※ネタバレあり。

 

【序文】

例えば「虹」。

虹は日本において一般には「七色」とされるが、虹を何色と定義するかは文化により異なる。

人の「思想」もそうだ。一人一人異なる人生があるが故、考え方、「思想」は皆違う。

しかし、一人一人が異なる「思想」をベースに行動されれば世界が回らない。社会運営、効率化の観点ゆえに「ライトサイド」「ダークサイド」あるいは「反乱軍」「帝国軍」といったように、便宜上、人はなし崩し的にどちらかの属性に割り振られていく。

それに異を唱えるのが本作のカイロ・レンだ。「反乱軍の英雄の息子」という出自から期待の重圧に抑圧された彼は、ダークサイドに転身するが本作の中盤、ダークサイドの指導者スノークを打倒する。しかし彼の真の目的はダークサイドの指導者の座を簒奪することではなかった。

彼はスノークを打ち取った直後、レイに手を差し伸べ「共に銀河に新たな秩序をもたらす」提案をする。

「上の世代」が勝手に作った基準で次代を担うべき若者たちが「ライトサイド」か「ダークサイド」かどちらかの属性に振り分けられ、本来千差万別であるべき「個人の思想」は定められた型にはめられていく。その世代間の宿命を覆すこと、それがカイロ・レンの思惑であり、そのための手段は「反乱軍」「帝国軍」を問わず「古きもの全て」を破壊すること。

人の心は、もっと自由であって良い。

カイロ・レンの思想に理解を示しつつも、あまりに急進的な方法論にレイは異を唱える。しかしカイロ・レンは考えを曲げない。「上の世代」に押し付けられた、「白か黒か」の二元論的世界観に終止符を打つことが彼の悲願だからだ。

それは、カイロ・レン自身が「反乱軍の英雄の息子」と「暗黒面の継承者」という相反するアイデンティティに引き裂かれてきたが故の考えであろう。

クライマックス、カイロ・レンを結果として追い詰めてしまったことに責任を感じるルークは彼の前に立ちはだかる。

カイロ・レンは憎しみのままにルークに刃を向けるが、それはルークの罠だった。現れたルークはフォースにより作られた幻覚であった。幻覚に注意を奪われたカイロ・レンは反乱軍に逃走されてしまう。

ルークへの憎しみが故に「倒すか」「倒されるか」の二元論的思考に囚われ、ルークが幻覚である可能性を見落としたことが、カイロ・レンの失敗だ。二元論的思考の打破を悲願としていたことを踏まえれば極めて皮肉な展開である。

そしてラスト、囚われの少年が「ルークの伝説」に感化され「自由」を夢見てホウキを掲げる、「ライトセーバー」に見立てるかのように。

この描写は「上の世代」から「若者世代」への継承についての表現だ。「上の世代」が手前勝手に造った「分類」で若者を「枠にはめる」継承は反発を招く。一方でクライマックスのルークのように命をとして戦う「生き様」を「背中で語る」ことは、「若者世代」の「自発的な思考」を促し、可能性を拓くことになる。

「若者世代」の葛藤を丹念に拾い上げつつ、「上の世代」が継承に当たり「若者世代」とどう向き合うかという点を掘り下げることが本作のドラマの本質なのだ。

 

【英雄の「その後」】

 

本作は英雄のその後を描く物語だ。偉業を成したとて、そこで人生が終わるわけではない。帝国の打倒を成したルークの人生はその後も続いていた。弟子であるカイロ・レンの暗黒の未来を幻視しつつも、情ゆえに倒し切ることもできずカイロ・レンにライトサイドへの根強い不信感を与えるのみになってしまった過去。かつての成功とその後の過ちのギャップに耐えきれず隠遁生活を送るに至る、どこまでも不完全な人間らしい変遷。ルークに英雄としての活躍を期待した人々からの反発も分かる。

 

旧作完結からの長きにわたる期間は、ファンの中でそれぞれのルーク像を醸成するには十分な期間。それらを一つに統合する作品を作ることは事実上不可能。賛否はいわば必然的で、本作は「分の悪い賭け」であったといえる。しかし「無意味な賭け」だったとは思わない。

 

上述したようなルークのドラマは「英雄のその後」の「挫折と再起」を描くものとして見応えがある。現実で英雄となれる人は限られるとはいえ、全盛期とその後のギャップの葛藤は普遍的なもので感情移入させられる。

 

理想から挫折した後の変遷がルークとその父のアナキンと対照的である点も興味深い。アナキンが激しい憎悪に囚われたのとは異なり、ルークは責任感を抱え込むが故、隠遁生活を送ることとなった。上の世代からの継承ではなく変化を描写しようという本作の作風はこのような点にも現れる。

 

【若者のドラマ】

 

フィンやポーの行動が次々と裏目に出る展開も、フラストレーションが溜まるものであることは分かるが、混迷の時期にあって若者が自分なりの選択に全力を尽くすのは現代的な熱量を感じ、それらの至らなさをフォローする上の世代の覚悟も胸を打つ。

 

若い世代を映画で描写するというのは、ただ若いキャストを雇うのではなく、立場の弱さや経験不足から来る葛藤まで作劇に織り込むことだという制作サイドの気概を感じる。映画としては本筋の妨げとなり爽快感には欠けるが。

 

スターウォーズはエンタメの王道であり、本作はその定石を覆す。極めて実験的な本作はそれ故にエンタメとしてのバランスを欠く。

 

「インフィニティ・ウォー」「スーパーマリオ・ギャラクシー・ムービー」等、近年でもプロットに多大な影響を受けた作品が数多くある「スターウォーズ旧三部作」はいわば「楽しい映画の黄金比」。そのプロットの定石を覆す「最後のジェダイ」は必然的に楽しさに欠ける作品となってしまう。

 

しかし、定石を覆すことで可能となったグレーゾーンの人間ドラマの繊細な描写は重厚。興味深い作品であることは間違いない。

 

印象的な場面の一つは冒頭の艦隊の爆撃の成功でレイアが安堵の表情を僅かに見せる場面。多大な犠牲を払ったため、司令官として安易に喜ぶこともしない。一方で機械の如く冷徹な判断に終止するでもない。複雑な立場ゆえのグレーゾーンの葛藤が表現される。

 

よく指摘されるカジノ=カント・バイトのシーンがテンポを圧迫する点も、善悪でなく金銭的基準で運営される世界を導入することでグレーゾーンを描く本作の立ち位置を示し「分の悪い賭け」に挑む制作陣のスタンスを示す意味合いと解釈できる。

 

【カイロ・レンとレイ】

 

そんなグレーゾーンの世界でルークのドラマに並び輝くのはレイとカイロ・レンのドラマ。

 

自ら上の世代の威光に背いたカイロ・レン。アイデンティティの探求の末「何者でもない」自己像に戸惑うレイ。異なる立場であれど奇妙な共通項に至る二者。上の世代をなぞるでもなく、それぞれの決断で未来を描こうとする二者の哀しくも美しいすれ違い。

 

独自の背景を持つカイロ・レンとレイは理解者を中々得られない。対立し衝突出来る両者こそが最大の理解者となる数奇な繋がり。しかし、唯一の理解者だからこそ互いに嘘やごまかしができず、思想の違いから袂を分かつ他ない悲しみ。

 

上の世代へ反発心を抱くカイロ・レンは歴史への反抗を志向し、自らの虚無感を、上の世代により救われたレイは歴史の尊重を模索する。

 

ダークサイドとライトサイドという立場の違いを強調する設定が展開されるスターウォーズの世界だからこそ、このような立場を超える因縁の壮大な描写が可能となる。シリーズの定石を覆す展開が数多い本作だが、カイロ・レンとレイの関係性はスターウォーズの世界を正当に活用した描写と言えるだろう。

 

若きカイロ・レンとレイは光か闇かの二元論的世界観に惑う。一方で年長者たるルークは多彩な経験を積むがゆえ、灰色の内面世界を抱え込む。若者と年長者、それぞれのドラマのコントラストが広い宇宙に鮮やかに映える。

 

心情を反映する画作りも見事だ。カイロ・レンの憎悪を反映するかのような赤、レイの虚無感を想起させる白。本作が基調とする二色が、戦いが激しさを増すごとに混ざり合い、混沌の様相を呈する。


賛否はあれど新たな可能性の開拓へ取り組んだ、本作の制作陣の「賭け」には賛辞を送りたい。

 

【賛否の理由】

 

個人的に本作を評価はするものの、反発がある理由も分かる。本作はこれまでのシリーズで積み上げてきたスターウォーズの王道を覆すもの。試みとして革新性はあるものの代償の多い方法論だ。

 

近しい例としてアメコミヒーロー映画の定石を覆した『ザ・ボーイズ』という連続ドラマがある。英雄的存在と実際に対面した際に生じるギャップを扱う点で共通性のある本作と『ザ・ボーイズ』だが、あちらは元ネタと思われるマーベルやDCとは繋がりのない体制で制作され、世界観も異なる。故に元ネタに影響を与えることもなかった。

 

『最後のジェダイ』はスターウォーズのカウンター的作品であるにも関わらず、スターウォーズの本流でカウンターを実行したことが大きな賛否を呼ぶ原因となったのだと思う。試みとして新鮮でも、あまりにも極端な舵取りであったことは否めない。本流と距離を置いた体制で、本作の試みが違った形で成されていれば、また評価も異なっていたと思う。