1942年10月25日夜から26日朝にかけての十月総攻撃第二回夜襲について、すでに海岸部隊の住吉支隊、右翼隊主力の第二三○連隊、そして第一回の左翼隊主力だった第二十九連隊について触れました。

 

これから最後に、歩兵第十六連隊の動向を追う。まず全体の状況について、陸軍の戦史叢書で復習します。最初に、第一回の攻撃が終わった10月25日の昼の戦況。ここでの戦史叢書とは、「南太平洋陸軍作戦<2>」の巻。

 

二十五日午後の第二師団第一線の状況は、米軍が依然第一線部隊に対する砲撃を続行するとともに、後方連絡を遮断する企図があるらしく、中口径砲弾が盛んに左翼隊に通ずる進路附近に落下していた。またその戦闘機が正午ごろからしきりに第一線上空を飛行して、銃爆撃を実施していた。

 

 

二点、言及いたします。「後方連絡を遮断する企図」というのは、つまり丸山道がすっかり敵の知るところとなっており、後から遅れて来つつある重砲を抱えた部隊を狙っているのかもしれないし、よく戦史や物語に出てくるように、敵兵站路の遮断を狙ってのことかもしれない。

 

両方だろうか。前者の砲兵行軍の阻止は、実際に運搬・前進中だったから、効果があっただろうと思う。後者については、そもそも、ここに兵站なんてないとは、さすがの米軍も思い至らなかったかもしれない。兵站については、これからも話題にし続けます。

 

 

もう一点は、敵戦闘機の跳梁について。これは戦史叢書には、こういう程度にしか出て来ないのだが、生還者の手記には、しばしば、もっと具体的に、そして、いらだちと不安をこめた描写が登場する。実損に加え、たいへんな心理的圧迫になっていた。

 

人間様は二次元の平面でしか動けないのに、第一次世界大戦のころより、航空機や潜水艦という三次元で動く兵器が活躍を始めてから忙しくなった。レーダーがなければ、視野の外や、手の届かないところから襲ってくる敵に備えようがない。いきおい、制空権・制海権の奪い合いになる。

 

 

次に日が暮れてからの展開について、戦史叢書から再掲します。これは左翼隊だけの説明箇所で、念のため補足すると文中に出てくる「右翼」という言葉は、左翼隊の前線のうち、右翼と左翼があるため、こういう表現になる。

 

左翼隊は二十五日夜、新しく増加された歩兵第十六聯隊及び工兵第二聯隊主力を右翼に増加し、その正面に重点を保持、左翼隊長那須少将以下、陣頭に立って夜襲を実施した。

 

 

聯隊を単位にして配置を整理すると、日本軍の集結地点から、ルンガ岬の飛行場に直行するにあたり突破しないといけない敵正面に対し、左(西)側から、歩二十九、歩十六と工兵二、以上が左翼隊で、その右に歩ニ三○主力の右翼隊が位置する。

 

この「正面」は昨夜すでに、右翼隊の一部が前進できないほどの敵銃砲弾を浴び、左翼隊は亀井宏氏の表現を借りると、「いわば手探り作戦」に終始した。具体的にはムカデ高地に近い左側に第九中隊、中央に勝股大尉の第十一中隊、その右に吉井第三大隊長が挑戦した。

 

 

攻撃目標も戦法も第一回と同じということは、意地悪く言えば司令部が作戦を工夫する努力すら放棄している。味方の陣容も、前夜の損害を考えると、戦史叢書にある「増加」という言葉は、連隊規模の部隊を二つ追加投入したという意味ではその通りだろうが、全軍でみて昨夜と比べ、増員強化になったのかどうか疑わしい。それに古宮連隊長は行方不明のままだ。

 

戦史叢書には兵の頭数の記録すら残っていない。実際、資料がないのだろう。これで「昨夜と同じ作戦」で勝てるとすれば、肉弾で波状攻撃をしているうちに、敵の兵数か武器弾薬か戦意が尽きたときぐらいだろう。後年多発するバンザイ突撃やら特別攻撃やら、あげく一億総玉砕やらと発想は全く変わらない。

 

 

歩十六の戦後回想録が、悲壮感と怨嗟に満ち溢れているのは当然のことだ。十月総攻撃の第二回夜襲中において、コカンボナの軍戦闘司令所は勿論、後方の師団戦闘司令所からも、誰かが最前線に来たという記録や手記には、まだお目にかかっていない。大本営の現地代理店は、いったい何をしておったのだろうか。

 

以下、速報で追記です。前回、第十六連隊の配置等が分かっていないと書きましたところ、ブログ先輩の勇一三○二様より、ご自身の記事と別件資料をいただきました。まだ未消化なのですが、もう今その場面に来ているため、まず同記事のご案内です。現代の状況も併せて確認できます。

https://ameblo.jp/guadalcanal/entry-12324573199.html

 

 

続いて、いただいた資料より、戦後の遺骨収集の状況から、第二師団の攻撃地点を復元した地図。24日夜の第二十九連隊(29i)が左寄り(図中央の白旗印)、25日夜の主力、第十六連隊(16i)がその右側。ご遺骨の数と密度が尋常ではない様子です。さらに右に、右翼隊の第ニ三○連隊。左上の「米軍総司令官」まで、あとわずか。守りが固かったわけです。

 

 

 

 

次に、亀井宏著「ガダルカナル戦記」も参考にする。この十月総攻撃に直接関係する陸軍関連の章は同書に四つあり、「輸送」、「戦機」、「失敗」、「退却」の順に並んでいる。二番目の「戦機」は10月24日の夜、すなわち戦闘開始直前まで。

 

続く「失敗」は、そのほとんどが勝股治郎著「ガダルカナル島戦の核心を探る」からの転載と、勝股氏への直接取材が「根本史料」になっている。具体的には、第二十九連隊の第一回夜襲の経緯および、その後の勝股大尉から玉置参謀長と辻参謀への進言が大半を占める。

 

 

これが「失敗」と名付けられているのは、単に初回の攻撃が失敗に終わったということだけではなく、くりかえすが「戦略奇襲」たる夜襲の企図も水の泡になり、銃剣の突撃も歯が立たず、彼我の軍事力が天と地ほどの差だとわかったはずなのに、同じことを繰り返すと決めた時点で、もう十月総攻撃は「失敗」だ。亀井さんはそう考えているのだと思う。

 

このため、第二回攻撃に関する歩ニ三○や歩十六の証言は、もう「退却」の章に入れられている。バンザイ誤報も、歩二十九の軍旗喪失の件も同様の扱い。後世からみると実質的に、たたかいは峠を越えているということだろう。先般引用した歩十六が「死処をあたえられた」という表現は、その象徴だ。ではその証言内容に移ります。

 

 

 

(つづく)

 

 

 

 

 

常磐線の線路わきにてクローバー。

(2019年2月25日撮影)