下線部分は特に意味が分からなかった箇所です。
用語について
・参究⇒【定義】①善知識に親しく参禅して、その指導によって一大事を究めること。②事象を客観的に知るのではなくて、それそのものに入って究めること。
(つらつら日暮らしwiki)
・不管⇒不管の概念の説明→お構いなしだ、周囲への気遣いをしないさま、なおざりだ、するべきことをしないで,ほうっておくさま、手ばなし、条件や制限を加えず,放任しておくこと
(EDR日中対訳辞書)
・管⇒字義 1くだ、パイプ、チューブ。2つかさどる、とりまとめる。
(wiktionary )
・なにとしてか⇒なに-と-し-て 【何として】→分類連語①どうやって。どのようにして。なぜ。▽理由などについての疑問の意を表す。②どうして…か、いや、…ない。▽反語の意を表す。
(学研全訳古語辞典)
・両三りやう(りやうの漢字は偏が革で旁が兩)⇒ほんの二、三足 (脚注)
・休する⇒問答をやめた。 (脚注)
・本色衲子⇒本物の修行者 (脚注)
・衲子⇒【定義】 衲僧に同じ。破れ衣をまとった禅僧のこと。
(つらつら日暮らしwiki)
・粥足飯足⇒粥は禅林の朝の食事、飯は昼の食事。朝も昼も腹一杯で何不足ないこと。
(脚注)
・仰山⇒仰山慧寂。潙山の法嗣。 (脚注)
・搆⇒1 かまえる。組み立てる。組み合わせる。 2 ひく。ひっぱる。
(漢字辞典online)
・恁麼⇒【定義】①その、この、そんな、こんな、そのように、このように、の意であり、話題にしている事物の状態を指していう近称の指示詞である。与麼と同じ。
【内容】(前文略)この恁麼とは、まさに何物(或いは何必・不必・如是・如何、等と同義)としか言い表せない真理そのものである。何かを言ってしまえば、それが直ちに把われとなるような仏法そのものであり、まさに「説似一物即不中」である。そして、道元禅師は雲居道膺禅師の語を引いて、坐禅自体を恁麼であるとしている。
(つらつら日暮らしwiki)
・捋⇒1 (指で押さえ滑らせてひげ・頭髪・衣服・縄など細く薄いものを整えたりしわを伸ばしたりするために)なでる,なでつける,しごく.2((方言)) 整理する.
((weblio 日中・中日辞典))
・異類中行⇒【定義】異類とは、仏果位以外の菩薩や衆生などの六道に生きる者をいう。異類中行は、異類の中を行く意味であり、発願利生する菩薩が成仏した後も涅槃にとどまらずに六道の衆生を救うことである。
【内容】発願利生した菩薩が成仏した後、涅槃にとどまらずに、生死の迷界・六道輪廻に身を転じつつ、一切の衆生を救うことだが、異類中に自己を投げ入れて利他行することを意味している。
道元禅師は、概念に前提されている「自」「他」そして「行」それぞれに考察していくため、本義を書き換えている。
≪除覚支は、もしみづからがなかにありてはみづからと群せず、他のなかにありては他と群せず、我得你不得なり、灼然道著異類中行なり。『正法眼蔵』「三十七品菩提分法」巻≫
ここでは、自己とも他己とも対しない絶対の覚を考察するのに「異類中行」が使われている。
≪いはゆる雲巖道の宗旨は、眼睛乞眼睛なり、水引水なり、山連山なり、異類中行なり、同類中生なり。 「眼睛」巻≫
自己が自己に再帰的に関わっていくことを「異類中行」とされている。この両方の用法に、単純な「自-他」という区分がないことを重々理解されたい。
・覚支(かくし)⇒仏教用語。覚分,菩提分ともいわれ,悟りに到達するために役立つ方法という意味。これを7種に分けて七覚支と呼んでいる。七覚支を含む悟りに達するための行道三十七法をも覚支と呼ぶ場合がある。それらは四念処,四正勤,四如意足,五根,五力,七覚支,八聖道である。
(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
・一隻眼 いっせき‐がん⇒1 一つの目。隻眼。2 ものを見抜く特別な眼識。独特の批評眼。「一隻眼を具する」
(デジタル大辞泉)
・羅籠⇒羅は魚をとる網、籠は鳥を入れておくかご。とらわれて自由のきかない煩悩を言うが、それごと、一枚の仏性である。 (脚注)
・後頭未有語⇒ここまで言えば、あとは言葉もなくなる。(脚注)
・未⇒詳細な意味 副詞 1 否定を表し、「不」に相当する。not 2 否定を表し、「ない」、「まだ…ない」に相当する。not;not yet;never 3 疑問を表し、文末に用いて、「か」、「~ないか」に相当する。or not 4 禁止を表し、「~するな」、「~してはならない」に相当する。
don’ t (名詞、形容詞、動詞の詳細な意味 略) (Bidu Wiki)
意 訳
南泉が言った、「漿水銭且致(しょうすいせんしゃち)、草鞋銭教什麼人還(そうあいせんきょうしもじんげん)」。
つまり、「米のとぎ汁の代金はしばらく言及しないでおくが、草鞋の代金は誰に返させましょうか(返金させなければなりませんね)」ということだ。この言葉の意味を長い時間をかけて究めなさい。米のとぎ汁の代金はどういう訳でしばらく放っておくのか、心を留めて、勤学しなさい。草鞋の代金については、なぜ言及したのか。これまで行脚でどれだけの草鞋を履きつぶしてきたことか。今、こう言いなさい、「もしも草鞋の代金がもどってこないというなら、もともと草鞋は履かなかったものを(教えを求め諸国行脚の旅にでるということは、分別心を除く旅でもある。この心を除けばすべての物事は一体であり、頼る頼られるという関係はない。草鞋に頼るという関係もない、この無分別の心を得られないというなら、もともと行脚にはでない)」と。またはこう言いなさい、「具体的に草鞋二、三足(の代金分は返却されるに値する)」と。これは仏法の道理を言い表している言葉であり、禅宗の教えの主旨に関わる言葉である。
「黄檗すなわち休す」。南泉にこう言われては、黄檗が問答を止めてしまうのも道理というものだ。南泉に認め受け入れてもらえなくて止めたのでも、南泉の言った言葉を受け入れることができなくて止めたのでもない。本物の禅僧というものは、そういうものではない。知りなさい。この無言のなかに言葉が秘められている、そしてそれは笑いのなかに刀が秘められているようなものなのだ。このことは、仏性が明らかに現れていることの十分な証なのだ。
この南泉と黄檗の問答を取り上げて、潙山霊祐禅師が弟子の仰山慧寂禅師に、こう質問した。「これは黄檗が南泉を納得させることができなかったのではないか」。
仰山慧寂禅師が答えた、「そうではありません。当然次のことを知らなければなりません。黄檗は虎を落とし穴にいれて捉まえる能力があることを」。
潙山が言った、「お前のその見解は真理として秀でたものだ」
大潙の言葉は、最初、黄檗は南泉の納得を得られなかったのかというものである。
仰山が言った、「黄檗は虎を落とし穴にいれて捉まえる能力がある」。虎を落とし穴に入れてしまえば、虎の頭をなでるだろう。
虎を落とし穴にいれて、頭をなでる(自己と虎の間で隔てがなくなる)、異類の中で行ずる(自己と異類との隔てがなくなる)。仏性を明見するとは、片方の眼(無差別の眼)が開くことであり、仏性が明らかに現れるとは、片方の眼(分別の眼)が閉じることである。速やかに言いなさい。速やかに言いなさい。(概念であれこれと考えず、間髪を入れないことで、真理に直結した言葉をいいなさい)。仏性の現れる処で、真理に秀でることを得たのだ(黄檗は南泉の分別心で捉えた言葉の意味を無分別の視点で捉えかえすことができているのだ)」。
こうした訳で、物の半分であっても全体であってもそれに頼らないのである。百千の物々でも百千の時々であってもそれに頼らないのである。こうした訳で、次のように言おう、煩悩を抱えた一人が一日の中の時々に生きている。頼ったり、頼らなかったり、葛藤が木に纏わりついているようなものだ(本来は、葛藤と木というふうに区別できない一体のものだが、分別心によって、依る、依らないという関係ができてしまう)。この宇宙の中の一部と言わず、全てと言わず、どこにいても、ここまで言えばあとは言葉もなくなるのだ(そもそも言葉は分別心を生むだけだ、黄檗のすなわち休すというのもこういうことである)。
感 想
・南泉は、真意を知っているが、弟子の黄檗を試すために、「こんづのあたひはしばらくおく、草鞋のあたひはたれをしてかかへさしめん」と質問したのだろうか。それとも黄檗の何物にも依らないという言葉の真意を理解できないまま、こう質問したのでしょうか。
・「一隻眼」を 一つの目と解したが、 ものを見抜く特別な眼識と解したら「特別な眼識が開けて仏性を明見しても、それは同時に障りとなって、その眼識を失うことにもなる、常に新たであれ」とでも訳することになるのでしょうか。
冬の間3月半ほど岐阜県でアルバイトしてきましたが、郡上八幡(郡上市八幡町)には時々、観光や買い出し、運動で汗を流しに行ったものです。この前、その郡上八幡
が日本で最初に酷暑日を記録したとニュースで見ました。40度とは本当にひどい暑さだと思います。
有名な郡上おどりも行われているのでしょうが、夜とはいってもかなりの温度だと思います。北海道人の私では、身体が持たないだろうな。踊られる方々のことを思えば、気温が少しでも下がればと思うのですが、………。
町中には、長良川、吉田川、小駄良(こたら)川などが流れていますが、どの川の水もとてもきれいなのが印象深かったです。写真は観光スポットの一つ宗祇水のすぐそばの橋の上から小駄良川と家々を撮ったものです。(2026年1月21日撮影)
