今回と次回は初めて参照する書籍、中日新聞社会部編「烈日サイパン島」(東京新聞出版局)の「改訂新版」が出典。私の社会人人生の振出は銀行員で、ネット・バンキングなどなかった時代だから、地元の人たち、地元産業がお客さんだった。

 

このため職場の上司先輩から、新聞は日経と地元紙を読めと言われた。このとき付いた習慣は今なお抜けず、自宅では東京新聞を、実家では静岡新聞を読んでいる。中日新聞がこの本を編んだのは、郷土部隊がサイパンに進出したからだ。

 

 

その郷土部隊が、最近よく話題にしている第四十三師団およびその隷下の歩兵第百三十五聯隊で、いずれも名古屋の編成。念のため、サイパンで戦ったのは四十三師だけではないし、また、四十三師の全てがサイパンに配置されたのでもない。

 

それでも頻繁に話題にしているのは、伯父の連隊(歩一一八)がこの師団の隷下にあって、同時期にマリアナ諸島に送られたからだ。その意味で、この師団の話題は、これからもよく登場する。今回は期せずして前回と少し関係がある。

 

 

サイパンから生きて戻った陸軍将校は一人だけだったと、遠い昔どこかで読んだ記憶がある。すでに二人の生還した将校を話題にしているので(大場栄大尉と前回の著者、平櫛孝中佐)、一人というのは違うだろうが、少なかろうな。

 

本書「あとがき」に、この新聞の連載記事には「爆発的といってよい反響」があり、「その中でも玉砕した夫が出陣した際の思い出を綴った奥さんたちからの手紙は、特に私たちの胸を打った」という一節がある。戦争の被害は広範、長期にわたった。

 

 

今回は、本書の終盤に置かれたエピソードを題材にする。連載内容は基本的に時系列になっており、今回の出来事は戦後十年ほど経ってからのことだ。サイパンで夫を亡くした吉田奈仁さんの経験談を取材したもの。記事より一部引用する。

 

終戦からおよそ十年たったある日、奈仁は東京・市谷で開かれた陸士三十九期の同期生会に出席した。サイパンで戦死した夫の身替わりとして...。集まったのは五十人。女性は奈仁だけだった。「吉田君の未亡人です」と紹介されたとき、会場にはざわめきが起きた。

 

 

聞こえて来た声は、吉田は生きているはずだ、捕虜になって帰国したというではないかなどという意外なもので、「いまさら妻がおめおめと顔を出すとは」という冷たい視線が押し寄せてくるようで、彼女は目の前が真っ暗になった。

 

彼女の夫、吉田正治は昭和十九年(1944年)4月5日に動員令があり、教育総監部から第四十三師団の作戦参謀になった。階級は中佐、40歳だった。吉田は妻に、「今度こそは帰れない。二階級特進だぞ」と言い残して名古屋の部隊に赴任した。

 

 

やがて師団がサイパンに派遣され、大本営発表で玉砕を知り、彼女は夫の戦死を受け入れざるを得なかった。子供が4人いて戦後の暮らしは大変であった。それでも、立派に戦死した夫に喜ばれるような子に育てるのだという思いが支えになった。

 

だが同期会では「恥ずべき捕虜扱い」にされた。一つだけ思い当たる節があり、昭和二十一年一月、当時の疎開先で「吉田は近く復員する」という話が伝わってきた。実兄が復員局勤務であったため調べてもらったところ、「サイパンでは日本軍の参謀が確かに捕虜になった。それは吉田ではなく、別人だ」という返事が届いた。

 

 

おしどり夫婦。ちなみに必ずしも生涯一夫一婦制ではないらしい。

 

 

いつかは真相が起きらかになると思って耐えた。そして昭和五十二年(1977年)正月、任官五十年を記念して陸士三十九期の同期会が会報誌を出すことになり、その一環で上記の「吉田問題」についても調査が行われた。

 

その取材は精力的に行われたようで、「サイパン戦争当時、日本軍捕虜の尋問に当たった米軍関係者を突き止めることができた。その証言で『捕虜となった参謀は、収容所で終始、吉田の姓を語っていた』という事実が裏付けられた。

 

 

捕虜となった日本の軍人が実名を伏せ、偽名を使ったという回想はこれまで幾つも見てきた。最近では乙事件における福留参謀長の「花園中将」が記憶に新しい。機密のためか体裁のためか、ともあれ珍しい話ではなかったはずだ。だが別人とは誰か。

 

しかし、その真相はついに公表されなかった。「旧陸軍の恥を永遠に残すことになる」という一部の猛反対で会報誌に掲載するのは見送られたからである。が、関係者の間に、吉田えん罪の話は広く伝わった。

 

 

奈仁さんの心も晴れ渡ったであろう。新聞は「奈仁の” 戦後” はようやく終わりを告げた」と書いている。ところで私は前回、自らサイパンで米軍捕虜になったと書き残している参謀を話題にしている。著者の平櫛孝氏・元陸軍中佐。

 

「丸」別冊のこの手記には、編集部の補記として、著者の平櫛氏は「昭和五十年に死去されている」と書かれている。上記の会報誌の調査や出版は、その二年後のことだ。この「丸」別冊は昭和六十二年発行だから、古い手記を載せたことになる。

 

 

本件の「別人」が平櫛氏であったか否かは、これだけで決めつけることができるものではない。しかし沢庵石ように頭の堅い旧帝国軍人に、「旧陸軍の恥を永遠に残す」などと言われて伏せられたのでは、吉田夫妻も別人も浮かばれまい。

 

ところで、一般に慣れていない者が自らの偽名をこしらえるとき、どこかしら本名ほか本人の個人情報との関連性を残したものを作り勝ちだという話を、ずっと昔、聞いた覚えがある。アナグラムが一例。

 

 

いま我々がネットでアカウント名やパスワードを案出するときも同じことが起きる。それなら本件の「別人」も、故吉田氏と関連があっておかしくない。実際、平櫛中佐と吉田正治中佐は、同じ師団の参謀だった。戦史叢書(6)の第400ページより。

両名は師団司令部の幕僚の第二位と第三位にいる。平櫛氏の手記によると、彼は前進中に重傷を負い、失神して米軍の捕虜になっている。参謀飾緒(金モール)をつけていたなら、私も同僚の名を使いそうな気がする。

 

この表の部隊には、伯父も横井さんもいる。これから先、本書もできるだけ詳しく読んで記事にしたい。内容は名古屋の部隊の話だけではないし、サイパン以降、外地や沖縄に送られた兵士の多くも同じような辛い戦闘の経験をしている。

 

 

(おわり)

 

 

 

 

日本最小のキツツキ、コゲラ  (2023年11月27日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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