下線の箇所は、特に意味がわからなかった文章です。

 

 

第十四祖龍樹尊者、梵に云那伽閼刺樹那。唐云龍樹亦龍勝、亦云龍猛。西天竺国人也。至南天竺国。彼国之人、多信福業。尊者為説妙法。聞者逓相謂曰、「人有福業、世間第一。徒言仏性、誰能覩之」

 

 

≪第十四祖龍樹尊者、梵に那伽閼刺樹那(ながありじゆな)と云ふ。唐には龍樹また龍勝と云ふ、また龍猛(りゆうみやう)と云ふ。西(さい)天竺国の人なり。南(なん)天竺国に至る。彼(か)の国の人、多く福業(ふくごふ)を信ず。尊者、為に妙法を説く。聞く者、逓相(たがひ)に謂つて曰く、「人の福業有る、世間第一なり。徒(いたづ)らに仏性を言ふ、誰か能く之れを覩(み)たる」≫

 

尊者曰(いはく)、「汝欲見仏性、先須除我慢。≪汝、仏性を見んと欲(おも)はば、先づ須(すべか)らく我慢を除くべし≫」。

 

彼人(かじん)曰、「仏性大耶小耶≪仏性大なりや小なりや≫」。

尊者曰、「仏性非大非小、非広非狭、無福無報、不死不生 ≪仏性は大に非ず小に非ず、広に非ず狭に非ず、福無く報無く、不死不生なり≫」。

 

彼聞理勝、悉廻初心。

≪彼、理の勝(すぐ)れたることを聞いて、悉く初心(めぐ)らす≫

尊者於坐上現自在身、如満月輪。一切衆会(しゆゑ)、唯聞法音、不覩師相。

 ≪尊者、また坐上に自在身を現ずること、満月輪の如し。一切衆会、唯法音のみを聞いて、師相を覩ず

 

於彼衆中、有長者子迦那提婆、謂衆会曰、「識此相否」。

 ≪彼の衆の中に、長者子、(ちやうじやし、かなだいば)といふもの有り、衆会に謂つて曰く、「此の相を識るや否や」≫

 

衆会曰、「而今我等目所未見、耳無所聞、心無所識、身無所住≪而今(いま)我等目に未だ見ざる所、耳に聞く所無く、心に識る所無く、身に住する所無し≫」。

 

提婆曰、「此是尊者、現仏性相、以示我等。何以知之。蓋以無相三昧形如満月。仏性之義、廓然虚明。≪此れは是れ尊者、仏性の相を現じて、以て我等に示す。何を以てか之を知。蓋(けだ)し無相三昧は形満月の如くなるを以てなり。仏性の義は廓然虚明(くわくねんこめい) なり≫」。

 

言訖輪相即隠。復居本坐、而説偈言、

≪言ひ訖(をは)るに、輪相即隠る。また本坐に居(こ)して、偈を説いて言(いは)く≫

 

身現円月相、以表諸仏体、説法無其形、用辯非声色。

 ≪身に円月相を現じ、以て諸仏の体を表(へう)す、説法其の形無し、用辯(ようべん)は声色に非ず≫

 

 しるべし、真箇の「用辯」は「声色」の即現にあらず。真箇の「説法」は「無其形(むごぎやう)」なり。尊者かつてひろく仏性を為説する、不可数量(ふかしゆりやう)なり。いまはしばらく一隅を挙するなり。

 

「汝欲(によよく)見仏性、先須(せんしゆ)除我慢」。この為説の宗旨、すごさず辨肯(はんけん)すべし。「見」はなきにあらず、その見これ「除我慢」なり。「我」もひとつにあらず、「慢」も多般なり、除法また万差(ばんしや)なるべし。しかあれども、これらみな見仏性なり。眼見目覩(げんけんもくと)にならうべし。

 

「仏性非大非小」等の道取、よのつねの凡夫二乗に例諸することなかれ。偏枯(へんこ)に仏性は広大ならんとのみおもへる、邪念をたくはへきたるなり。大にあらず小にあらざらん正当恁麼時の道取に罣礙せられん道理、いま聴取(ちんしゆ)するがごとく思量すべきなり。思量なる聴取を使得(すて)するがゆゑに。

 

しばらく尊者の道著する偈を聞取すべし、いはゆる「身現円月相。以表諸仏体」なり。すでに「諸仏体」を「以表」しきたれる「身現」なるがゆゑに「円月相」なり。

 

しかあれば、一切の長短方円、この身現に学習すべし。身と現とに転疎なるは、円月相にくらきのみにあらず、諸仏体にあらざるなり。

 

愚者おもはく、尊者かりに化身を現せるを円月相といふとおもふは、仏道を相承(さうじよう)せざる党類の邪念なり。いづれのところのいづれのときか、非身の他現ならん。まさにしるべし、このとき尊者は高坐せるのみなり。身現のは、いまのたれ人も坐せるがごとくありしなり。この身、これ円月相現なり。身現は方円にあらず、有無にあらず、隠顕にあらず、八万四千蘊にあらず、ただ身現なり。

 

円月相といふ、這裏是甚麼所在(しやりししもしよざい)、説細説麤月(せつさいせつそげつ)≪這裏是れ甚麼(なに)の所在ぞ、細と説き、麤(そ)と説く月≫なり。

 

この身現は、先須除我慢なるがゆゑに、龍樹にあらず、諸仏体なり。「以表」するがゆゑに諸仏体を透脱(てうとつ)す。しかあるがゆゑに、仏辺にかゝはれず。仏性の「満月(まんぐわつ)」を「形如」する「虚明(こめい)」ありとも、「円月相」を排列するにあらず。いはんや「用辯」も「声色」にあらず、「身現」も色心にあらず、蘊処界(うんじよかい)にあらず。蘊処界に一似(いちじ)なりといへども「以表」なり、「諸仏体」なり。これ説法蘊なり、それ「無其形」なり。無其形さらに「無相三昧」なるとき、「身現」なり。一衆いま円月相を望見すといへども、「目所未見」なるは、説法蘊の転機なり。「現自在身」の「非声色」なり。

 

即隠、即現は、輪相の進歩退歩なり。「復於座上現自在身」の正当恁麼時は、「一切衆会、唯聞法音」するなり、「不覩師相」なるなり。

 

 

用語について

・福業⇒〘 名詞 〙 ( 福楽を招く行為の意 ) 仏語。この世での福楽をもたらす、前世での善い行ない。

                   (精選版 日本国語大辞典)

 

・我慢⇒【定義】

①自己の中心に我があると考え、その我をより所にして心が驕慢であること。己を恃(たの)んで心のおごる煩悩のこと。思い上がり。七慢の一。

②。我があると執着する心。

③慢心。

④わがまま。

                      

・初心⇒【定義】 仏道修行を志したばかりの者、初心者、晩学。

                      (以上 つらつら日暮らしwiki)

 

・廻心⇒以前の価値観や欲望に執着した心が、真理や仏・神へと向き直ること。

「回心」「廻心」は同じ語で、宗教的な「改心」「コンバージョン(conversion)」を表す。

一時的な反省ではなく、「新しい生き方」に至る深い転換を含意する。

                            (AIの回答)

 

・復⇒意義 1かえる。もどる。かえす。もどす。2むくいる。仕返しをする。

3報告する。4くりかえす。再びする。5ふむ。実行する。

                          (Wiktionary 日本語版)

 

・法音⇒説法・読経の音声。Ⓢdharmaśabda。羅什訳『法華経』では釈尊の説法が法音と訳される。浄土教においては極楽の荘厳から奏でられる妙なる音声はすべからく仏の教えを説く音であると理解される。………

                       (web版 新纂浄土宗大辞典)

 

 

・自在

1 意のままであること。自分の思うとおりにできること。また、そのさま。

2 「自在鉤(かぎ)」の略。3 「自在天」の略。

                    

・長者

1 《「ちょうしゃ」とも》年上の人。また、目上の人。年長者。

2 《「ちょうしゃ」とも》徳のすぐれている人。また、穏やかな人。

3 金持ち。富豪。

4 一門一族の統率者。  5.6.7略

                       (以上 デジタル大辞泉)

 

・辯⇒[辯](ベン) 名詞 : 話。ことば。挨拶。 話を述べる能力。動詞 : のべる。主張する。           (wiktionary 日本語版 日本語カテゴリ)

 

・声色 しょう‐しき〔シヤウ‐〕⇒仏語。聴覚・視覚など感覚の対象となるもの、すなわち六境のこと。六塵ろくじん。

                       (デジタル大辞泉)

 

・略⇒1 はかる。はかりごと。企み 2 攻め入って奪い取る。3 はぶく。簡潔にする。一部を取り除く。省いて減らす。4 ほぼ。凡そ。大体。大まか。ざっくりとした 5 統治する。治める。 

                     (モジナビ漢字辞典)

 

・罣礙⇒【定義】

①覆うもの、覆いさまたげるもの。心を覆うもの、こだわり。

②邪魔すること、前後上下左右がともに塞がって、進退できないこと。

②道元禅師は「染汚」などと同じく、この語を現象の自己同一性の意味で用いる。

「鉢盂(はつう:僧の食器)は鉢盂に罣礙せられ、鉢盂に染汚せらる。」 

『正法眼蔵』「鉢盂」巻

                          (つらつら日暮らしwiki)  

 

・儀⇒意味①作法。礼法。また、それによる行動。「儀礼」「行儀」 ②規準となるもの。のり。手本。「儀刑」「儀範」 ③よい。正しい。 ④天体測量の器械。「天球儀」 ⑤こと。ことがら。「公儀」

                        (漢字ペディア)

 

・仏辺⇒仏辺とは仏(阿弥陀仏)の側のことをいい、機辺とは衆生の側のことをいう…(以下略)

                   (web版 新纂 浄土宗大辞典)

 

・蘊処界⇒仏教用語。五蘊と十二処と十八界をいう。仏教で存在の領域を分類整理する範疇。

                        (ブリタニカ国際大百科事典)

 

・望見⇒ぼうけん〘 名詞 〙 遠くからのぞみ見ること。はるか遠くをながめること。

                  (精選版 日本国語大辞典)

 

意 訳

 第十四祖龍樹尊者は、サンスクリット語では、那伽閼刺樹那(ながありじゅな)、中国の唐では、龍樹また龍勝、龍猛(りゅうみょう)と呼ばれた西インドの人である。ある時、南インドに赴いた。その国の人々の多くは、福業というこの世での福楽をもたらす、前世での善い行ないというものを信じていた。それを見た尊者は彼らのために妙法を説いてあげた。それを聞いた彼らは、互いに顔を見合わせて、こう言った。「人には福業というものがある。世間でもっとも大切なものだ。無益に仏性について語っても、いったい誰か仏性を見た者はいるのか」

 

 尊者は答えて言った。「汝、仏性を見たいと思うなら、まづは我慢という、自我が存在すると思いなす慢心を取り除きなさい」

 

 彼らが言った、「仏性とは大きいのか小さいのか」。

 

 尊者が答えて言った、「仏性は大きくも小さくもなく、広くも狭くもなく、福も報いもなく、不死であり不生である」。

 

 彼らは、尊者の理のすぐれた言葉を聞いて、みな仏道修行における初心を起した。

 

 尊者は大衆に報いるために、坐禅を組まれて、坐上に満月の如き自在身を現したのだが、尊者は大衆に報いるために、坐禅を組まれて、坐上に満月の如き自在身を現したのだが、その場に集まっていた大衆は誰もがただ尊者の自在身の説法を聞いているようなものであり、尊者の姿を目にしているのではなかった。

 

 大衆の中に徳のすぐれた人の子で、迦那提婆という者が居た、かれが集まっている者たちにこう言った、「いまの尊者のこの相(自在身)を識っているか」

 

 大衆が言った、「この今の相は、いまだ見たことがないし、他人から聞いたこともないし、私たちの知識の中にもないし、身につけてもいない」と。

 

 提婆が言った、「これは尊者が私たちのために仏性の相を現してくださったのだ。なぜ仏性の相を現していると知れるのかといえば、無相三昧は形が満月の如くだからである。ここにおいて、仏性とはどういうものかは、言葉や概念で捉えることはできない、虚なるものであるが、しかし今、目にしている(といってもなにか形を目にしているのではなく、ただ感じ取っている)ように明らかである」。

 

 提婆がこう言い終わると尊者の輪の相(感じ取ったもの)は隠れてしまった。そして本坐に再び尊者はおいでであり、次の偈を説かれた。「身に円月相を現して、以て諸仏の体を表す、説法にはその形はない、用いる(用をなす?)言葉は、本来、声色ではない。

 

 次のことをよく知りなさい、真の説法で用いる(用をなす)言葉は声色の現われではない。真の説法には形はないのだ。だから尊者はかって世に広く仏性について説かれてきたが、その説法は数で数えられるようなものではない。今は一時、自在身を現すことで、仏性について、気づきにくいが大事な点を簡潔に示してくださったのだ。

 

「汝欲見仏性、先須)除我慢」。こう説かれた大切な意味合いを見過ごさずに、自己の問題として納得しなさい。仏性を見るという「見る」はないことはない、見ることはできる。それは我慢を除いたときに見ることができる(身心脱落したところのものである)。「我」もその時々のいろいろな我があり、だから慢心、驕りもいろいろなものがあり、それを除くこともその時々でいろいろである。そうはいっても、このいろいろな我慢を除く行いには、皆仏性を見るという点では同じである。仏性を見ることは、目でしっかりと対象をみることによって起こってくるものなので、目で見ることに従いなさい

 

「仏性は大でなく、小でもない」といった言説は世間一般の人々や声聞・縁覚といった二乗の類の人々に例として示してはいけない。彼らは、一方に偏った思いしかもたず、仏性は広大なものなのだろうと自分勝手な誤った考えを蓄えてきたのだから。

 

仏性は大でも小でもないように尊師が円月相を現わしてくださったまさにその時に、言いあてた言葉が、一般人や二乗等の人々に伝わらないだろうというその道理は、今、大でも小でもないと聴き取ったその通り(理屈ではなく、直観として感じ取った)に思いめぐらすべきだからだ(彼らは間違った固定観念に縛られていて、そうしないのだ)。何故なら思いめぐらすことと同等であるような聴く力を使うからである(あれこれと考えて、概念として掴んではいけない)。

 

 一時尊者の言われた偈をよく聞き取らなければいけない。それは「身現円月相。以表諸仏体」という言葉である。すでに「諸仏の体」を「以て表」しなされた「身の現れ」であるから「円月の相」なのだ。

 

そうであるから、一切の長短方円は、この身の現れに学びなさい(計ることのできない質的なものである)。身という対象をしっかり目を留めて見ず、またそれが表すある質的な印象にもはなはだ疎いのは、円月の相を捉えきれないだけでなく、そういう人が捉える身現(身が現わすもの)は、諸仏の体ではないのである。

 

愚かな者が思うことは、尊者が化身を現した、その化身が円月の相であったというものであるが、それは仏道を師から承らなかった者たちの誤った考えである。一体どんな所で、どんな時にこのような身に非ざる他のものを現すだろうか。確かに知りなさい。この時尊者はただ大衆より高いところに坐していただけである。身でもって現すという行いは、今のだれもが坐しているようなものだったのだ。また、逆のことも言える。それは円月相の現れがこの身であると。身が現したものは、方とか円とかではなく、有るとか無いとかいうのはなく、隠れているとか顕れているとかいうものではなく、無数の構成要素といったものでもない、ただ身の現すものである(物質的なものではない、概念でもない、直観によって捉えられるもの)。

 

円月相と言うその月を、ここをどこだと思って、欠けて細くなった月だとか満ちて太くなった月だとか言うのか(尊者が説法として身で現わされたところの月であるぞ)。

 

この身現は、(見ている人の、見られている人の)我慢を除いたところに現れるものであるから、(見られているその人は)龍樹その人ではなく、諸仏の体である。また、身で円月相を現し、そのことをもって表された諸仏の体というものは、諸仏の体(形をもった姿)を抜け出しているといえる。だから身現は形で現わされるような仏の側のこと(仏像だとか絵だとかその他)に関われない類のものだ。身現によって、仏性が満月の形の如くにはっきりと現わされたが、その現わされたものは、その時々の円月の相を排列してなりたっているのではない(それはあくまでも形如であって、形あるものではない、説法の集まりである)。

 

まして「説法」は声色ではない。「身現」も感覚的なものではなく、蘊処界に属さない。蘊処界のことに似ているが、「以て表す」であり、蘊処界のものを以て現わされているが、現わされたものは蘊処界を超えており、絶対的なものであり、諸仏の体(形をもたない質的なもの、心の印象)である。

 

そして諸仏の体であるからそれは説法の集まりと言って良く、その形を持たない。その形をもたない説法の集まりが、三昧中に身から現れでてくる(見ている者の頭のなかに印象という質的なものが浮かび上がってくる)。大衆が円月の相を見るといっても、目にする處のものではない(印象なのだ)。説法の集まりが印象へと転じたものだから。自在身の現れである円月相は、説法蘊であるが声色ではないのだ。

 

 円月の相が隠れたり、現れたりするということは、輪の相が輪であったり、そうでなかったりするということである(円、輪は夾雑物を取り除いたまろやかな感じの象徴である。我慢が除かれたものでもある)。「むくいて坐上に自在身を現す」という正にその時(大衆にもその円月の相が像として頭に浮かんでくる時)があるなら、その時は「一切の大衆は、説法蘊であるところの円月の相を感じ取り、それはただ法音を聞いているようなものであり」、「肉眼で尊者の身体を見ているのではない」ということになる。

 

 

感 想

・「尊者復於坐上現自在身、如満月輪。一切衆会(しゆゑ)、唯聞法音、不覩師相。」について⇒後の文で「一衆いま円月相を望見すといへども………」とあるので一切衆会は自在身を感じ取れたのだと思うのですが、どうなんだろう?「復」は再びという意味だろうか。私は、「………いたずらに仏性を言ふ、誰か能く之を覩(み)たる」と言う大衆に対して、それに報いて、という意に解したのだが?

 

・仏性を広大と捉える人たちのいう広大とは、どんな意味だろうか、報いとかそういうのも含めていっているのだろうか。大衆は報いも含めて見て取ることができないとその存在を信じることができないのだろう。前回「美について」で書いたところの信解が働かないのだろう。

 

・円月相は、見るものの心に浮かぶ形のない質的な印象、直観であって、言葉で表現すれば、例えば、「完成された、満ち足りた、純粋な………」といったものではないかと思ったのだがどうなんだろう。

 

・身で現わした円月相は諸仏体でもあり、説法蘊でもあると言っていると思うのだが、「蘊」は「あつまり」の意か。説法のあつまり? これに対比されているのが、「円月相を排列するにあらず。………」の排列か。時々の我があり、その我が円月相を現わすなら、排列するというのもわかるが、円月相は「我」を除いたところに現れるものなので、一つに集まりのようなものなのだろう。それで説法蘊といっているのだろうか。

 

 

3月10日 金華山から岐阜市内、長良川を望見

 

 アランは、「美(beau)」についてどのように言っているのだろうか。米山優氏の「アラン『定義集』講義」という本から引用させていただきます。

 

 

美-いかなる判断よりも前に、好ましいと私たちにあらかじめ告げるような、人と物の様子である。美しい詩句は、それが表現している思想の正しいに違いないことを私たちに告げ知らせている。美しい顔は、何らかの醜い考えを[その下に]想定することを私たちに思いとどまらせる。美しい行動と呼ばれるものは、それが理性や正義[justice]に基づいているかどうかということの判別されうる前に、そのあり方によって人を魅了するような行動である。こうして、美という感情[sentiment]の中には、説明されたり証明されたりした思想に似た何か普遍的なものがあるのだが、まずはそうしたものだとは微塵も気づかれることがない。

 

 

「判別されうる前に」とありますが、正法眼蔵の言葉を借りれば、仏性3で取り上げた文章にある「………有漏智・無漏智、本覚・始覚、無覚・正覚等の智をもちゐるには観ぜられざるなり」ということになるのかなと思っています。

 

    米山氏はアランの定義集を日本語に訳するだけでなく、アランの著作や他の哲学者の著作からの文を引用しながら、丁寧に解説をされています。

 

 「美」の項目については、以下のようなアランの言葉を引用されながら、講義をされています。

 

「詩の最初の効果、詩の意味がわかってこないうちからもうあらわれる効果とは、からだにしなやかさを返してくれるという好意に充ちた恩寵の効果だ、といってもいいだろう。」

 

「詩句においてはハーモニーが意味に先だって存在しているのだということを、理解する必要がある。」

 

「われわれの地上的な本性に従えば、趣味が判断に先だたなければならないのだ、しかしこの偉大な考えは、カントがその天才によって教義に仕立て上げたものであり、あやまちを犯すまいとするわれわれの代数学的方法からははるかに遠いのである。」

 

「大聖堂は、自分が美しいことを証明したりはしない。しかも、そのなかに足を踏み入れるならば、人々の声といわず、態度といわず、身ぶりといわず、すべてが、知らぬまに変わってしまうものなのだ。芸術作品の特質は、美などというものよりも、現実感と力強さとにある、と私はいいたい。それは、とりもなおさず、美というものが証明できないことを意味している。」

 

    以下はヘーゲルの言葉でしょうか?「美的感覚を養うには教育が必要であり、養成された美的感覚は趣味と呼ばれるが、それは、教育のなかで獲得される美の理解力ないし識別力であるとともに、同時に、物を直接に感覚する力でなければなりません。」

 

「趣味」という言葉を私は、物の考え方や見方、評価の仕方などで、他者と違いがあって、しかも折り合いがつかないような時に、それは結局「趣味」の違いとしか言いようがない、なんていうふうに使ったりしていた。趣味というと他の人には何かピンとこないか誤解されるかしそうな言葉だが、私的には他に良い言葉が見つからないので、そう言うしかないなと思っていた。他の表現を使うなら「三つ子の魂」かな。

 

 私の使う「趣味」と違って、上記のアランやヘーゲルの使う「趣味」という言葉は、普遍的なもので、人や時代の別に依らないものと理解してよいのでしょうかね。

 

 アランの「大聖堂………」を読んでいて、想起された岡潔博士の言葉があるので、その著書から、抜粋したり、私なりに理解したところを以下に記します。

 

 

純粋直観の内容にはいくつかあり、その一つの意志内容は、自無限向上である。向上には四つの道があり、それは真、善、美、妙(宗教)である。

 

純粋直観に対比して考えられるものに理性(界)がある。私たちはこの理性界に住んでいる。真、善、美、妙(宗教)の全容を見たければ、純粋直観の世界に踏み込まなければならない。

 

理性界から望見すると、真、善、美いずれも実在感としか見えない。妙(宗教)にいたっては、かろうじて必要性によって理性界と交渉を持っている。

 

以下は岡博士が良寛の書「天上大風」をご覧になった時のこと。

 

一目みて、何ともいいあらわしようのない気がした。座りなおして打ち見したところ、じっと見ていると、不思議に清々しく、広々とした気持ちになった。翌朝、もう一度見たら、実際に風が、横に、右から左に吹いていることがわかった。字がその方向の風に吹かれている。書いた良寛はそのことを知らなかったと思う。

 

「この最後のわかり方を知解(ちげ)といいます。その前のわかり方を情解といいましょう。最初のわかり方を信解といいます。信解と言う言葉は正法眼蔵でたびたび使っています。これは混ざり気のない純粋直観の働きであって、効果は疑いが消えるのです。」

 

 正法眼蔵は、理性界のことをまじえながら、純粋直観の世界を描こうとしている。純粋直観の世界という、私には捉えようもないもの、正法眼蔵の難しさ………。

 

 

3月27日 紀見峠から望む

 3月10日 愛知県美術館で開かれていた「ゴッホ展 ~家族がつないだ画家の夢~」を観てきました。展示された作品や展示のテーマは違っていますが、多くのゴッホの作品を観たのは、もう何十年も前ですが、札幌市で開催されたゴッホ展以来今回で2回目です。

 ゴッホが画家になることを決意したのは、27歳のころでそれから10年後に死去しているんですね(1880年~1890年)。最初の3年間は素描の技術を磨き、のちに油彩に移っていったとのこと。ゴッホといえば、あの独特なタッチが印象的なのですが、そうではない古風な画風で描かれた数枚の肖像画を観ていて、単純に上手だなあ、いい絵だなあと思いましたし、たいへん修行したのだろうなと思いました。ゴッホの絵は、どれも引き付けられる不思議な魅力があると感じました。

 絵はもちろん目で見るのですが、そこから感じられてくるものは、言葉ではうまく表現できません。表現できる感じというものもあるのですが。感じるときというのは、言葉や概念を使って感じている訳ではないようです。

  

 

ショートフィルムの上映もしていました。写真は1890年に描かれた「カラスの飛ぶ麦畑」という作品のカラスが絵の奥へと飛び去っていくようにアレンジした映像の一コマです。

 

帰宅後、仏性の巻を読み直しているのですが、ブログの仏性1(悉有とは?)の意訳を本日改め、あと「用語について」と「感想」を加えて再投稿しました。「いいね」を付けていただいた方には、何ていうか…失礼な感じもしますが、悪しからず、です。