下線の箇所は、特に意味がわからなかった文章です。
用語について
・福業⇒〘 名詞 〙 ( 福楽を招く行為の意 ) 仏語。この世での福楽をもたらす、前世での善い行ない。
(精選版 日本国語大辞典)
・我慢⇒【定義】
①自己の中心に我があると考え、その我をより所にして心が驕慢であること。己を恃(たの)んで心のおごる煩悩のこと。思い上がり。七慢の一。
②。我があると執着する心。
③慢心。
④わがまま。
・初心⇒【定義】 仏道修行を志したばかりの者、初心者、晩学。
(以上 つらつら日暮らしwiki)
・廻心⇒以前の価値観や欲望に執着した心が、真理や仏・神へと向き直ること。
「回心」「廻心」は同じ語で、宗教的な「改心」「コンバージョン(conversion)」を表す。
一時的な反省ではなく、「新しい生き方」に至る深い転換を含意する。
(AIの回答)
・復⇒意義 1かえる。もどる。かえす。もどす。2むくいる。仕返しをする。
3報告する。4くりかえす。再びする。5ふむ。実行する。
(Wiktionary 日本語版)
・法音⇒説法・読経の音声。Ⓢdharmaśabda。羅什訳『法華経』では釈尊の説法が法音と訳される。浄土教においては極楽の荘厳から奏でられる妙なる音声はすべからく仏の教えを説く音であると理解される。………
(web版 新纂浄土宗大辞典)
・自在
1 意のままであること。自分の思うとおりにできること。また、そのさま。
2 「自在鉤(かぎ)」の略。3 「自在天」の略。
・長者
1 《「ちょうしゃ」とも》年上の人。また、目上の人。年長者。
2 《「ちょうしゃ」とも》徳のすぐれている人。また、穏やかな人。
3 金持ち。富豪。
4 一門一族の統率者。 5.6.7略
(以上 デジタル大辞泉)
・辯⇒[辯](ベン) 名詞 : 話。ことば。挨拶。 話を述べる能力。動詞 : のべる。主張する。 (wiktionary 日本語版 日本語カテゴリ)
・声色 しょう‐しき〔シヤウ‐〕⇒仏語。聴覚・視覚など感覚の対象となるもの、すなわち六境のこと。六塵ろくじん。
(デジタル大辞泉)
・略⇒1 はかる。はかりごと。企み 2 攻め入って奪い取る。3 はぶく。簡潔にする。一部を取り除く。省いて減らす。4 ほぼ。凡そ。大体。大まか。ざっくりとした 5 統治する。治める。
(モジナビ漢字辞典)
・罣礙⇒【定義】
①覆うもの、覆いさまたげるもの。心を覆うもの、こだわり。
②邪魔すること、前後上下左右がともに塞がって、進退できないこと。
②道元禅師は「染汚」などと同じく、この語を現象の自己同一性の意味で用いる。
「鉢盂(はつう:僧の食器)は鉢盂に罣礙せられ、鉢盂に染汚せらる。」
『正法眼蔵』「鉢盂」巻
(つらつら日暮らしwiki)
・儀⇒意味①作法。礼法。また、それによる行動。「儀礼」「行儀」 ②規準となるもの。のり。手本。「儀刑」「儀範」 ③よい。正しい。 ④天体測量の器械。「天球儀」 ⑤こと。ことがら。「公儀」
(漢字ペディア)
・仏辺⇒仏辺とは仏(阿弥陀仏)の側のことをいい、機辺とは衆生の側のことをいう…(以下略)
(web版 新纂 浄土宗大辞典)
・蘊処界⇒仏教用語。五蘊と十二処と十八界をいう。仏教で存在の領域を分類整理する範疇。
(ブリタニカ国際大百科事典)
・望見⇒ぼうけん〘 名詞 〙 遠くからのぞみ見ること。はるか遠くをながめること。
(精選版 日本国語大辞典)
意 訳
第十四祖龍樹尊者は、サンスクリット語では、那伽閼刺樹那(ながありじゅな)、中国の唐では、龍樹また龍勝、龍猛(りゅうみょう)と呼ばれた西インドの人である。ある時、南インドに赴いた。その国の人々の多くは、福業というこの世での福楽をもたらす、前世での善い行ないというものを信じていた。それを見た尊者は彼らのために妙法を説いてあげた。それを聞いた彼らは、互いに顔を見合わせて、こう言った。「人には福業というものがある。世間でもっとも大切なものだ。無益に仏性について語っても、いったい誰か仏性を見た者はいるのか」
尊者は答えて言った。「汝、仏性を見たいと思うなら、まづは我慢という、自我が存在すると思いなす慢心を取り除きなさい」
彼らが言った、「仏性とは大きいのか小さいのか」。
尊者が答えて言った、「仏性は大きくも小さくもなく、広くも狭くもなく、福も報いもなく、不死であり不生である」。
彼らは、尊者の理のすぐれた言葉を聞いて、みな仏道修行における初心を起した。
尊者は大衆に報いるために、坐禅を組まれて、坐上に満月の如き自在身を現したのだが、尊者は大衆に報いるために、坐禅を組まれて、坐上に満月の如き自在身を現したのだが、その場に集まっていた大衆は誰もがただ尊者の自在身の説法を聞いているようなものであり、尊者の姿を目にしているのではなかった。
大衆の中に徳のすぐれた人の子で、迦那提婆という者が居た、かれが集まっている者たちにこう言った、「いまの尊者のこの相(自在身)を識っているか」
大衆が言った、「この今の相は、いまだ見たことがないし、他人から聞いたこともないし、私たちの知識の中にもないし、身につけてもいない」と。
提婆が言った、「これは尊者が私たちのために仏性の相を現してくださったのだ。なぜ仏性の相を現していると知れるのかといえば、無相三昧は形が満月の如くだからである。ここにおいて、仏性とはどういうものかは、言葉や概念で捉えることはできない、虚なるものであるが、しかし今、目にしている(といってもなにか形を目にしているのではなく、ただ感じ取っている)ように明らかである」。
提婆がこう言い終わると尊者の輪の相(感じ取ったもの)は隠れてしまった。そして本坐に再び尊者はおいでであり、次の偈を説かれた。「身に円月相を現して、以て諸仏の体を表す、説法にはその形はない、用いる(用をなす?)言葉は、本来、声色ではない。
次のことをよく知りなさい、真の説法で用いる(用をなす)言葉は声色の現われではない。真の説法には形はないのだ。だから尊者はかって世に広く仏性について説かれてきたが、その説法は数で数えられるようなものではない。今は一時、自在身を現すことで、仏性について、気づきにくいが大事な点を簡潔に示してくださったのだ。
「汝欲見仏性、先須)除我慢」。こう説かれた大切な意味合いを見過ごさずに、自己の問題として納得しなさい。仏性を見るという「見る」はないことはない、見ることはできる。それは我慢を除いたときに見ることができる(身心脱落したところのものである)。「我」もその時々のいろいろな我があり、だから慢心、驕りもいろいろなものがあり、それを除くこともその時々でいろいろである。そうはいっても、このいろいろな我慢を除く行いには、皆仏性を見るという点では同じである。仏性を見ることは、目でしっかりと対象をみることによって起こってくるものなので、目で見ることに従いなさい。
「仏性は大でなく、小でもない」といった言説は世間一般の人々や声聞・縁覚といった二乗の類の人々に例として示してはいけない。彼らは、一方に偏った思いしかもたず、仏性は広大なものなのだろうと自分勝手な誤った考えを蓄えてきたのだから。
仏性は大でも小でもないように尊師が円月相を現わしてくださったまさにその時に、言いあてた言葉が、一般人や二乗等の人々に伝わらないだろうというその道理は、今、大でも小でもないと聴き取ったその通り(理屈ではなく、直観として感じ取った)に思いめぐらすべきだからだ(彼らは間違った固定観念に縛られていて、そうしないのだ)。何故なら思いめぐらすことと同等であるような聴く力を使うからである(あれこれと考えて、概念として掴んではいけない)。
一時尊者の言われた偈をよく聞き取らなければいけない。それは「身現円月相。以表諸仏体」という言葉である。すでに「諸仏の体」を「以て表」しなされた「身の現れ」であるから「円月の相」なのだ。
そうであるから、一切の長短方円は、この身の現れに学びなさい(計ることのできない質的なものである)。身という対象をしっかり目を留めて見ず、またそれが表すある質的な印象にもはなはだ疎いのは、円月の相を捉えきれないだけでなく、そういう人が捉える身現(身が現わすもの)は、諸仏の体ではないのである。
愚かな者が思うことは、尊者が化身を現した、その化身が円月の相であったというものであるが、それは仏道を師から承らなかった者たちの誤った考えである。一体どんな所で、どんな時にこのような身に非ざる他のものを現すだろうか。確かに知りなさい。この時尊者はただ大衆より高いところに坐していただけである。身でもって現すという行いは、今のだれもが坐しているようなものだったのだ。また、逆のことも言える。それは円月相の現れがこの身であると。身が現したものは、方とか円とかではなく、有るとか無いとかいうのはなく、隠れているとか顕れているとかいうものではなく、無数の構成要素といったものでもない、ただ身の現すものである(物質的なものではない、概念でもない、直観によって捉えられるもの)。
円月相と言うその月を、ここをどこだと思って、欠けて細くなった月だとか満ちて太くなった月だとか言うのか(尊者が説法として身で現わされたところの月であるぞ)。
この身現は、(見ている人の、見られている人の)我慢を除いたところに現れるものであるから、(見られているその人は)龍樹その人ではなく、諸仏の体である。また、身で円月相を現し、そのことをもって表された諸仏の体というものは、諸仏の体(形をもった姿)を抜け出しているといえる。だから身現は形で現わされるような仏の側のこと(仏像だとか絵だとかその他)に関われない類のものだ。身現によって、仏性が満月の形の如くにはっきりと現わされたが、その現わされたものは、その時々の円月の相を排列してなりたっているのではない(それはあくまでも形如であって、形あるものではない、説法の集まりである)。
まして「説法」は声色ではない。「身現」も感覚的なものではなく、蘊処界に属さない。蘊処界のことに似ているが、「以て表す」であり、蘊処界のものを以て現わされているが、現わされたものは蘊処界を超えており、絶対的なものであり、諸仏の体(形をもたない質的なもの、心の印象)である。
そして諸仏の体であるからそれは説法の集まりと言って良く、その形を持たない。その形をもたない説法の集まりが、三昧中に身から現れでてくる(見ている者の頭のなかに印象という質的なものが浮かび上がってくる)。大衆が円月の相を見るといっても、目にする處のものではない(印象なのだ)。説法の集まりが印象へと転じたものだから。自在身の現れである円月相は、説法蘊であるが声色ではないのだ。
円月の相が隠れたり、現れたりするということは、輪の相が輪であったり、そうでなかったりするということである(円、輪は夾雑物を取り除いたまろやかな感じの象徴である。我慢が除かれたものでもある)。「むくいて坐上に自在身を現す」という正にその時(大衆にもその円月の相が像として頭に浮かんでくる時)があるなら、その時は「一切の大衆は、説法蘊であるところの円月の相を感じ取り、それはただ法音を聞いているようなものであり」、「肉眼で尊者の身体を見ているのではない」ということになる。
感 想
・「尊者復於坐上現自在身、如満月輪。一切衆会(しゆゑ)、唯聞法音、不覩師相。」について⇒後の文で「一衆いま円月相を望見すといへども………」とあるので一切衆会は自在身を感じ取れたのだと思うのですが、どうなんだろう?「復」は再びという意味だろうか。私は、「………いたずらに仏性を言ふ、誰か能く之を覩(み)たる」と言う大衆に対して、それに報いて、という意に解したのだが?
・仏性を広大と捉える人たちのいう広大とは、どんな意味だろうか、報いとかそういうのも含めていっているのだろうか。大衆は報いも含めて見て取ることができないとその存在を信じることができないのだろう。前回「美について」で書いたところの信解が働かないのだろう。
・円月相は、見るものの心に浮かぶ形のない質的な印象、直観であって、言葉で表現すれば、例えば、「完成された、満ち足りた、純粋な………」といったものではないかと思ったのだがどうなんだろう。
・身で現わした円月相は諸仏体でもあり、説法蘊でもあると言っていると思うのだが、「蘊」は「あつまり」の意か。説法のあつまり? これに対比されているのが、「円月相を排列するにあらず。………」の排列か。時々の我があり、その我が円月相を現わすなら、排列するというのもわかるが、円月相は「我」を除いたところに現れるものなので、一つに集まりのようなものなのだろう。それで説法蘊といっているのだろうか。


