コチドリの交尾 写真4枚

 

 

しばらくは前回の続き。平櫛氏は将軍たちの自決について、中日新聞社の取材を受けたらしい。ところが四名と報道され、三名が正しいと手記文中で修正している。「取材した人の考え違い」でそうなるものではないと思うのだが、妙な話である。

 

ちなみにその中日新聞社会部編「烈日サイパン島」は、あとがきによると昭和五十三年から半年間ほど連載し、これを単行本にして平成七年に出版した。前回「丸」別冊の著者紹介欄に「昭和五十年」に他界したとあったが、それでは新聞を読めない。たぶん昭和五十五年の誤植ではないかと思う。ネットにもそう書かれている。

 

 

「烈日サイパン島」をみると、確かに「四将軍自決」という小見出しがある。平櫛氏の反論が世に出た後の発刊だが、当初の記事通りであり、変更されていない。四名だったという件の情報源は、明確には書かれてはいない。

 

ただし、この場面の続きに、現場の近くにいた南洋憲兵隊の加賀学伍長が、銃声でうたたねから目を覚ましたところ、顔見知りの海軍の古瀬警査が洞窟内から出て来て、自決の一部始終を聞いたとある。古瀬氏は洞窟の中で埋葬するのを手伝った由。

 

 

しかしなぜか、別の人が同席すると矢野英雄中部太平洋艦隊参謀長が抜けて見えるというのは不思議な事態なり。ついでにいうと、自決云々とは関係ないが、4人のうち3人は戦死後一階級特進しているが、なぜか齋藤師団長だけは特進していない。

 

陸軍将官の人事は陸軍大臣の判断なしでは決められまい。旧陸軍の人事評価は、陸軍省人事局が担当しており、ただし、参謀の人事は参謀本部がかなり関与していたらしい。どのみちこの時点では大臣と総長は同じ人物、人事魔の東條英機大将。

https://www.nids.mod.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j9_1_4.pdf

 

 

「烈日サイパン島」は過去の記事(第1699回)において参照したとおり、第四十三師団の故吉田参謀に「えん罪事件」があったことも伝えている。

 

 

 

  

葛西臨海公園にて

 

 

かといって、偽名を使った者が平櫛氏であると即断するのも気が引けるが、サイパンで最後の総攻撃があった7月7日夜、表にある三名の第四十三師団参謀のうち、鈴木参謀長と吉田参謀の姿を見た証言が「烈日サイパン島」にあるが、残りの一人の目撃談はない。

 

また、「烈日サイパン島」には、俄かに信じがたい別件の逸話が収録されている。「ある将校の投降」という見出しがついている。陸海いずれかは不明であるが、高級将校とある。米陸軍第27歩兵師団まで一人で歩いてきたらしい。後の回で話題にする6月下旬の「死の谷」で苦戦した師団。

 

 

米軍は日本語が達者な通訳者を情報担当として連れている。投降将校の対応は、日系二世のオオタ・トクオ情報曹長が務めた。少し言葉を交わしただけで、日本軍の中枢にいる者だと分かったらしい。外見の描写がある。

 

その将校は小柄だが、かっぷくがよかった。汚れのない、ま新しい軍服に身を包み、長靴をはき、階級章もつけている。

 

 

戦後これを読んだだけで、関係者の中には誰なのか、すぐ見当がついた人もいただろうと思う。以前参照した第四十三師団の戦友会で出た話では、師団参謀のうち生きて還ったのは米軍捕虜になった一人だけだった。獅子身中の虫そのものだが、「旧陸軍の恥を永遠に残すことになる」という理由で緘口令が敷かれたものか。

 

この将校は「負け戦はいやだ。今後は米軍に協力しましょう」といい、「質問にはすらすらと答え、日本軍の配備や戦力を、自ら進んで地図の上に書き込んだというのである」。しかもグアムやテニアンの守備情況まで詳細に伝えた。のちに米軍はその情報が正確であったことを現場で知った由。

 

 

ここまで詳細を知っているのは軍や主力部隊の指揮官か幕僚だったのだろう。日本陸軍兵が「生きて虜囚の辱めを受けず」と上から訓示されているのを日系二世のオオタ曹長も知っていた。喜ぶどころか「唖然とした」らしい。

 

マリアナでは在留邦人まで虜囚の辱めを峻拒し、多くが自らの命を断ち、米軍は(特に通訳は)手を焼いていた。この売国奴が、この先どうなったかは書かれていない。敵さんにとっては功労者なのだから戦後釈放されただろう。よほどの物語を創作しないと誤魔化せない。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

キアシシギ  (2024年5月9日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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