本ブログ開始当初のマリアナ関連の記事では、伯父が陸軍兵だったため、陸軍のものばかり読んで書いていた。海軍や航空部隊の資料は、その後に買ったものなので、これを機にあれこれ追記する。
今回からの参考文献は「丸」別冊「玉砕の島々」の回想録、横森直行氏著「第121空偵察隊テニアンに消ゆ」。著者は「当時第121空航空士・海軍中尉」。後に司令部が艦砲射撃で全滅したとき、著者は連絡将校として陸軍部隊と行動を共にしていたため難を逃れた。
手記のタイトルにある第121空偵察隊とは、新設された第一航空艦隊の隷下である第一二一海軍航空隊(通称「雉部隊」)のことで、隊の任務は偵察専任。一航艦には他にも九つの部隊がある。
それぞれの隊名、任務、航空機種、機数(定数)が掲載されている。計画では合計684機だった。機種だけ並べると、偵察は二式艦艇、戦闘機は零戦と紫電、夜戦が月光、戦爆が零戦、降爆雷撃が銀河、降爆が彗星、雷撃が一式陸攻、そして輸送機。
第一航空艦隊は、「艦隊とは名ばかり」で艦(ふね)が全く無い。司令長官には角田覚治中将が任命された。参謀長は国葬のとき山本元帥の遺骨を運んだ三輪義勇少将。発足当初は「大本営直属のマル秘部隊であった」。
一航艦は鹿屋で旗揚げし、最初に戦闘機隊の二六一空および中攻隊の七六一空が編成された。続いて著者の偵察隊が、昭和十八年(1944)年10月1日、一二一空として誕生する。千葉県香取基地で編成され、夜戦の三二一空とともに飛行訓練を開始した。
私は若いころ鉄道の旅が好きで、特急に乗り銚子まで犬吠埼灯台を見に行ったことがある。今はもう改築されているが、当時の木造の駅舎はネット情報によると、この香取基地の建物であったらしい。
正式名は「香取海軍航空基地」。先年ブログ師匠にお連れ頂いた香取神社の少し南方にあり、著者によると「飛行場だけは広く、九十九里の黒潮の海岸に近いので、冬は暖かく雪はほとんど降らない」。
この国会図書館の資料によると、「地元では香取飛行場・干潟飛行場と呼ばれていた」そうだ。この干潟というのは本手記にも出て来る総武本線の駅の名前で、この駅は今もある。著者は基地創設時から居たらしい。
居住施設は木造のバラック式のもので、新築ではあったが、お粗末なものであった。ここで角田長官以下、まず兵食でムダな費用を使わず猛訓練に励んだ。
手記に「第一二一航空隊(雉部隊)幹部名簿」が載っている。役職名は上から司令、飛行隊長、分隊長(第一、第二)、飛行士、分隊士と並んでいる。著者が「飛行士」なのだが、この飛行士という役割をよく知らない。飛行隊長の補佐役という説明をどこかで見た。もっとも著者は後述する長嶺分隊長と職務上の接点が最も多かった。
飛行隊長は、これまで何度かその名が出て来た千早猛彦大尉。大尉の戦死日は、マリアナ諸島に対する敵艦砲射撃と空爆が始まった昭和十九年(1944年)6月11日。詳細は後日の記事にする。海軍の戦史叢書(12)に出て来たマーシャル方面への挺身偵察隊は、この雉部隊だった。
ヒドリガモ♂ 雉の写真は手元に無し。
司令の岩尾正次中佐は、練習航空隊を出たばかりの若い搭乗員の訓練を、部隊第一の目標とした。この「若い搭乗員訓練の推進力となったのが長嶺分隊長」だった。第一分隊長の長嶺公元大尉。「口は悪いが、心は反対」の人であった。
長嶺分隊長は、チモール島クーバンの落下傘部隊で活躍中、国際法により禁じられているダムダム弾の銃創を受け、「その回復手術は、十数回に及んだという」。歩行不自由となり、これも第1619回に訪問時の写真を乗せた、館山砲術学校の教員兼分隊長になった。
しかし、彼は地上勤務では収まらなかった。膝が良くなってから、飛行特修科学生となり、偵察搭乗員の資格を取って前線に戻って来た。渾身、「闘志と執念」の人であった。暮れ正月(12月31日から1月3日まで)の休暇も、大晦日は午前中、訓練すると言い出し、皆で引き留めた。
この休暇が第一航空艦隊の全部隊にとって最後の帰郷機会となった。角田長官も正月三日には基地に戻り、翌四日から猛訓練を再開した。将旗は香取に揚がっている。長官は飛行場にもよく「何食わぬ顔で」現れた。そのたび士官室に緊張が走る。兵食の長官、怖かっただろう。
戦況はますます悪化した。「二月六日、クェゼリン、ルオット玉砕」。2月17日、いつ戦地に向かうかわからないということで、准士官以上の送別会を行うことになり、その世話役を命じられた著者は、三人で早めに銚子の料亭に先乗りした。
ところが、時間になっても誰一人来ない。主計長からの電話で、事情により宴会中止といわれ、すでに芸妓を呼んでいる以上、先乗り組三人だけで今日は飲み食いしてそこに泊まれとのお沙汰。芸妓28人に対し、こちらは3人、特上の酒。
この酔いを醒ましたのは、夜も更けたころ届いた封筒にあった命令で、「朝五時五十分、基地出発、第一派遣隊指揮官を命ず」。南洋に行くとだけ聞かされ、それ以上詳しいことも分からず、歯ブラシとタオルだけ持ち、長官に送られて出発した。
同行者は「整備分隊員二十五名」だった。部隊の航空機が行き先に着く前に、彼ら整備員を送り出したのが「第一派遣隊」であったらしい。横須賀にて、まだ連合艦隊旗艦になる前の巡洋艦「大淀」に乗った。「武蔵」のそばを通過する際、見上げると「大人と子供以上の差がある」巨艦の艦橋で、帽を振る兵の顔がかすんで見えた。
(つづく)
ユリカモメ、お江戸に戻る。 (2023年10月22日撮影)
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