※ネタバレあり。
久しぶりに『マイティ・ソー/バトルロイヤル』(マイティ・ソー/ラグナロク)を見た。
ソーが、あまりに魅力的だ。
MCUは多数のヒーローや作品間の繋がりを如何にして交通整理するかという命題を宿命的に背負うが、本作は特異だ。ソーの完結編、続く『インフィニティ・ウォー』への布石を敷くという難しい立ち位置の作品ながら、見事にソー中心の冒険活劇として仕上がっている。
本作にもハルク、ロキ、ヴァルキリー、ストレンジと、様々なキャラクターが入り乱れるが、ソーの放つ中心的な「圧倒的存在感」は揺るがない。序盤でムジョルニアを失い、父を失い、全てを失い捕らえられ、剣闘士とされても、彼の歩みは止まらない。新天地、惑星サカールにて反乱を扇動し、仲間を率い、強敵ヘラから故郷アスガルドを救う旅路へ。
絶望的な状況を覆すため、今できることのため全力で「行動」する。喪失感に苛まれそうになれば、「軽口」で覆す。「行動」と「軽口」の両輪で主役としてソーがグイグイと物語をけん引する描写は実に痛快だ。喪失の悲しみを背負いつつも決して歩みを止めない「強さ」。逃亡劇としての『ウィンター・ソルジャー』、群像劇的な『シビル・ウォー』等、傑作の多いMCUだが、本作に宿る「緊張感を主役の存在感で覆す」作劇は、MCUにおいて唯一無二だ。
ユーモアと行動力で情勢を覆すソーな活躍はロジャー・ムーアのジェームズ・ボンドと黄金期のシュワルツェネッガーを足したような存在感だ。巧妙な設定に唸らされることの多いMCUにおいて、ここまで「主役の存在感」を引き立てる作劇は珍しく、良い意味で予想外だった。ソーの力強い活躍に、問答無用で勇気付けられる。
(余談だが筆者的にはMCUキャラを007に当てはめると、ショーン・コネリー=トニー・スターク、ロジャー・ムーア=ソー、ダニエル・クレイグ=スティーブ・ロジャースあたりのイメージである。ユーモアとシリアスのバランス的に。)
コメディ映画としても特異だ。ソーによるロキやハルクとの個気味良い駆け引きは見どころだが、そのどれもがいわゆる「内輪ネタ」だ。もちろん良い意味で。MCUを追っていなければ難しい部分はあるものの、MCUの積み重ねを「シリアスのための伏線」ではなく、「コメディのための前振り」として活用するのは新機軸だ。ハルクにぶちのめされるソーに、ロキが快哉を叫ぶ。視覚的にも面白いが第一作の『アベンジャーズ』から複数作品を超えて積もったロキの不満を感じるとより面白い。そのようなMCU由来のネタが散りばめられる。
本作のソーとの関わりで様々なキャラの新鮮な一面が掘り下げられる。ロキはソーから心理傾向を看破され、良い様に乗せられるようになり、ハルクはソーと肩を並べて暴れまわる。ロキには可愛げが、ハルクにはやんちゃさが強調されるようになった。誰と組んでも相性抜群で場を盛り上げるソーは、まるでどんなゲストでも対応しきる名司会者のようで、人を率いるカリスマ性を感じさせる。
冒頭でムジョルニアを失い、全てを失い惑星サカールへ漂着したソーだがアスガルドに帰還するころには成り行きで大勢を仲間としている。一方のヘラは孤立し唯一の仲間のスカージの裏切りを受ける。二者の対比を通して良い意味で「他者を巻き込める」ソーの強みが描かれている。肩書や設定ではなく、キャラクター性から「王の素質」を滲ませる人物造形は見事だ。
アクション映画としても独自性がある。スーパーマンほどの機動力がある訳ではないものの、ダイナミックな躍動とパワーでムジョルニア、双剣、巨大ハンマー、オーディンの槍、雷撃といった多彩な武器を状況に応じて使い分けるファイティングスタイルに引き込まれる。
アメコミのアクションがキャプテン・アメリカの盾、スパイダーマンの糸など「一つの武器の応用の幅を広げる」形で進化するものが多い中で、本作のソーのその時々で「使える武器を最大限活用する、場当たり的な戦闘スタイル」はにぎやかでバタバタしていて、とにかく楽しい。また、この戦闘スタイルを前に一歩も引かないヘラの描写があるからこそ、手練手管を尽くしても及ばないヘラの「悪役としての格」が逆説的に示される点も巧妙だ。
しかし、本作、3部作の(当時としての)完結編として見ると、なかなかに特異だ。オーディンの最期、ムジョルニアの破壊、アスガルドの壊滅等々、クライマックス的展開は描かれるものの全二作とは大幅な作風の展開が行われ、ラストも『インフィニティ・ウォー』への強烈な引きで終わる。
アイアンマンシリーズの完結編『アイアンマン3』は本作とは好対照だ。あちらはトニー個人の葛藤に焦点を絞り、クリフハンガーは控えめに単独作としての幕引きを図った。作品としては堅実で納得感があったものの、続く『エイジ・オブ・ウルトロン』との繋がりには歪な面があった。スーツを棄てる選択をしたトニーが、直後に大量のアイアンレギオンを作る心情の流れに違和感があったからだ。
単独作としての幕引きを優先するとユニバース間の繋がりが歪になる。それがMCUの完結作の課題と認識されたのかも知れない。だからこそ本作『マイティ・ソー/バトルロイヤル』、及び『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』といった第三作は、主役の完結作としての側面を守りつつも、大幅な作風の転換とユニバースの繋がりを意識するようになったのかも知れない。(後に続く三作目『アントマン&ワスプ/クアントマニア』、『デッドプール&ウルヴァリン』にも似た傾向が見られる。)
賛否はあるだろうが、私としてはマーベルのこの傾向を歓迎したい。ヒーロー映画の完結編というのは、気を付けなければ似た味わいになりやすいからだ。因縁との決着、場合により自己犠牲、後に続くヒーローの後継者、といった具合に。
ユニバース展開に作風が改変されることへの抵抗もあるだろうが、そのような背景が故に、作風が良い意味で転換する事例もある。本作『マイティ・ソー/バトルロイヤル』はその好例の一つと言えるだろう。
あまりにも急すぎる作風の転換。ジェーンの不在。前二作のソーの仲間の扱いがひどい等、賛否もあるだろうがつまらない作品では決してない。
特に直後に続く『インフィニティ・ウォー』での凄惨な展開に賛否はあるだろう、しかしそこにも「ユニバース展開ならではの残酷さ」という新機軸はあるし、『バトルロイヤル』での経験と『インフィニティ・ウォー』での喪失を踏まえた成長は『エンドゲーム』で確かに描かれる。
本作は「布石」であっても「捨て石」ではない。新たなソーを描き、未来へ繋ぐ「原石」なのだ。







