少し雑談。今年3月にガダルカナル島から戻って二か月が経ちました。今なおガダルカナルで再発した腰痛と、帰国直後に引いた風邪が慢性の鼻炎のようになっており、

先輩から「ガ島後遺症」と命名されています。幸いようやく回復しつつあります。

 

私の腰痛は持病が二つあり、学生時代にスポーツの練習中に痛めた椎間板ヘルニアと、五十代で発症した脊椎分離症(背骨の一部が剥離骨折しているのがレントゲン写真で見える)。いずれも医師から、一生お大事にというふうに言われています。

 

 

しばらく前にシルバー・ボランティアを始めたと書きましたが、去年11月にその軽作業が原因と思われる腰痛の発作があり、立ち上がるのも困難な状況となって、病院と整体に通いました。

 

 

渡航を控えていたため、ボランティアは辞めました。運動選手用のコルセットと、念のため膝サポーターも買ってソロモン諸島に渡ったのですが、おそらく疲労の蓄積で再び腰痛を発症し、現地の宿で半日ほど安静する羽目になりました。歳です。

 

 

 

前回あたりから、7年前に読んだ「戦史叢書第006巻 中部太平洋陸軍作戦<1>マリアナ玉砕まで」を少しづつ再読している。7年前に着眼した箇所にはラインマーカーが残っているので、主にそれ以外の箇所と新たに入手した資料を読んでいる。今回は上陸前後の全体の流れを大まかに把握し、個々の動きは後に整理する。

 

海軍の戦史叢書に載っていた6月14日の東條総長の上奏は、先回引用した箇所以外の内容もあり、例えば「マリアナ方面は、おおむね野戦築城を完成し、米軍が上陸を企図する場合でも、パガン、サイパン、テニアン、グアムの枢要部はこれを確保し、海軍作戦の支援とすることができると信ずる」。

 

 

この6月14日、米軍の艦隊は後続の船舶が着陣し増強された。「旧式戦艦、巡洋艦等の到着によって、海岸砲撃の質が大いに向上した」。日本側は目も当てられない。官民を問わず輸送船まで沈められてゆく。

 

成人男子はどうかというと、「十四日には、サイパン在郷軍人に防衛召集が下令されたほか、警備団、青年団等は、軍に協力して後方勤務に従事した」。この件については中日新聞社会部編「烈日サイパン島」にも記載がある。

 

 

「米軍が上陸する前日の十四日、大本営はサイパン島の十八歳から四十五歳までの在留邦人に、召集令を出した。通常、召集令は個人個人に出されるものだが、有事の際だったのでまとめての召集だった」。外地では召集対象者の人数すら不明だった。

 

すでに戦場である。正規の軍人だろうと在郷軍人だろうと軍属だろうと、敵に攻め込まれれば一緒に戦うか、一緒に逃げる。これが対米太平洋戦争の最後まで続くのだ。逃げ遅れた民間人は、なおさら悲惨な目に遭う。

 

 

オナガ

 

 

11日の空襲開始から13日には艦砲射撃も加わって、上陸日の6月15日までには、東條総長のいう概ね完成した野戦築城のうち、「地上に暴露した陣地施設、観測所、銃火器陣地はほとんど破壊され、海岸付近の椰子林も焼けてしまった」。

 

ただし米海兵隊の資料には、陣地構築は「巧妙だった」とも書かれている、「掩蓋をかけた重火器、観測所、地形を巧みに利用した火砲掩体は、激烈な砲爆撃にも比較的軽い損傷で生き残った」。これで立ち向かった。

 

 

海兵隊は島南部の西海岸オレアイ、チャランカノアに押し寄せて来た。日本軍はこの火力で上陸のため寄せて来たLVT水陸両用車を次々と擱座させた。されど米軍の上陸作戦は第4波まで続けられ、700隻のLVTが8千人の米兵を上陸させるに至った。

 

隠れていれば大丈夫でも、陣地が破壊された部隊は、予備陣地に移動しなければならない。これが昼夜ともに困難を極めた。夜も困難だったのは、例えば海岸を移動すると夜光虫が身に付き、それを銃弾が狙ってくる。照明弾が空を照らす。

 

 

さらに「通信網の切断による指揮機能の混乱は、じ後の作戦指導を非常に困難にしたのであった」。配置された水際での敢闘も力及ばず、「各個戦闘に陥り」、次第に内陸部の山地(タッポーチョ、ヒナシスなどの山々)に押されてきた。

 

この夜、歩兵・砲兵の各部隊、戦車第九連隊、落下傘の唐島部隊等が、オレアイ附近で午後から翌朝にかけて米軍を水際附近まで押し戻したが、敵は艦砲射撃の支援を受けて態勢を立て直し、また敵砲兵部隊も上陸し用地を占領した。敵正面の歩兵主力の第百三十六連隊第二大隊は、安藤大隊長以下、多くの戦死傷者を出した。

 

 

最上位の海軍中部太平洋艦隊は、陸戦の指導を陸軍に委ねている。第三十一軍は司令官不在につき、井桁参謀長が代理となった。主力の第四十三師団は、第一次輸送の到着後まだ一か月も経っていない。

 

しかもその第二次輸送(うちの伯父の連隊)は海没して「ほとんど戦力零」。部隊の改変も作戦準備も不十分だったと戦史叢書は書いている。結局、初日にニコ師団相当の敵兵力の上陸を許す。

 

第三十一軍・第四十三師団は、この15日夜、敵上陸部隊に対する夜襲の敢行を決断した。しかし各部隊の掌握が困難で、歩第第十八聯隊第一大隊が遅れ、「第一線配備の各部隊だけの局地逆襲」になった。その中に第1709回で触れた唐島部隊もあった。

 

 

(つづく)

 

 

 

カキツバタ  (2024年4月28日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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