比企郡吉見町久保田 トウカン森 | 旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

スネコタンパコの、見たり、聞いたり、読んだりした、無用のお話

        

        

 

 前河内日吉神社の長老が話していた久保田のトウカン森へ行ってみた。

 すでに記したように、トウカン森とは、おそらく、稲荷の森→トウカの森→トウカン森となったと考えられる。

 

              

 トウカン森の位置は吉見町立南小学校の北東230メートル、水田のなかにぽっとある。森といっても森林のことではなく、鎮守の杜という場合の杜か、あるいは盛(もり)のことで塚の意味だろうか。今では、樹もまばらだが、昔は大きな松が4、5本生えていて、秋になると雁の群れが飛来し、頗る景色がよく、名所の一つだったという。

 ついでにいうと、かつてトウカン森のすぐ北にも塚があったらしい。これを「旗おり塚」といったという。《村の南にあり。はば五間四方、土人曰、大串の陣の時、旗を建てし所にて、旗をりの唱は旗居りなるべしと。これを旗を建てしと云より起こりしなるべし》と『新編武蔵風土記稿』にあり、大串の陣のときに水谷某が旗を立てたところ、なんていっているが、「旗居り」というのは、いささか、どうかと思われる。トウカン森の北北西1km、北隣の同町大字久米田に久米田神社があり、昔、倭文(しずり)神社といって、機織の神、建葉槌(たけはつち)命を祀っているから、「旗おり塚」も機織塚と考えた方が自然だろう。おそらく、建葉槌命が祀られていた塚だったのではなかろうか。


       


 トウカン森を南から見ると、周囲に濠があって古墳のように見えなくもない。「旗おり塚」が並んであったこと、久米田には数多くの古墳があったという事実から判断すると、その可能性は高い。


       
 

 

 塚の最も高い地点に石宮が祀られている。これが稲荷だな、と刻まれた文字を読むと「正一位久田稲荷大明神」と読める。ここは大字久保田である。となれば「久保田稲荷」とあってしかるべきではなかろうか。石宮の裏面には年号は読めないが「二月初午 久保田中組」と記されている。はて、なぜ久田なのだろうか。久保田と書くべきを間違えて保の字を忘れてしまったか、それとも「正一位久」まで書いたところで、以下の「保田稲荷大明神」が長くてスペース内に納まらないと判断し、保の字を省いたか、あるいは「久田稲荷」で正しいか。ヨタノワカル、ニオタワケ、八満宮というのもあるから、明言はできないものの、この三つのなかでは、やはり「久田稲荷大明神」で正しいというのが、最も妥当な解釈だろう。それでは久田稲荷とはなにか。それはおそらく管稲荷ではなかろうか。つまり、いわゆるクダ狐を祀った稲荷なのではないだろうか。

 柳田國男は、『おとら狐の話』のなかで、人に憑く物として《狐とよく似て少し変わつたクダと云ふのがある》といっている。狐の一種でクダン狐ともいい、大きさは鼬くらいとも、それよりも小さく管のなかに入っている故に管狐というのだという。木曾あたりでは、《クダは元、伏見の稲荷様から管に入れて受けて来る》と伝えているらしい。あるいは、クダはそんなに小さなものではなく、時に犬猫に噛まれて死んでいることもあり、栗鼠鼯鼠(むささび)ほどの大きさで、黒い毛が長くたれ、爪は針の如く恐ろしいものだともいう。

 そして、クダに憑かれると、《最初は熱があつて常の疫病の如く、後次第に気が狂つて来る》のだそうだ。また、クダ附きの家筋というのがあって、《クダの家の者はクダの力を假らずとも、睨むと人の家の南瓜が腐つたり、機の工合が急に悪くなつたりする。或は目に見えぬクダが来て、さうするやうにも考へられて居る》という。

 つまり、この久田稲荷大明神というのは、この辺りでクダ狐に憑かれたという人が多く出たか、あるいはクダ狐の恐ろしい話を聞いた人々がその霊を鎮めようと祀ったものではなかろうか。無論、これはわたしの勝手な想像に過ぎない。しかし、だからといって空想性虚談症者の全く根も葉もない話ということでもない。手がかりは一つ、それは久保田の南に接する大字を江綱(えつな)ということである。

 『埼玉の神社』は、江綱の地名について、《江綱の地名は河川にかかわると考えられ》るといい、鎮守の元巣神社の社名「元巣」も《鎮座地が元は洲であったことに由来する》と述べている。確かに、江綱は旧荒川の自然堤防上にあるが、ただそれだけのことであって、「江」とあるから河川にかかわるとの判断は短絡的に過ぎる。それに、元巣神社の社名は、洲とは全く関係はなく、亡くなった人の霊を復活させ、元に戻す、つまり「戻す神社」に由来する。祭神啼澤女命(なきさわめのみこと)とは、泣き騒女のことであって、死んだ人の霊を呼び戻すために、死者のそばで、大声で名前を呼んだり、泣いたり、踊ったりする人々、つまり遊部(あそびべ)のことをいう。(小栗康平監督の『眠る男』に、いわゆる「霊呼ばい」のシーケンスがある。民俗学的に見ても面白い。)

 『埼玉県地名誌』は「江綱」について、《エツナはイツナの転か。飯綱(イツナ)の山名は信州戸隠山の近くにある。武田久吉博士は飯綱山の飯綱は飯砂で、同山付近から出る一種独特の粘土状のもので、無理して食えば食べられる。行者が食って命を永らえたとか、色々の物語から、飯綱の法が生まれ、飯綱使いといえば魔法使いの行者でいわゆる神通力を得たものであると述べている》としているものの、江綱が飯綱の転訛とは明言していない。

 わたしは江綱とは飯縄=飯綱(いいづな,いづな)の転訛と考える。この辺りに、飯綱の法を使う修験者が多くいたことからの地名にちがいあるまい。

 『吉見町史』によれば、江綱の小字浅間に万蔵院という修験堂があったとあるし、また、久保田の小字宿南にも下寺といって山伏の寺院がいくつもあったらしい。《正覚院・円覚院・明楽院・龍泉院と山伏が幕末まで居り、明治初期には老媼一人住し、火災にあい今は畑となる》とある。久保田の宿とはおそらく志久のことで、江綱に隣接する小字だから、久保田から江綱にかけて修験が多く居住していたことが伺われる。

 ついでにいうと、宿(志久)とは宿場町のことではなく、夙とも書き、「シュクの者」といえば賎民・非人を意味した。本居内遠の『賎者考』によれば、賎民の職業のなかの「術者」として「飯綱、犬神、使狐」があるから、江綱=飯綱説はかなり有力と考えられる。

 ところで、柳田國男は《飛騨では高山町及國府の附近、東美濃では太田地方などに、二三クダと云ふ狐を使つて居ると云ふ行者又は巫女の徒があつて、之をイヅナ使とも呼んで居るさうである》(『おとら狐の話』)といい、《エヅナが中部地方でいふイヅナ即ち飯綱と、同じ言葉であることは先づ疑ひが無いが、内容も一つであるとはまだきめられない》(『飯綱の話』)と述べている。

 『日本民俗大辞典』「クダ」の項にも、《クダ持ちではなく、クダ使いといういい方がされる地域もあり、特にある種の宗教的職能者や医者がそうだといわれた。この場合は、東北地方の飯綱使いに似ていて意図的に病気にするためにクダを使い邪術の一種といえる》とあり、クダとイヅナとを同一視する場合も少なくないという。 それは、イヅナがイタチの一種で狐の仲間と考えられたからであり、また荼枳尼天(だきにてん)が稲荷神や飯縄(飯綱)神の本地とされたことによると考えられる。

 《飯縄は稲荷(荼枳尼天)の信仰が山岳修験たちの中に取り入れられて成立したもので、その神像からは不動明王・天狗信仰・荼枳尼天信仰が習合して形成されたことが理解できる。山伏・修験者のほか巫女や俗人も飯縄使いと呼ばれ異常な能力・利益を得るが、それが長続きしないところに特徴の一つがある》と『日本民俗大辞典』には記されている。

 つまり、久保田から江綱にかけての一帯に、クダやイヅナを使う修験者が多く居住し、人心を惑わす術を弄したことから、久保田の塚上に久田稲荷大明神が祀られ、その後、トウカン森と呼ばれることになったのではあるまいか。