鶴瓶の家族に乾杯 上 | 旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

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スネコタンパコの、見たり、聞いたり、読んだりした、無用のお話

 5月11日のNHKテレビ「鶴瓶の家族に乾杯」(再放送)は、ゲストが本木雅弘、岐阜市で、とある家庭に押し入る話しだった。正直、この番組はほとんど見たことがない。一度、吉田沙保里がゲストだった時に見た記憶がある程度。そもそも、よその家庭を覗き見して何が楽しいのか、なにか意味があるのか、さっぱりわからない。吉田の時もそうだったが、モックンが、アドリブで、どんな反応するのか、それだけの興味で見た。実は、わたしは、周防正行監督の『シコふんじゃった。』をみて以来、本木のファンなのである。

 したがって、他はすべてカットして、一気に核心に迫ろう。わたしのヨタヨタの脳神経が目まぐるしくドーパミンをやり取りし始めたのは、モックンが同市鷺山のマルヨシ洋品店を訪い、その店主の名前がテロップで表示されたときのことである。「加納良一さん」だった。

 実は、モックンは桶川市加納の出身なのである。

 桶川市の加納という地名について、『埼玉県地名誌 名義の研究』(韮塚一三郎 北辰図書)はこう述べている。

 《加納は中世荘園である深井荘の追加開墾地であることから生じた地名である。》

 実に簡単に片付けられたものである。ここには、加納という地名は追加開墾地が定説になっており、一顧だに値しない、という先入観がありありと表出されている。そして、その後、こう続けている。

 《地内には、室町~戦国期の加納城跡があり、岩槻太田氏の旗下本木氏が居住した。この本木氏の後裔が江戸期に上・下加納村の名主を務めた。》

 しかし、『新編武蔵風土記稿』「上・下加納村」条には、

 《舊家 勘太夫、本木氏にて下分の名主なり。祖先は岩槻太田氏の旗下、鴻巣七騎の一なりと云。又上分に茂七といへるあり、この家の分れにて、これも鴻巣七騎の一なりと云。されど二氏ともに、家系を失ひたれば詳ならず。》

とあり、また、桶川市教育委員会が、昭和62年(1987)3月に、城跡団地内の公園に設置した加納城跡の説明板にも

 《城の沿革および居住者については不詳であり、加納城存続当時の記録も現在のところ発見されていない。おそらく、戦国時代に自らの領地を守ろうとすべく、この城を築き、居住した土豪的な武士は、徳川家康が関東に入府した時には、帰農し郊外に出てしまったものと思われる。》

 



とあって、本木氏が加納城主であったとは、どこにも記されていない。

 ところが、市が設置した加納城跡についての説明板は、別な場所に、もう一つあり、そこにはこう書かれている。

 《この城の来歴や城主は不明ですが、岩槻太田氏の支配下にあった「鴻巣七騎」と呼ばれた土豪のひとりである本木氏であると推定されています。》こちらは、平成26年(2014)3月の日付になっている。

 



 一体どちらが正しいのだろう。常識的に考えれば、新しい説明板に記されている内容が正解ということになろうか。おそらく、この27年の間に何かあったにちがいない。ならば、古い説明板は撤去すべきではなかろうか。それともなにか、そうできない理由でもあるのであろうか。
 
 つい先日のことだが、桶川市歴史民俗資料館の学芸員に訊いてみた。

 「加納城跡に関する説明板が二つありますね。一方には、城主は不明とありますが、他方には本木氏とあります。どちらが正しいのでしょう。」「城主が誰であったか、確証となる資料はありませんから、わかりません。ただ、古くからの有力者として加藤氏、廿楽氏とかいますが、やはり、本木氏と考えるのが最も妥当かと…」

 つまり、大した根拠はないのである。古い説明板を廃棄できない理由もそこにあるのだろう。思惑は見え見えであったので、こういっておいた。

 「どうしても本木氏にしたいわけですね。」

 モックンが主演した映画『おくりびと』が日本アカデミー賞最優秀作品賞を初めとして、アカデミー賞外国語映画賞など、数々の賞を受賞したのが2009年で、個人的にも、同年3月には埼玉県民栄誉章、桶川市栄誉賞を受けている。市が、長らく不明としていた加納城主の名を、《推定》としながらも、《本木氏》と明記したのは、おそらく、これが最大の理由なのではなかろうか。

 かなり長い枕になったが、実は、これからが本題である。