(前回からの続き)

 小林秀雄さんもそうだが,森有正さんも本の中でアランの言葉を引用していて,そんなので,私は以前からアランのことが気になっていた.数年前に「100分de名著」というテレビ番組でアランの「幸福論」という本を取り上げていたのを観ていて,アランは難しい哲学用語を使わず,深い思索を表現していると感じ,これなら私が読んでも少しは理解できるかなと思い,幸福論という本のタイトルにも興味をそそられ,この本を買ってきて読んだ.

 

 「ふさぎの虫」という章からところどころを抜粋してみると「抑うつ病者と呼ばれ

る患者たちのことを考察してみよう.… 彼らについて明らかなこと, すなわち彼らの悲しみこそが病気なのだということは,だれについても真実である.苦痛がひどくなるのは,われわれがそれについていろいろと理屈を考え,そうすることでいわば急所にさわるからにちがいない.情念を熱狂的なものにするこの種の精神錯乱からは,こう自分に言いきかせることで免れることができる.悲しみとは病気にすぎず,色々理屈や理由を考えたりしないで,病気としてがまんしなければならぬ,と.… .心痛は腹痛同然に見なされる.文句をいわない抑鬱病,ほとんど無意識の一種の混迷状態に達する.….こうして,まさに申し分のないしかたで悲しみにうちかつ.祈りというものが目ざしたのはそれであった.なかなかうまいことを発見したものだ.対象の測り知れない大きさを前にして、すべてを知り何ひとつ見落とさないこの知恵を前にして、理解を越えるこの威厳を前にして、うかがい知れないこの正義を前にして、敬虔な人は、思想を形づくることを放棄した。熱心に祈りを行って、まもなく大いに得るところがなかったということは、おそらくあるまい。…。」

 

 あれこれ考えて,急所,傷口を悪化させてたり,場合によっては,その状態を味わい,酔ってしまうことさえあるが,そうして,急所,傷口に捕らわれてはいけない,ということだと思う.

 

 祈り⇒「人間と人間を超えるもの(超自然力、究極的実在、神、仏など)との内面的交通、接触、対話」が祈りであり、…」「祈りには実利的効果を期待するものから非功利的願いに至るまで、さまざまの性格がある。…」(日本大百科全書より)

 

 時々,この世は不条理だよなとか無慈悲にできてるなとか思うことはあるが,そこに人間の理解を越えた知恵,威厳,正義,…を感じ取れるか否か.

 生活の中で,あとはお天道様にまかせるしかない、とか人間の分際でそんなことわかるわけがないなどと自分に言い聞かせることはあるが,自然とそれを理解,納得できているという訳ではなく、この二つには結構な隔たりがあるなあと思う。

 

 「幸福論」を読んで、さらにアランに興味が湧いたので、今は「定義集」講義 (著者 米山優)という本を少しずつ読んでいる。

 生きる、経験するということは、自分の持つ言葉の内容が深まるということでもあると思う。自由、平等、幸福、平和、民主主義、… 。こうした言葉を水戸黄門さんの紋所のようには使いたくはないと思う。

 

 

 

2023年 4月4日 香川県 紫雲出山にて

 

 

 

 

 紫雲出山は浦島伝説が息づく荘内半島に位置し、浦島太郎が玉手箱を開け、出た白煙が紫色の雲になって山にたなびいたため、名付けられたといわれています。

 天候にめぐまれ、桜も瀬戸内海のかすんだ遠景もとてもきれいでした。

私は海や山が身近にあるところに住んでいますが、まったく違った趣でした。