みんな「続き」のために頑張っているのに、1人で「エンディング」を見つめている | 台南在住日記とか

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 お父さんの人生にとって、私はただの傍観者。

 

 大切な家族だとしても、お父さんの人生の中に、私はただの傍観者。

 

 お父さんは自分の人生のために何かを決める時には、私はその意思に従うべきで、「私」はそこに存在してはいけません。

 

 

 だから、お父さんはDNR指示の申込書をサインしたので、私はそれを医療機関に出すべきです。

 

 

 

 出すべきですが、出していません。

 

 CPRをあきらめる項目に対して迷っていますから。

 

 CPRで助けられたニュースがよく見えますが、その後はどうなったのかわかりません。

 

 

 CPRで助けられても長く生きられない?自由に動けなくなって苦しくなったの?

 

 あるいは、CPRで助けられて、ゆっくりと回復して、多少な不自由があっても元気に生きているの?

 

 

 私はお父さんの人生を干渉すべきではありませんが、私の彷徨いで干渉しました。

 

 

 医療現場の方に相談してみたいけど、誰かに相談すればわかりません。

 

 一部の大病院では「預立醫療照護諮商(予め医療、介護についての願望を伝えることに対しての相談)」という科別があるから、電話で聞いてみました。

 

 

 そして、DNR指示より詳しい指示書の存在を知りました。

 

 状況によって「どれくらいの期間に頑張っても回復できないなら、手放してください」を指定することができます。

 

 家族としては、DNR指示より、この「すぐに手放しなくてもいい。もうちょっと頑張れる。」という指示書をサインしてほしいです。

 

 

 でも、まだお父さんと二人きりで話し合えるチャンスがありません。

 

 それに、お父さん自身も将来に対していろいろ不安していると思うし、お母さんと一緒に元気に長く生きられるように頑張っているし、このタイミングで「死亡」に対しての話題を話し合うのは、よくないかもしれません。

 

 

 しばらくほっといたほうがいいかもしれませんが、お母さんに隠してDNR指示の申込書をお父さんにサインさせてから、お父さんに隠してそれを出さないのです。

 

 私はお母さんを裏切ってから、お父さんも裏切りました。

 

 

 お父さんの意思を尊重すると言っていたのに、やっぱり、「私」の意思が最優先。

 

 ちょっと、こんな自分が嫌いです。

 

 

 みんな、「生きる」に着目して頑張っている時に、「死亡」を見つめていて、そればかり考えている自分に対しても、ちょっと嫌いです。