種に分け,それぞれ能力の異なった3種類の対象のために異なった教えがあるとしている。声聞は最も能力の劣ったもので,仏の声に導かれてみずからの悟りのみを求めるものであり,次位の縁覚はひとりで悟りを開いたもの,最上位の菩薩はみずからのためのみならずいっさいの人間の悟りのために修行しているものを意味し,声聞,縁覚は自利,菩薩は自利利他とする………。(世界大百科事典旧版)
・五乗⇒人乗・天乗・声聞乗・縁覚乗・菩薩乗。宗派により名称が異なる。(デジタル大辞泉)
・さらに⇒【更に】副詞 ①改めて。新たに。事新しく。今さら。②その上。重ねて。いっそう。ますます。③〔下に打消の語を伴って〕全然…(ない)。決して…(ない)。少しも…(ない)。いっこうに…(ない)。 (weblio 古語辞典) ここでは③の意か。
・参学⇒【定義】参禅学道の略。参禅して仏道を学ぶこと。仏祖が正伝してきた仏法を自ら修証して学ぶこと。特に、道元禅師に於いては、参学は綿密に行われるべきであり、しかも一度に結果を求めてはならないとされる。
・鳥道⇒【定義】中国曹洞宗の洞山良价禅師が創唱した三路の一。鳥の行く道には、人間の行く道のように固定した「道路」はなく、自由無礙なこと。跡を残さず歩み。捉えられぬ足跡。
・承当⇒【定義】①会得すること、領得すること。合点すること、首肯すること。②引き受けて、責任を持って担当すること。 (以上 つらつら日暮らしwiki)
・大機⇒だいき 仏語。大乗の教えを受け、それを実践する資質。また、その資質を有する者。⇔小機。 (デジタル大辞泉)
・一隻⇒1 船一そう。2 一対(いっつい)の物の片方。(デジタル大辞泉)
・拄杖⇒【定義】杖のこと。禅僧は行脚の時に用いたり、説法する際の仏具として用いられた。他には、払子・如意・扇子、など。
【内容】身体を支える杖のことであり、ブッダは僧が老齢になったり病気の際に力が無くなると、杖を用いることを許した。禅宗では、僧が行脚の時に動物から身を守るためなどに用いたとされ、修行道場では僧を誡め、上堂して法を説く際の仏具として用いられた。なお、道元禅師が使っていたのは、黒かったと思われる。道元禅師は、この説法の場所で使われる拄杖の意味を転じて、拄杖そのものが法であるとした。 (つらつら日暮らしwiki)
・馬祖⇒馬祖道一 思想…馬祖禅とも呼ばれるその禅思想では、禅宗で初めて経典や観心によらずに日常生活の中に悟りがある大機大用の禅を説き、「平常心是道」(びょうじょうしんこれどう)、「即心即仏」など一言で悟りを表す数多くの名言を残している。また、相手に合わせて教え方を変える対機説法(たいきせっぽう)を始め、これによって多彩な弟子を育てると共に、士大夫階級に数多くの信者を獲得し、遂には禅の正系の座を荷沢宗(かたくしゅう)より奪ってしまった。
・荷沢宗⇒、中国における仏教の宗派であり、唐の僧である神会を中心として形成された、禅宗の一つである。名称は、神会が拠点とした荷沢寺に由来する。
(以上 wekipedia)
)
・曠然縄墨外⇒広々として墨縄(すみなわ)を引いた規格の外にある (脚注)
・受持⇒【定義】①教えを受けたならば、記憶していくこと。受け持つこと。
②非常に強い信心を持って、大乗の経典などを自己の所有とすること。受持・読・誦・解説・書写(・広説)は、大乗経典の功徳を発すとされる。(つらつら日暮らしwiki)
・儻⇒意義 1ひいでる。2たちまち。3いやしくも。4もしくは。5志を失うさま
(wiktionary 日本語版)
・魔子⇒【定義】「魔」というのは、仏道修行を妨げる存在のことであり、「子」は人のこと。よって、仏道修行を妨げ、仏祖の大道を破壊する者を指す。(つらつら日暮らしwiki)
・三宝⇒仏教徒が帰依すべき三つの宝、すなわち仏・法・僧のこと。仏とはさとりを開いたもの、法とは仏によって説かれた教え、僧とはその教えに従って生活する集団である。
(web版 新纂浄土宗大辞典)
意 訳
杭州塩官県の斉安国師は、馬祖門下の有徳有道の老僧である。ちなみに参禅学道する人たちに次のように説示された、「一切衆生有仏性」。
一切衆生有仏性という言葉のなかの、よく言われるところの「一切衆生」という言葉を、気に留めずにしておかず、すみやかに参究しなさい。一切衆生は、その生活の様子といい、その人柄や環境、物の見方、考え方もまちまちである。例えば、凡人もいれば外道も居り、三乗五乗なども居るといった具合だ。今、仏道において言う一切衆生というのは、まず心の有る者は皆衆生である。何故なら心は是衆生だからだ。心の無い者も(例えば、草木国土、日月星辰、心と一体となっているもの、分離できないもの)同じく衆生である。何故なら衆生は是心だからである。そうであるなら、心は皆衆生であり、衆生には皆、仏性が有るといえる。草木国土も日月星辰も心であり、心であるから衆生であり、衆生であるから仏性が有る。国師が説示されたことは以上のことだと言える。もしそうでないとすると、それは仏道で言うところの有仏性ではない。
いま国師の言われた大切な意味は「一切衆生有仏性」ということだけである。この言葉からは、全く衆生ではないものには、仏性は有ると言えないだろうということになる。そこで一時、国師に次の様に問いなさい、「一切の諸仏には、仏性は有るのか無いのか」と。このように問い、国師を試験してみるべきである。「一切衆生即仏性」といはず、「一切衆生、有仏性」と国師が言った点をよく考えてみるべきである。仏道においては、本来この有は、全く脱落させるべきである。有るとか無いといった概念の脱落は、それは一本の鉄の棒であり、時空を確固と貫く真理といえる。そしてこの一本の鉄の棒の如き真理は、鳥の行く道のように、固定した「道路」のない自由無礙なものである。この有の脱落から一切衆生有仏性は一切仏性有衆生でもあるといえる。この逆転は、衆生という概念も仏性という概念も空無化してしまう。国師は仮に、仏性について理解したことを言葉で十分に余すことなく表現していないとしても、十分な表現の機会が無いという訳ではない。今日の一切衆生有仏性の言葉に大切な意味合いが無いわけではない。また、自己が仏性を具するという道理について、まだ、自ら正しく理解していなくても、地、水、火、風、色、受想、行、識が教えてれることもあるだろうし、皮肉骨髄という身体が教えてくれることもあるだろう。仏性に関わる道取も、一つの生において道取することもあるし、逆に道取の視点から見たら(道取のために生があると見たら)、道取にかかる人生というものもいく世に渡ってある。
大潙山大円禅師はあるとき、参禅学道する人たちに次のように説示された、「一切衆生無仏性」。
これを聞いた人界、天界の中に、悦ぶ大機の者が居り、また、驚き疑う類のものがいないわけでもない。釈尊が言われたのは、「一切衆生悉有仏性」である。大潙が言ったのは「一切衆生無仏性」である。有ると無いでは大きく異なるだろう(or 有るという理屈と無いという理屈には大きな違いがあるだろう)。言っていることが正しいのか間違っているのかといった疑いも、きっと生じるだろう。そうであっても、「一切衆生無仏性」という言葉だけが仏道においては、すぐれているのだ。塩官県斉安国師の有仏性の言葉は、たとえ古仏(釈尊)と、お互いに片方の手を出し合う様(同じことの比喩?)に観えるが、それでもやはり、一条拄杖(真理)を、釈尊の言葉の助けを借りなければ、捉えられないというのが適切な見方だ。
いまの大潙はそうではない、真理を究尽している大潙と釈尊を、一条拄杖(真理)は飲み込んでいるというのが適切な見方だ。塩官県斉安国師は、馬祖道一禅師の子弟子であり、大潙は孫弟子にあたる。孫弟子は、師の言葉を参学するのに、子弟子に比べてより多くの時があり、よく通達しているのに対し、子弟子は時が少なく、通達できないのである。今の、孫弟子の大潙の、道理の極致は、「一切衆生無仏性」である。この言葉を、未だに自分の手に負えない、捉えきれないものとせずに、大潙は、強い信念を持って自己のものとしているのだ。さらにこの言葉を深く考えて見なさい。一切衆生がどうして仏性であろうか、仏性を持っているだろうかと。もし仏性があるのなら、その者は、とびぬけた魔である。魔である者たちを一切衆生に重ねることで、一切衆生は仏性もあれば魔性もあるということになる(分別心で考えれば、仏性が有るとは魔性もあることになるのだ)。(分別心で考えると)仏性と衆生は区別すべきであり、衆生は元から仏性を備えているという訳ではない。そして、衆生が仏性を十分に備えようと求めても、仏性が初めてやってくることができるものでもない(分別心で、仏性とはこういうものだと、勝手に概念として、あらかじめ捉えてしまっている)のだ。「張公が酒を喫すれば、李公が酔う」という理屈にあわないことは言わず、分別心で考えていくなら「一切衆生無仏性」というしかないというのが、大潙の考えである。もし、自然と自己に仏性が備わっているようなら、それは衆生ではない。反対に、すでに衆生であるなら、そこに仏性はないということだ。
そこで、百丈禅師は次のように言われた、「衆生に仏性が有ると説くと、仏法僧を謗ることになる。衆生には仏性は無いと説くと、仏法僧を謗ることになる」。つまり、どちらにしても、仏法僧を謗ることになる。そうは言っても、衆生について、仏性について、有無について言及しないでいるべきではない。
ひとまず汝らに質問する、大潙禅師、百丈禅師よ、しばらく聞きなさい。謗りはたしかに無いわけではないが、仏性については、説くことができたのかどうなのだ、このままでは、仮に説き得たとしても、説示者の悟りを邪魔し害することになるだろう。そして、説く者がいれば、それを聞く者もいて、同じく害されるだろう。また、学道の者は大潙禅師に言いなさい、「一切衆生無仏性と言いえたとしても、一切仏性無仏性とは言わず、まして一切諸仏無仏性とは夢にも見ないところだ。試みにこの点について着目してください」と。
感 想
・有心も無心も心であるということだろう。無心とは、無心で何々を行うなどと言う時の無心?この有無のつかない心は、真の心であり、分別心で変色させられると有心者とか無心者というような使われ方をしてしまう。真の心は、風火の動著である心意識ではなく、一般的な心の働きではない。宇宙は一大観念態であり、精神も物質もこの観念態の現れであり、同じものの裏表のようなものだということを山崎弁栄聖者が言われていたように記憶している、ここでいう心から、この一大観念態を想起した。