下線部分は特に意味がわからなかったところです。

 

 

  黄檗在南泉茶堂内坐。南泉問黄檗、「定慧等学、明見仏性。此理如何」。

 

≪黄檗、南泉の茶堂(さあだう)の内に在つて坐す。南泉、黄檗に問ふ、「慧等学(ぢやうゑとうがく)、明見仏性。此理如何」≫ 

 

 黄檗云(いはく)、「十二時中不依倚一物始得(ふえいいちもつして)≪十二時中一物にも依倚せずして始得ならん≫」。

 

 南泉云、「莫便是長老見処(もべんしちやうらうけんじよま)≪便(すなは)ち是れ長老の見処なることなきや≫」。

 

 黄檗曰、「不敢(ふかん)」。

 

 南泉云、「漿水銭且致(しやうすいせんしやち)、草鞋銭教什麼人還(さうあいせんけうしもじんげん≪奬水銭は且(しばら)く致(お)く草鞋銭は什麼人(なにびと)をしてか還(かへ)さしめん≫)」。

 

 黄檗便休(べんきう)≪黄檗便ち休す≫。

 

 いはゆる「定慧等学」の宗旨は、定学の慧学をさへざれば、等学するところに明見仏性のあるにはあらず、明見仏性のところに、定慧等学の学あるなり。「此理如何」と道取するなり。たとへば、「明見仏性はたれが所作なるぞ」と道取せんもおなじかるべし。「仏性等学、明見仏性、此理如何」と道取せんも道得(だうて)なり。

 

 黄檗いはく、「十二時中不依倚一物」といふ宗旨は、十二時中たとひ十二時中に処在せりとも、不依倚なり。不依倚一物、これ十二時なるがゆゑに仏性明見なり。この十二時中、いづれの時節到来なりとかせん、いづれの国土なりとかせん。いまいふ十二時は、人間(にんげん)の十二時なるべきか、他那裏(たなり)に十二時のあるか、白銀(びやくごん)世界の十二時のしばらくきたれるか。たとひ此土(しど)なりとも、たとひ他界なりとも、不依倚なり。すでに十二時中なり、不依倚なるべし。

 

 「莫便是長老見処麼」といふは、「これを見処とはいふまじや」といふがごとし。長老見処麼と道取すとも、自己なるべしと回頭(ういてう)すべからず。自己に的当なりとも、黄檗にあらず。黄檗かならずしも自己のみにあらず、長老見処は露回々(ろういうい)なるがゆゑに。

 

 黄檗いはく、「不敢(ふかん)」。

 

この言(ごん)は、宋土に、おのれにある能を問取せらるゝには、能を能といはんとても、不敢といふなり。しかあれば、不敢の道は不敢にあらず。この道得(だうて)はこの道取なること、はかるべきにあらず。長老見処たとひ長老なりとも、長老見処たとひ黄檗なりとも、道取するには「不敢」なるべし。一頭水牯牛出来道吽(いてうすいくにうしゆつらいだううんうん)≪一頭の水牯牛出で来りて吽吽と道(い)ふ≫なるべし。かくのごとく道取するは道取なり。道取する宗旨さらに又道取なる道取、こゝろみに道取してみるべし。

 

用語について

・見処⇒〘 名詞 〙 ( 「けんしょ」とも ) 仏語。① 禅でいう語。観じた所。観点。視点。② さまざまな誤った見解を生じる依りどころ。

                  (精選版 日本国語大辞典)

 

麼⇒[訓義]1. こまかい、ちいさい、かすか。2. なに、いかに、か、や。

3. 語助詞

                     (普及版 字通)

 

・禅那⇒【定義】パーリ語のjhana、サンスクリット語のdhyanaの音写。意味としては禅定に同じ。旧訳では「定」と訳したが、新訳では「静慮」と訳す。

 

・禅定⇒【定義】①禅(禅那・dhyana)という梵語の音訳と、定という意を合した語句。真理を観ずるために、坐禅を修し、心を一処に住して散乱しないこと、習禅。六波羅蜜の一。②色界の四禅と、無色界の四定とを合わせて、四禅八定という。③坐禅と同じ意で用いる。

 

【内容】③に関連して、道元禅師は坐禅と禅定とを混同してはならないとしている。それは、坐禅が仏行であり、智慧を得る手段に堕する禅定とは一線を画するからである。

                    (以上 つらつら日暮らしwiki)

 

・不敢⇒[動]1 <謙>(=不敢当bùgǎndāng)おそれいります.

2 …する勇気がない.(勇気がなくて)…できない.

                     (中日辞典)

 

 

・漿水⇒〘名詞 〙 どろりとした飲み物、おもゆなど。また、米のとぎ汁。濃漿(こんず)。                 (精選版 日本国語大辞典)

 

・宗旨⇒1 宗門の信仰内容の主旨として説くところ。ある宗教の教えの中心教義。「

2 一つの宗教の中の流派。宗門。宗派。

3 自分の主義・主張・趣味。好みのやり方や考え方。

                        (デジタル大辞泉)

 

・道得⇒【定義】「道い得る」と訓ずる。①仏法の道理を説き尽くすこと。②略

【内容】道得という言葉は普通、口業説法の意で解されることが多いわけだが、しかし、道元禅師は「真理を表詮し得る」という意味で用い、口業のみに限定されず、身業説法に於いてもそれが可能であると示す。

                (つらつら日暮らしwiki)

 

 

・回頭⇒〘名詞 〙

①     頭をめぐらすこと。ふりむくこと。② 船、飛行機などが進路を変えること。変針。転進。

                  (精選版 日本国語大辞典)

 

・水牯牛⇒中国南方の水辺に飼われる牛  (脚注)

 

意 訳

 黄檗が南泉の茶堂の内に坐していた時、南泉が黄檗に次のように質問した、「禅定と智慧を等しく学ぶ、仏性を明らかに見る。此の二つの関係をどう思いますか」。

 

 黄檗が答えた、「1日中、何物にも頼らないことで、初めてその道理が分かるだろう」

 

 南泉が言った、「(長老の今言われたことでは、私の質問の答えになってないように思う のですが)長老の見解はないのですか」

 

 黄檗が答えた、「さあどうでしょうか」。

 

 南泉が言った、「何物にも頼らないというのでしたら、食事代はひとまず置いておいて、師を求め、教えを求めて(頼って)全国を行脚するのに履いた草鞋のお金を返させましょう。」

 

 黄檗は黙った。

 

 以上の黄檗と南泉のやり取りを私(道元禅師)はどう見るかというと「定慧等学」の大切な意味合いは、禅を学び、行うことは、智慧を身につけることを妨げはしないので、禅定と智慧を等しく学ぶことで、仏性を明見することができる、ということではなく、反対に仏性を明見すれば、禅定と智慧を等しく学べるようになるということを言っているのである。「此理如何」とはこの道理は「何」としか言いようのない説明できないものだと言っているのだ。端的に言えば、「仏性を明見したのは、誰か」と言っているのと同じである(定慧等学できていることは仏性を明見したことのある証であると言えるので、具体的に誰が仏性を明見したとわかるのだが、等学の先に明見仏性があるとしたら、明見仏性とは概念にしか過ぎなく、雲を攫むようなものである)。「仏性を明見するところに、仏と仏性を等しく学ぶことができる。この道理は何のごとし」と言うとしたら、それもまた道理を説き尽くした言葉と言える。

 

 黄檗の言う、「一日中、何物にも頼らない」の言葉の大切な意味合いは、一日という時間の中に在るとしても、頼らないのである。何物にも頼らないということが日常の生活で行われる時、仏性が明らかに現れるのである。仏性が明らかに現れるとは、この一日において、一体どの時節が来たというのだろうか、明らかに現れた所はどこの国土なのだろうか(と思いたくなるものだが、時節にも場所にも関係がないのである)。今言う一日は、人間の一日というのが適当なのか、それとも他の者の一日というものがあるのか、白銀世界の一日が一時来たと言うのか、たとえこの世界としても、たとえ別の世界だとしても、頼らないのである。確かに一日のなかでのことであり、頼らないのである。

 

 「便(すなは)ち是れ長老の見処なることなきや」と言うのは、「これ(十二時中不依倚一物………)を、南宋の問いに対する長老の見解だと言わないのか(見解には違いないが、それが長老のなのかどうか)」と言っているようなものである。長老の見解か、と言っても、長老の自己の見解だと考えをめぐらしてはいけない。自己にあてはまりはするが、それは黄檗ではない。黄檗とは、必ずしも自己のことだけを言うのではない、自己以外の黄檗というのもあるのだ(心を寄せたあらゆる事物が黄檗であり、そこに仏性は明らかに現れるということもあるのだから)、と言うのも、長老の見解というものは、明らかであり、窮屈感のない広々としたものだからである。

 

 

 黄檗が答えた、「不敢(さあどうでしょう)」。(あなたの見解はないのですか?    or

あなたは仏性を明見したことはないのですか?に対する答え)

 

 この言い方は、宋の時代の中国では、自己にある能力を問われた際、能力があると言うのが適当だとしても、不敢と言うのだ。そうであるから、不敢という言葉は、不敢の本来の意味を表してはいない。この真理を表出しているところの不敢という言葉(今述べた本来の意味を表していないところの不敢という言葉、道得)は不敢という言葉(一般的な意味の不敢という言葉、道取)であるそのことに余計な詮索をしてはいけない。長老の見解が譬え長老のものであっても、黄檗のものであっても、答えるときは、「さあどうでしょうか」と言うのがふさわしい。牛が出てくれば、モウモウというしかない(のと同じでその本性からでてきたものである)。このように言う(牛の例、道取)のは、何の詮索もいらないそのままの意味の言葉(道取)である。その言葉の持つ大切な隠れた意味をもつ言葉と、また包み隠さない、何の詮索もいらない意味の言葉(道取)を、試みに言ってみなさい(道得が道取であるものと道取が道取である、この二つの道取(言葉)があるのだ)。

 

感 想

・今回もよくわからないところばかりでした。「長老見処」の見処を考え、見識くらいの意味にとって解釈しましたが、仏性を明見するところという意味もあるのかなと思っています。

 「何物にも頼らないがよい」というのも、その見解が、そのまま仏性を明見したものであることを証しているのではないだろうか。今回取り上げた部分の前半で、「明見仏性はたれが所作なるぞ」と道取せんもおなじかるべし、という文があったが、その後の文にずっと反響しているように感じる。なので、それを見解とは言わないのかとか、だれの見解なのかを問題にしているのだろうか。

 

・言葉には大切な意味が隠れている(意図して隠したり、言った本人も気づかない場合もある)言葉とありのままの意味の言葉がある(今回の不敢のように、本人はありのままに言ったのだが、周りがそうはとらない場合もある)。

 道元禅師は、よく~の宗旨は、~であるという感じで説かれることがあるが、言葉の隠れた意味を教えてくれている。

 

 

≪百丈山大智禅師、衆に示して云く「仏は是れ最上乗なり、是れ上々智なり。是れ仏道立此人(りつしにん)なり、是れ仏有)仏性なり、是れ導師なり。是れ使得無所礙風(むしよげふう)なり、是れ無礙慧(むげゑ)なり。於後(ここに)能く因果を使得(すて)す、福智自由なり。是れ車となして因果を運載す。生に処して生に留められず、死に処して死に礙(さ)へられず、五陰に処して門の開くるが如し。五陰に礙へられず、去住自由にして、出入無難なり。若し能く恁麼なれば、階梯勝劣を論ぜず、乃至蟻子之身(ぎすのみ)も、但(ただ)能く恁麼なれば、尽く是れ浄妙国土、不可思議なり」≫

 

 

 これすなはち百丈の道処なり。いはゆる五蘊は、いまの不壊身(ふゑしん)なり。いまの造次は門開なり、不被五陰礙なり。生(しょう)を使得(すて)するに生にとゞめられず、死を使得するに死にさへられず。いたづらに生を愛することなかれ。みだりに死を恐怖(くふ)することなかれ。すでに仏性の所在なり、動著し厭却(えんきや)するは外道なり。現前の衆縁と認ずるは使得無礙風なり。これ最上乗なる是仏なり。この是仏の処在、すなはち浄妙国土なり。

 

 

用語について

・五陰⇒五陰と五蘊は、サンスクリット語「パンチャ・スカンダ」を訳した同じ仏教概念であり、訳語やニュアンスの違いはあるものの、内容としては「色・受・想・行・識」という五つの心身要素を指す点で同一です。古い訳では「五陰」、玄奘以降の新訳では「五蘊」と表記されることが多く、「陰」は真理を覆い隠す側面、「蘊」は集まり・積み重なりの側面を強調します。(AIの回答)

 

・不壊身⇒並外れて固く、決して壊れないこと。または、非常に意志が固いこと。「金剛」は「堅固」という意味の梵語を、漢語に翻訳した言葉。「不壊金剛」ともいう。

                       (四字熟語辞典 online)

 

・造次⇒【定義】①僅かの間の振る舞い、挙動。②いそいで。③かりそめにも。

                       (つらつら日暮らしwiki)

 

・さ・ふ 【障ふ】⇒[一]自動詞ハつかえる。[二]他動詞 妨げる。

                          (weblio 古語辞典)

 

・みだり⇒り【乱・妄・濫・猥・漫】〘 形容動詞ナリ活用 〙

① 秩序を無視するさま。道理がたたないさま。

② 思慮、分別を欠いているさま。いいかげんであるさま。

③ しかるべき根拠、理由がないさま。

④ 節度を失しているさま。度を過して、むやみやたらであるさま。

⑤ 他から規制されず、自分の意志のままであるさま。勝手気ままであるさま。

⑥ 礼儀、作法にもとるさま。

⑦ 特に男女関係、性について慎みのないさま。みだら。

                   (精選版 日本国語大辞典)

 

・すでに⇒副詞①すっかり。まったく。②〔多く下に過去や完了の表現を伴って〕もはや。もう。とっくに。③〔多く下に推量の表現を伴って〕今まさに。もう少しで④〔多く下に断定の表現を伴って〕まさしく。確かに。現に。

                       (weblio 古語辞典)

 

意 訳

 百丈山大智禅師が大衆に次のように説示された、「仏は衆生にとって悟りの彼岸に渡してくれる最上の乗り物であり、この上もない智であり、仏の道という、此れを立てた人(or 仏の道にこの人は立っているのであり)であり、仏に仏性有りと言われるところの仏性を具現している人であり、衆生を導く師である。そして、自己を、また他を害さない、動じさせない働きを使いこなし(平常心)、また、自他を害さない、束縛しない智慧である。ここに至って、因果に翻弄されるのではなく、逆に能く因果を使いこなす(処する)ことになり、だから福にも智にも縛られることなく、追い回すことがなく、福智から自由である。だから仏は、自己を車となして、因果を載せて運んでいるようなものだ(因果を自己の外にあるものとするのではなく、一体となっているのだ)。生に於いては、生に引き留められることなく、死においては、死に害されることがなく、物質(色)、感受作用(受)・概念作用(想)・意志作用(行)・認識作用(識)の五陰(この身)に処しても門が開いているように、それらの五陰に妨げられる、縛られるということがないので、五陰に留まることにも去ることにも執着がなく、五陰への出入りに難がないのである(五蘊に去住し、出入りする、それが真の自己、自己の正体であり、さらに真の自己の本性である仏性を具現しているのが仏という存在である)。こうなれば、優劣などという物差しなど意味がなく、人間はおろか蟻も、その身もその身の周りの環境も、悉くが浄土となる。なんと人智を超えたことであることか。」

 

 以上が百丈が説示した言葉である。私(道元禅師)が補足して言うと次のようになる。

 

 よく使われる五蘊(五陰)という言葉は、ここでは仏の身となっているので不壊身を意味している。た、五陰に住しているつかの間の働きは、ここでは、仏の働きとなっているので、五陰に束縛されることがない、五陰を妨げとなるものと意識しない働きである。だから生に処するのに、生に留められることなく、死に処するのに、死に妨げられるということがない、生死と一体となっている(処するとはそういうことである)。わたしたちは、意味もなく生を愛してはいけない、思慮を欠いて死を恐怖してはいけない、その身には確かに本性としての仏性が在しているのであり、仏性と一体であり、生死に動じたり、生死を忌み嫌って退けたりするのは、仏道から外れた道である。縛られる因縁という、私たちがそれに隷属するものではなく、私たちが主体として、現成させるところの多くの因縁の現れがこの世界であると認識することは、正に無礙なる風を使いこなす(自他を害さないし、動じさせない)ふるまいである。これが、衆生を悟りへ渡してくれる最上の乗り物である真の仏、仏の正体というものである。この真の仏の在する処である、仏の身もその身の周りの環境も悉くが浄土である(浄土とはそういうものを言う)。

感 想

・正法眼蔵を読んでいると、自己とは何かとよく考えさせられるし、道元禅師はそこのところ、どう観ていたのかとも考えさせられる。それは、仏性とは何か、仏とは何かを考えることと切っては考えられないですね。このブログでも以前に「自己について1~4」で、自分なりに考えていることや岡潔博士の言葉を引用させてもらって感じることを書きましたが、真の自己を知るには、きっと理性というものではわからない、純粋直観というものに依らなければわからないのでしょう。

 

・今回もかなり勝手な解釈をしていると思います。

 

 今回は、前回の文章から本文2、3ページ飛ばしたところから、

 

     

 杭州塩官県斉安(かうしうえんぐわんけんせいあん)国師は、馬祖下の尊宿なり。ちなみに衆にしめしていはく、「一切衆生有仏性」。

 

 いはゆる「一切衆生」の言(ごん)、すみやかに参究すべし。一切衆生、その業道依正ひとつにあらず、その見(けん)まちまちなり。凡夫外道、三乗五乗等、おのおのなるべし。いま仏道にいふ一切衆生は、有心者みな衆生なり、心是衆生なるがゆゑに。無心者おなじく衆生なるべし、衆生是心なるがゆゑに。しかあれば、心みなこれ衆生なり、衆生みなこれ有仏性なり。草木国土これ心(しん)なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり。(にちぐわつしやうしん)これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり。国師の道取する有仏性、それかくのごとし。もしかくのごとくにあらずは、仏道に道取する有仏性にあらざるなり。

 

いま国師の道取する宗旨(そうし)は、「一切衆生有仏性」のみなり。さらに衆生にあらざらんは、有仏性にあらざるべし。しばらく国師にとふべし、「一切諸仏有仏性也無(やむ)≪一切諸仏、有仏性なりや也無(またいな)や≫」。かくのごとく問取し、試験すべきなり。「一切衆生即仏性」といはず、「一切衆生、有仏性」といふと参学すべし。有仏性の有、まさに脱落(とつらく)すべし。脱落は一条鉄なり、一条鉄は鳥道(てうだう)なり。しかあれば、一切仏性有衆生なり。これその道理は、衆生を説透(せつてう)するのみにあらず、仏性をも説透するなり。国師たとひ会得(ういて)を道得(だうて)に承当(じようたう)せずとも、承当の期(ご)なきにあらず。今日の道得、いたづらに宗旨なきにあらず。又、自己に具する道理、いまだかならずしもみづから会取せざれども、四大五陰(しだいごおん)もあり、皮肉骨髄もあり。しかあるがごとく、道取も、一生に道取することもあり、道取にかゝれる生々(しやうじやう)もあり。

 

 大潙山大円(だいゐさんだいゑん)禅師、あるとき衆にしめしていはく、「一切衆生無仏性」。

 

 これをきく人天(にんでん)のなかに、よろこぶ大機(だいき)あり、驚疑のたぐひなきにあらず。釈尊の説道は「一切衆生悉有仏性」なり。大潙の説道は「一切衆生無仏性」なり。有無の言理(ごんり)、はるかにことなるべし。道得の当不、うたがひぬべし。しかあれども、「一切衆生無仏性」のみ仏道に長(ちやう)なり。塩官有仏性の道、たとひ古仏とともに一隻(しやく)の手をいだすににたりとも、なほこれ一条拄杖両人舁(しゆぢやうりやうにんよ)なるべし。

 

 いま大潙はしかあらず、一条拄杖呑(たん)両人なるべし。いはんや国師は馬祖の子なり、大潙は馬祖の孫(そん)なり。しかあれども、法孫は師翁(すをう)の道に老大なり、法子(ほつし)は師父の道に年少なり。いま大潙道の理致は、「一切衆生無仏性」を理致とせり。いまだ曠然縄墨外(くわうぜんじようぼくげ)といはず、自家屋裏(じけをくり)の経典、かくのごとくの受持(じゆぢ)あり。さらに模索(ぼさく)すべし、一切衆生なにとしてか仏性ならん、仏性あらん。もし仏性あるは、これ魔(まとう)なるべし。魔子一枚を将来して、一切衆生にかさねんとす。仏性これ仏性なれば、衆生これ衆生なり。衆生もとより仏性を具足せるにあらず。たとひ具せんともとむとも、仏性はじめてきたるべきにあらざる宗旨なり。張公喫酒李公酔≪張公酒を喫すれば李公酔ふ≫といふことなかれ。もしおのづから仏性あらんは、さらに衆生にあらず。すでに衆生あらんは、つひに仏性にあらず。

 

 このゆえに、百丈いわく、「説衆生有仏性、亦謗仏法僧。説衆生無仏性、亦謗仏法僧≪衆生に仏性有りと説くもまた仏法僧を謗(はう)ず。衆生に仏性無しと説くもまた仏法僧を謗ずるなり≫」。しかあればすなはち、有仏性といひ無仏性といふ、ともに謗となる。謗となるといふとも、道取せざるべきにはあらず。

 

 且問你(しやもんにい)、大潙、百丈しばらくきくべし。謗はすなはちなきにあらず、仏性は説得(せつて)すやいまだしや。たとひ説得せば、説著(せつぢや)を罣礙(けいげ)せん。説著あらば聞著と同参なるべし。また、大潙にむかひていふべし。一切衆生無仏性はたとひ道得すといふとも、一切仏性無衆生といはず、一切仏性無仏性といはず、いはんや一切諸仏無仏性は夢也未見在(むやみけんざい)≪夢にもまた未(いま)だ見ざること在る≫なり。試挙看(しこかん)。≪試みに挙げと看(み)よ≫

 

 

用語について

・尊宿⇒【定義】宿は老大ということであり、特に優れた有徳有道(ゆうどう)の僧に対して用いられる尊称のこと。宿(きしゅく)ともいう。(つらつら日暮らしwiki)

 

・有道⇒《「ゆうとう」とも》正しい道にかなっていること。正しい道にかなった行いをすること。また、その人。  (デジタル大辞泉)

 

・耆⇒音読み:キ、 ギ、 シ 訓読み:おい・る

・業道依正⇒前業の結果受けている生活の仕方と、環境と主体と。(脚注)

 

・三乗⇒【定義】三種の乗り物の意。ここでいう乗り物とは、衆生を悟りに導いていく教えを喩えたものであり、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗のことである。または縁覚乗を独覚乗ともいい、菩薩乗を仏乗ともいう。仏は、衆生の機根に応じて、様々な教えを説いたとされ、この三乗については、前二乗が小乗仏教であるとされ、後の一つが大乗仏教であるともされた。(以下略)  (つらつら日暮らしwiki)

 

・声聞乗⇒………大乗仏教では全仏教を声聞乗(しようもんじよう),縁覚乗(えんがくじよう),菩薩乗(ぼさつじよう)の3種に分け,それぞれ能力の異なった3種類の対象のために異なった教えがあるとしている。声聞は最も能力の劣ったもので,仏の声に導かれてみずからの悟りのみを求めるものであり,次位の縁覚はひとりで悟りを開いたもの,最上位の菩薩はみずからのためのみならずいっさいの人間の悟りのために修行しているものを意味し,声聞,縁覚は自利,菩薩は自利利他とする………。(世界大百科事典旧版)

 

・五乗⇒人乗・天乗・声聞乗・縁覚乗・菩薩乗。宗派により名称が異なる。(デジタル大辞泉)

 

・さらに⇒【更に】副詞 ①改めて。新たに。事新しく。今さら。②その上。重ねて。いっそう。ますます。③〔下に打消の語を伴って〕全然…(ない)。決して…(ない)。少しも…(ない)。いっこうに…(ない)。  (weblio 古語辞典) ここでは③の意か。

 

・参学⇒【定義】参禅学道の略。参禅して仏道を学ぶこと。仏祖が正伝してきた仏法を自ら修証して学ぶこと。特に、道元禅師に於いては、参学は綿密に行われるべきであり、しかも一度に結果を求めてはならないとされる。

 

・鳥道⇒【定義】中国曹洞宗の洞山良价禅師が創唱した三路の一。鳥の行く道には、人間の行く道のように固定した「道路」はなく、自由無礙なこと。跡を残さず歩み。捉えられぬ足跡。

 

・承当⇒【定義】①会得すること、領得すること。合点すること、首肯すること。②引き受けて、責任を持って担当すること。  (以上 つらつら日暮らしwiki)

 

・大機⇒だいき 仏語。大乗の教えを受け、それを実践する資質。また、その資質を有する者。⇔小機。 (デジタル大辞泉)

 

・一隻⇒1 船一そう。2 一対(いっつい)の物の片方。(デジタル大辞泉)

 

・拄杖⇒【定義】杖のこと。禅僧は行脚の時に用いたり、説法する際の仏具として用いられた。他には、払子・如意・扇子、など。

 

【内容】身体を支える杖のことであり、ブッダは僧が老齢になったり病気の際に力が無くなると、杖を用いることを許した。禅宗では、僧が行脚の時に動物から身を守るためなどに用いたとされ、修行道場では僧を誡め、上堂して法を説く際の仏具として用いられた。なお、道元禅師が使っていたのは、黒かったと思われる。道元禅師は、この説法の場所で使われる拄杖の意味を転じて、拄杖そのものが法であるとした。                     (つらつら日暮らしwiki)

 

・馬祖⇒馬祖道一 思想…馬祖禅とも呼ばれるその禅思想では、禅宗で初めて経典や観心によらずに日常生活の中に悟りがある大機大用の禅を説き、「平常心是道」(びょうじょうしんこれどう)、「即心即仏」など一言で悟りを表す数多くの名言を残している。また、相手に合わせて教え方を変える対機説法(たいきせっぽう)を始め、これによって多彩な弟子を育てると共に、士大夫階級に数多くの信者を獲得し、遂には禅の正系の座を荷沢宗(かたくしゅう)より奪ってしまった。 

 

・荷沢宗⇒、中国における仏教の宗派であり、唐の僧である神会を中心として形成された、禅宗の一つである。名称は、神会が拠点とした荷沢寺に由来する。

                 (以上 wekipedia)

)

 

・曠然縄墨外⇒広々として墨縄(すみなわ)を引いた規格の外にある (脚注)

 

・受持⇒【定義】①教えを受けたならば、記憶していくこと。受け持つこと。

②非常に強い信心を持って、大乗の経典などを自己の所有とすること。受持・読・誦・解説・書写(・広説)は、大乗経典の功徳を発すとされる。(つらつら日暮らしwiki)

 

・儻⇒意義 1ひいでる。2たちまち。3いやしくも。4もしくは。5志を失うさま

                       (wiktionary 日本語版)

 

・魔子⇒【定義】「魔」というのは、仏道修行を妨げる存在のことであり、「子」は人のこと。よって、仏道修行を妨げ、仏祖の大道を破壊する者を指す。(つらつら日暮らしwiki)

 

・三宝⇒仏教徒が帰依すべき三つの宝、すなわち仏・法・僧のこと。仏とはさとりを開いたもの、法とは仏によって説かれた教え、僧とはその教えに従って生活する集団である。

                       (web版 新纂浄土宗大辞典)

 

 

意 訳

 杭州塩官県の斉安国師は、馬祖門下の有徳有道の老僧である。ちなみに参禅学道する人たちに次のように説示された、「一切衆生有仏性」。

 

 一切衆生有仏性という言葉のなかの、よく言われるところの「一切衆生」という言葉を、気に留めずにしておかず、すみやかに参究しなさい。一切衆生は、その生活の様子といい、その人柄や環境、物の見方、考え方もまちまちである。例えば、凡人もいれば外道も居り、三乗五乗なども居るといった具合だ。今、仏道において言う一切衆生というのは、まず心の有る者は皆衆生である。何故なら心は是衆生だからだ。心の無い者も(例えば、草木国土、日月星辰、心と一体となっているもの、分離できないもの)同じく衆生である。何故なら衆生は是心だからである。そうであるなら、心は皆衆生であり、衆生には皆、仏性が有るといえる。草木国土も日月星辰も心であり、心であるから衆生であり、衆生であるから仏性が有る。国師が説示されたことは以上のことだと言える。もしそうでないとすると、それは仏道で言うところの有仏性ではない。

 

いま国師の言われた大切な意味は「一切衆生有仏性」ということだけである。この言葉からは、全く衆生ではないものには、仏性は有ると言えないだろうということになる。そこで一時、国師に次の様に問いなさい、「一切の諸仏には、仏性は有るのか無いのか」と。このように問い、国師を試験してみるべきである。「一切衆生即仏性」といはず、「一切衆生、有仏性」と国師が言った点をよく考えてみるべきである。仏道においては、本来この有は、全く脱落させるべきである。有るとか無いといった概念の脱落は、それは一本の鉄の棒であり、時空を確固と貫く真理といえる。そしてこの一本の鉄の棒の如き真理は、鳥の行く道のように、固定した「道路」のない自由無礙なものである。この有の脱落から一切衆生有仏性は一切仏性有衆生でもあるといえる。この逆転は、衆生という概念も仏性という概念も空無化してしまう。国師は仮に、仏性について理解したことを言葉で十分に余すことなく表現していないとしても、十分な表現の機会が無いという訳ではない。今日の一切衆生有仏性の言葉に大切な意味合いが無いわけではない。また、自己が仏性を具するという道理について、まだ、自ら正しく理解していなくても、地、水、火、風、色、受想、行、識が教えてれることもあるだろうし、皮肉骨髄という身体が教えてくれることもあるだろう。仏性に関わる道取も、一つの生において道取することもあるし、逆に道取の視点から見たら(道取のために生があると見たら)、道取にかかる人生というものもいく世に渡ってある。

 

 大潙山大円禅師はあるとき、参禅学道する人たちに次のように説示された、「一切衆生無仏性」。

 

 これを聞いた人界、天界の中に、悦ぶ大機の者が居り、また、驚き疑う類のものがいないわけでもない。釈尊が言われたのは、「一切衆生悉有仏性」である。大潙が言ったのは「一切衆生無仏性」である。有ると無いでは大きく異なるだろう(or 有るという理屈と無いという理屈には大きな違いがあるだろう)。言っていることが正しいのか間違っているのかといった疑いも、きっと生じるだろう。そうであっても、「一切衆生無仏性」という言葉だけが仏道においては、すぐれているのだ。塩官県斉安国師の有仏性の言葉は、たとえ古仏(釈尊)と、お互いに片方の手を出し合う様(同じことの比喩?)に観えるが、それでもやはり、一条拄杖(真理)を、釈尊の言葉の助けを借りなければ、捉えられないというのが適切な見方だ。

 

 いまの大潙はそうではない、真理を究尽している大潙と釈尊を、一条拄杖(真理)は飲み込んでいるというのが適切な見方だ。塩官県斉安国師は、馬祖道一禅師の子弟子であり、大潙は孫弟子にあたる。孫弟子は、師の言葉を参学するのに、子弟子に比べてより多くの時があり、よく通達しているのに対し、子弟子は時が少なく、通達できないのである。今の、孫弟子の大潙の、道理の極致は、「一切衆生無仏性」である。この言葉を、未だに自分の手に負えない、捉えきれないものとせずに、大潙は、強い信念を持って自己のものとしているのだ。さらにこの言葉を深く考えて見なさい。一切衆生がどうして仏性であろうか、仏性を持っているだろうかと。もし仏性があるのなら、その者は、とびぬけた魔である。魔である者たちを一切衆生に重ねることで、一切衆生は仏性もあれば魔性もあるということになる(分別心で考えれば、仏性が有るとは魔性もあることになるのだ)。(分別心で考えると)仏性と衆生は区別すべきであり、衆生は元から仏性を備えているという訳ではない。そして、衆生が仏性を十分に備えようと求めても、仏性が初めてやってくることができるものでもない(分別心で、仏性とはこういうものだと、勝手に概念として、あらかじめ捉えてしまっている)のだ。「張公が酒を喫すれば、李公が酔う」という理屈にあわないことは言わず、分別心で考えていくなら「一切衆生無仏性」というしかないというのが、大潙の考えである。もし、自然と自己に仏性が備わっているようなら、それは衆生ではない。反対に、すでに衆生であるなら、そこに仏性はないということだ。

 

 そこで、百丈禅師は次のように言われた、「衆生に仏性が有ると説くと、仏法僧を謗ることになる。衆生には仏性は無いと説くと、仏法僧を謗ることになる」。つまり、どちらにしても、仏法僧を謗ることになる。そうは言っても、衆生について、仏性について、有無について言及しないでいるべきではない。 

 

 ひとまず汝らに質問する、大潙禅師、百丈禅師よ、しばらく聞きなさい。謗りはたしかに無いわけではないが、仏性については、説くことができたのかどうなのだ、このままでは、仮に説き得たとしても、説示者の悟りを邪魔し害することになるだろう。そして、説く者がいれば、それを聞く者もいて、同じく害されるだろう。また、学道の者は大潙禅師に言いなさい、「一切衆生無仏性と言いえたとしても、一切仏性無仏性とは言わず、まして一切諸仏無仏性とは夢にも見ないところだ。試みにこの点について着目してください」と。

 

感 想

・有心も無心も心であるということだろう。無心とは、無心で何々を行うなどと言う時の無心?この有無のつかない心は、真の心であり、分別心で変色させられると有心者とか無心者というような使われ方をしてしまう。真の心は、風火の動著である心意識ではなく、一般的な心の働きではない。宇宙は一大観念態であり、精神も物質もこの観念態の現れであり、同じものの裏表のようなものだということを山崎弁栄聖者が言われていたように記憶している、ここでいう心から、この一大観念態を想起した。