※ネタバレあり。

 

久しぶりに「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」を見た。

 

再見して感じたのは、この映画は「孤独」というテーマで一貫している点だ。

 

単独での宇宙空間での孤立を描く『ゼロ・グラビティ』。海洋の漂流を描く『オール・イズ・ロスト』(本作にも出演のロバート・レッドフォード主演)。孤独を描く名作は多いが、本作は「集団内での孤独」に焦点を当てる。

 

本作ではスティーブ・ロジャース=キャプテン・アメリカが70年の眠りから目覚め、自らの生きた時代を失い、現代に適合しようと悪戦苦闘する描写が繰り返し強調される。

 

ナターシャが気遣いで出会いの場を提供しようとしても、かつての仲間の喪失感から申し出を断る。フューリーを前にすれば、正義にまつわる方針の時代性のギャップから決裂する。余暇は博物館で自らの生きた時代を振り返り、ペギーの元を訪れ、過去を懐かしむ。

 

今のスティーブにはシールドでの仕事も、仲間もいるが、彼の孤独は拭えない。組織という集団に属するからこそ、その中での「時代に馴染めない孤独」が色濃く影を落とす。

 

MCUというヒーローが多数存在する世界ではスティーブと肩を並べて協力する存在は多いが、だからこそ、彼の誰とも時代を共有できない孤独が浮き彫りとなる。にぎやかなMCUの世界観を、孤独の描写のために応用するのが本作の特色だ。

 

興味深いのは、そんなスティーブと対立するヒドラが、人間の「孤独感」を利用する点だ。

 

ヒドラの目論見である「インサイト計画」はネット上で膨大な個人情報をかき集め、ヒドラの敵となる可能性のあるものを予測し、未然に始末する計画。

 

スティーブがヒドラ工作員のシットウェルへ「どのように情報を集める」と詰め寄ると、シットウェルはこう切り返す。「集める必要などない、情報は人々が自発的に開示してくれる」。

 

現代においてはSNSで人々は「自らの情報を進んで開示する」。高度に情報化された現代では人の繋がりが希薄になる。だからこそネット上で人々は繋がろうとする。そのための「自己開示」。人が宿命的に背負い、現代において顕著となる「孤独感」。そこにこそ、ヒドラは付け込む。ネット上の情報を集約し、ターゲティングシステムへ応用する。

 

そして、ヒドラは「インサイト計画」のみならず仲間を集めるにあたり、「孤独感」を利用する。ヒドラのような全体主義的価値観に身をゆだねることは、実は、孤独から逃れる一番確実な方法だ。だからこそ、スティーブはそれに異を唱える。たとえ自分が孤独となるとしても「正しいと思う事」を決して譲らず、ヒドラへ抗う。

 

スティーブがフューリーに向けて、ヒドラのみならず、それにより腐敗したシールドの壊滅を宣言することは決定的な場面だ。例え腐敗していたとしても「シールドの破壊」は「ペギーの半生をかけた業績の否定」に他ならないからだ。しかし、スティーブはペギーの「業績」ではなく、「信念」を守ることを決意し、シールドへ反旗を翻す。ペギーもそうすると確信しているから、そしてそれが「正しいこと」と信じるからだ。

 

スティーブは孤独に屈さずに信念を示した、では我々はどうだろう。終盤、スティーブの演説に鼓舞され、ヒドラに反旗を翻すシールド職員の姿が象徴的に描かれる。誰でもスティーブのような信念を持てると暗示する希望のシーンだ。しかし、もしスティーブの演説が間に合わなかったら。職員はヒドラに屈していたかもしれない。

 

誰しもスティーブになり得るという希望。一方で、誰しもヒドラとなり得るという絶望。相反する二つのテーマを描く両義性こそこの作品の根幹だ。我々人間は誰しもグレーな存在だ、善にも悪にもなり得る。だからこそ本作において安易に敵と味方を断定する「インサイト計画」は否定され、洗脳され善悪の境界に立たされるバッキーの苦しみに最後までスティーブは寄り添い続ける。

 

ラストシーン、サムがスティーブに向け「いつ始める」と問いかけ、スティーブの返事を待たずにエンドクレジットに突入する。この演出は、サムから我々への問いかけなのだ。「孤独感」に屈することなく、我々一人一人が「正しいと思う事」のために「信念」を貫けるか。

 

「一人でも戦うが、僕一人ではないと信じる。」

 

スティーブの生き様は、今なお、色褪せることは無い。