鳥居峠の名の由来

 

 

サイパン島への米軍上陸が始まった昭和十九年(1944年)6月11日に、サイパンとテニアンの両島にいた2名の海軍軍人の回想記が、「実録太平洋戦争4⃣ マリアナ沖海戦からレイテ特攻まで」(中央公論社)に収録されている。

 

敵サイパン上陸の前後、れぞれの現場で起きたことを追いかけよう。戦史叢書(6)によると既述のとおり同日〇七三〇、哨戒機が敵艦載機と接触し、中部太平洋艦隊が第二警戒配備を発令した。これが約4時間後には第一警戒配備に変更される。

 

 

当時サイパン島守備隊所属・元海軍兵曹の青木隆氏著「サイパンの海蒼く」によると、6月11日朝、彼が所属していた渡辺隊に第二警戒配備の電話連絡が来たのが〇九四五。武装したまま寝ていた兵士たち、「これで久しぶりの日曜日も台無しだ」。

 

続報あり。北カロリンにて敵小型機発見。機動部隊の接近を予測した。自転車の伝令が「直ちに食事をなせ」と伝えて回った。この続報は偵察機ではなく、輸送機が出したものらしかったが、同機は未帰還となる。

 

 

対空砲火担当の各兵は意気軒高だった。「おもしろくなってきたぞ」と元気な奥村兵曹が言った。次の電話は、「一一五五 第一警戒配備をなせ」。続いて「大宮島、ただいま空襲警報」。真っ先に上陸前の空襲を受けたのはグアムだったらしい。

 

サイパンの守備隊は高台にある。眼下の港や道路では、陸海軍が忙しそうに動き回り、手に手に風呂敷包みを抱えた民間人が避難所に向かって登ってゆく。陸上警備隊から空襲を知らせる花火一発が上がり、「サイレンが遠く近くに鳴り」わたった。

 

 

同日この少し前のテニアン島。もう一つの手記、当時特別編成海軍陸戦隊機銃隊長・元陸軍中尉の大森勇治氏著「死の島は生きている」の冒頭部分を転載する。既出の第一二一海軍航空隊(雉部隊)が登場する。千早機、戻らず。

 

昭和十九年六月十一日午前十一時、雉部隊偵察艇彗星が、サイパン東方数百里の海上に北進する敵機動部隊を発見した。残りすくない飛行機がつぎつぎに離陸していったが、いずれも帰って来なかった。そのかわりに、金属的な唸りを挙げて急降下する敵艦上攻撃機の波状攻撃がテニアン島をゆるがし、味方の地上砲火は完全に沈黙した。

 

 

鳥居峠にて

 

 

この続きはサイパン占領後なので後の回で続きを読む。上掲の在サイパン青木氏の回想に戻る。サイパンに空襲警報が出て、友軍の戦闘機十三機が発進したとき、「飛行機 大編隊 アスリート方向北に向かう」。見張りの声だった。もう見える。

 

各陣営が一斉に弾丸の装填を始めた。サイパン島南東部とテニアン島から、高角砲の射撃音が聞こえ戦闘が始まったが、やがて「敵機の爆音は間もなく完全にサイパン島を蔽ってしまった」。相手は約五七〇機との見積もりが出た。

 

 

それだけではなかった。テニアン島には別の敵部隊による爆撃が始まっており、サイパンでも雲を利用した敵機が急降下で爆撃してきた。著者の周囲にも火柱があがり、土砂と弾片が降った。消火活動を行う。午後遅く空襲は終わった。街は火の海。

 

空襲は翌十二日も十三日も続いた。この6月13日には、もう友軍機の姿は全く見えなくなっていた。「叩かれっぱなし」で厭になってきた。離れているグアムの様子が分からないが、この大軍相手では無理だろうと思った。夜が明けようとしている。

 

 

指揮所の中を見まわすと、みんな目を閉じ腕を組んで壁に寄りかかっている。誰もが友軍機の来援と敵の退去を祈っているのだ。

 

「どうも空の星が友軍機の航空燈に見えてしようがない。あの星のように友軍機が来ないかな」。外で井上兵曹の声がする。皆の顔が一様に夜明け前の空に向けられたが、すぐまた一様に下を向いて黙ってしまった。

 

 

また空襲警報が始まった。はるか達峯頂(タッポーチョか。上手いものだ)ごしにアスリート飛行場の上空当たりを敵機が乱舞し、友軍では、わずかに「貧弱な弾幕」、「精一杯の反撃」が行われていた。

 

山頂に海上見張がいる。そこから甲高い声がした。「艦影! 右一〇度 左へ進む 敵味方不明」。続いて「さきほどの艦影は駆逐艦、左五度 進路左九〇度 いまだ敵味方不明」。しかし友軍なら、今ごろ島の上空は友軍機が飛んでいるはずだった。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

奈良井宿にて。火の見やぐらがある。当時の宿場町は木造家屋が所せましと建ち並んでいたため、家事が出ると延焼しやすく、大火事になることがあった。

(2023年11月19日撮影)

 

 

 

 

 

 

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