台湾学校の軍事教育では台湾と日本の教育制度を調べたって言いましたね。
そして、日本は
授業は午後3時まで、その後は部活。
日本の子供は小学校時代から自分で学校へ行く。
のようですね?
でも、台湾は、
授業は17時~18時まで。
子供の送迎。
です。
そのおかげで、台湾の「いつ殺されてもおかしくない時代」を思い出しました。
具体的には1980~2000年の間。
その期間は、
有名人やお金持ちの一家が全員殺される事件
子供は学校へいく途中に拉致されて殺される事件
女性は1人で出かけて拉致されて殺される事件
ヤンキーたちの無差別殺人事件
が多発でした。
例えば、
1980年、議員林義雄事件(死者3人)
1990年、台湾日本人女子大生殺人事件
1996年、桃園県県長劉邦友事件(死者8人)
1996年、女権運動の政治家彭婉如事件(タクシーを乗ってから行方不明、そして工場でご遺体を発見)
1997年、白曉燕拉致事件
ここで注目したいのは、台湾日本人女子大生殺人事件と女権運動の政治家彭婉如事件です。
二人ともにタクシーを乗ってから殺されたので、その時代を経験した台湾人は台湾人の彼氏が重い?いや、実は全員重い(笑)で説明したように、「一人ででかけるなら、教えてよ」って求める人が多いと思います。
次に注目したいのは、子供の拉致事件。
1997年の白曉燕拉致事件以外にも、たくさんあります。
子供だったので、詳しい数値がわかりませんが、でも、「子供の拉致=日常」のようなイメージがありました。(週に1回という説もありますが、具体的な情報がないのでわかりません)
だから、なるべく子供を送迎したいですが、共働き夫婦ばかりなので、保護者が学校の放課時間に合わせて調整することではなく、学校は保護者の退勤時間に合わせて放課時間を調整することになりました。
そこで、保護者の退勤時間までに子供を学校にいさせる価値観は台湾では当たり前です。
でも、頑張っても17時、18時に退勤できない人がもちろんいるので、「安親班(塾みたいですが、保護者が退勤するまでに一緒に宿題をする感じ)」という業者は、迎えに来てくれます。
そして、子供を迎える人(保護者も業者も)は事前に学校に申し込む必要があります。
もちろん、みんな「安親班」を頼むわけではないので、学校側は生徒たちの住所によって、「導護生」と「愛心爸爸/媽媽」を手配します。
導護生身長が高い5、6年生。お巡りさんのように後輩たちを守る人。拉致事件があれば、すぐに近くの店の電話で警察に連絡してくれます。
愛心爸爸/媽媽導護生を協力しながら子供を守る大人のボランティア。
だから、学校の近くに住んでいた私は、安心に1人で帰宅できました。
でも、その時代には、「警察ですよ。ドアを開けて。」「お母さんの友達ですよ」って子供にドアを開けてもらってから拉致する事件もありました。(台湾ではお巡りさんも「警察」で呼びますね)
そこで、両親とは絶対にドアを開けないことを約束しました。
さらに、ベルが鳴る時に応答しないことで空き巣に入られると、子供も危ないので、両親に「ママはトイレ。」「ママは忙しい。」って誤魔化しなさいって言われました。
結局、ある日、ベルが鳴りました。
「戸籍簿をチェックする警察ですよ。」
「ママは忙しい。」
「五分くらいでいいですから、ママに教えてください。」
「マ~マ~」私は両親に言われた通りに、誰もいないキッチンへ走りながら呼びました。そして、少し待ってから、また帰ってきました。「ママは、無理です。」
「じゃあ、半時間後はいいですか?」
「マ~マ~」私はまたキッチンへ走っていきました。「無理です。」
このように何回も繰り返しても、警察さんは諦めず会話を続いて、本当に困っている時にはお母さんはやっと帰ってきました。
結局、警察さんはおかしいって思って、会話を続いて事件性を確認していたそうです。
「素晴らしいですよ!」って、警察さんは離れる前に褒めてくれたので、その時の嬉しさは今でも覚えていますね。
ちなみに、隣人のお婆さんやおばさんたちはみんな「この家の留守番は子供」ということを知っているので、怪しい人が出ると、すぐに電話をかけてきて「絶対にドアを開けてはだめですよ」って事前に教えてくれます。
いつからかわかりませんが、台湾はだんだんSF映画レベルの監視システム?のような監視カメラ社会になったことに伴って、治安がようやく安定してきました。
その時代の台湾を忘れましたから、今振り返るとちょっと不思議だと思います。
そして、その時代を経験した私は、それを忘れてしまって、あたたかい思い出ばかり覚えているって、周りの大人たちが必死に努力したおかげですね。