離水というか離陸というか。
毎年この日が来る。終戦一年前のこの日、伯父は既にマリアナで亡き人になっていたおそれ大であるが、たぶん伯父がどこにいるのか知らなかったはずの我が実家では、ひたすら無事を祈っていたのではないか。あるいはもう戦死広報が届き、失意の暮れを迎えていたか。二度と庶民にそんな思いをさせるな。
前回の手記の続きで、偵察部隊の一二一空のテニアン進出。今回は昭和十九年(1944年)2月のマリアナ空襲。次回は同年6月の米軍上陸。著者の横森海軍中尉が第一派遣隊長として「大淀」に乗り横須賀を出港したのが2月18日。
中部太平洋方面の航空部隊が、マリアナ方面に向かう敵機動部隊を発見したのが2月20日。しかし既に17日朝、トラックが大空襲を受けており、これを受けて角田第一航空艦隊司令長官は、一航艦電令作第一六号を発令した。
この命令は第六十一航空戦隊の主力をサイパンおよびテニアンに進出させるというもので、戦史叢書によると雉部隊はテニアンに向かった。この命令の発信が十七日二一〇五になっている。著者が銚子の料亭にいたときに「事情が変わった」のがこれだ。
第一派遣隊長といわれても、「いったいどこへ、何しに行くのか指揮官の私がわからないのだから、どうにもならない」と回想している。乗艦の「大淀」は単独行動で東京湾を出てからはジグザグ航法になった。
部屋に案内されベッドをみたら疲れが出たが、休む間もなくガンルーム(士官次室)に呼ばれた。海軍中尉から任地と任務の説明を受けた。「大淀」は全速力でサイパンに向かっている。その巨大な格納庫の中に、偵察機に代えて航空魚雷を積んでいた。
中尉によれば、「大淀」は実際そのとおりになるのだが、サイパンで一二一空の整備分隊と魚雷を降ろす。著者の任務は魚雷をサイパンからテニアンの航空基地に運び、敵作戦の迎撃に備える。「そんな際どいことが一体できるものなのか」と思った。
来るなら敵はすぐ来るだろう。そして著者はサイパンもテニアンも知らない。ビールでも飲んで休んでくれと言われ、やむなく大いに飲んだ。21日早朝、サイパンに到着。「大淀」は揚陸が終わると速やかに去った。もう敵機動部隊を発見している。
サイパン島ではもう大騒ぎが始まっていた。海軍警備隊の運送責任者をようやく見つけ出し、翌22日に敵の様子を見て船で魚雷を運ぶことになった。同じ21日の午後、角田長官以下の司令部がテニアンに到着。
翌22日早朝、やっぱり空襲警報。角田司令長官は淵田参謀長による航空機の「退避」を求める意見具申を退け、攻撃を開始した。運悪く零戦の二六一空は悪天候に阻まれ、硫黄島までしか進出できていない。
人間は考える葦だそうです。
警報どおり、サイパンとテニアンでは早朝から敵空襲が始まり、サイパンの地上から状況を見ていると、「最初は敵味方戦闘機の空戦が見られたが、間もなく敵機だけになり、まったく無抵抗となった」。
海岸の飛行艇基地が燃えている。そこの海岸に置いてあった魚雷は、借りてかぶせたシートが余りに汚かったせいか、迷彩となったようで敵襲を免れた。夕方には空襲も終わり、艀(はしけ)に魚雷を一回五本ずつ積んでテニアンに運ぶことになった。両島間の距離は三浬(約5キロ)だが、潮の流れが急で容易な輸送ではない。
運搬船に乗った著者はテニアン岬を回ったところで、「驚いた。テニアン港は火の海だった」。製糖工場も桟橋も燃えている。この砂糖搬出用の桟橋の名残は、今もテニアン島にあり、私はその周辺で泳いでは例によってアオウミガメと会っている。
テニアンの戦いのところで詳述するが、この島の日本軍の飛行場は三か所にあり(のち4か所に増える)、そのうち完成しているハゴイ飛行場(原爆搭載の地)は、島北部のサイパン島に近いほうにある。一方で港と日本人街は、島南部にあり、今でもその区画が残っている。
昼間の空襲で戦死した陸軍兵が海岸に横たえられている。魚雷の荷下ろしを手伝ってくれながら、陸さんは「この魚雷で仇をうってください」と言った。港から飛行場に向かう車の中で、攻撃機が飛び発ってゆくのを見て、「頼むぞと手を振っていたら涙が出て来た」。
進出したばかりの第一航空艦隊はさっそく出撃し、ここでは略すが一人ひとりの戦闘行動が詳しく書かれている。敵は去ったが、テニアン基地を改めて見れば、引込線も掩体もない。地下燃料庫も弾薬庫施設も不十分。「さすがの角田長官もあせるだけだった」。
第二・第三の飛行場は、シャベルと鍬で造成中。テニアンには1万3500人ほどの民間人がおり、「学童から婦女子まで、昼も夜も働いていた」。一二一空は、そもそもまだ錬成中であり、夜間着陸の訓練を開始した。新機種が投入されている。
千早隊長が心待ちにしていた新型の偵察機「彩雲」が香取基地から到着したのは、5月1日のことだった。千早大尉はさっそくマーシャル方面の挺身偵察に、その一号機を飛ばして満足気に戻ってきた。もう一人の雉部隊の至宝、後藤飛曹長は「彗星」でほぼ同じコースを飛んで還って来た。この続き、くわしくは次回にて。
(つづく)
アカゲラという綺麗なキツツキ (2023年10月24日撮影)
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