黒船が浦賀沖に姿を現してから、江戸では異国の話を聞かない日はなくなった。
町人は船の大きさを語り、武士は大砲の数を語った。
見てきたという者が十人いれば、黒船の大きさも十通りある。
「城ほどもあったそうだ」
「いや、山のようだったらしい」
「煙で昼でも空が暗くなったそうだぞ」
人の口を渡るたび、黒船は大きくなった。
その夜。
薩摩藩上屋敷。
島津斉彬は寝所で、浦賀から届いた書付に目を通していた。
四隻。
そのうち二隻が蒸気船。
大砲を備えた異国船が、日本の海へ入ってきた。
斉彬は書付を置いた。
「万次郎……」
自然と、その名が口から出た。
あの男が語った海の向こう。
巨大な船。
蒸気の力。
見たこともない機械。
聞いた時には話だったものが、今は浦賀の海に浮かんでいる。
その時だった。
斉彬の目が障子へ向いた。
人の気配がする。
だが、足音は聞こえなかった。
「……何者だ」
障子の向こうから低い声が返ってきた。
「斉昭様の使いの者にございます」
斉彬の表情が変わった。
「水戸の?」
「御意」
「用件は」
「密書をお預かりしております」
障子がわずかに開き、一通の書状が差し入れられた。
斉彬はそれを取る。
封を切った。
文は短い。
黒船について話したいこと。
場所と刻限。
そして最後に記された二文字。
――景山。
斉彬はしばらく、その文字を見つめた。
「……なるほど」
書状を静かに折る。
「承知つかまつった、とお伝え願いたい」
「しかと」
それきりだった。
ほどなく、障子の向こうから気配が消えた。
斉彬はすぐには動かなかった。
やがて廊下から足音が近づいてくる。
「殿!」
家臣が襖を開けた。
「ただいま、この辺りに何者かの気配が――」
「何でもない」
「しかし」
「よい。下がれ」
家臣は怪訝そうな顔をしたが、頭を下げた。
「……はっ」
再び一人になる。
斉彬は袖へ入れた密書に触れた。
「水戸の烈公か」
この時に何を話そうというのか。
もう一度、浦賀からの書付へ目を落とした。
*
翌夜。
斉彬は供を最小限にして屋敷を出た。
指定された場所は、江戸の外れにある小さな屋敷だった。
門の前に人影はない。
裏手へ回ると、昨夜と同じ声がした。
「こちらへ」
宗助だった。
斉彬は何も聞かなかった。
細い路地を抜け、屋敷へ入る。
奥の座敷へ通された。
そこに一人の男が待っていた。
水戸徳川家前当主、徳川斉昭。
斉彬が入ると、斉昭は立ち上がった。
「夜分、このような場所まで御足労いただき、かたじけない」
斉彬も一礼した。
「景山と記されていては、無視するわけにも参りますまい」
「突然の呼び立て、御無礼いたした」
「いや。それより――」
斉彬は宗助が消えた襖を見る。
「ずいぶん変わった使いをお持ちですな」
斉昭がわずかに笑った。
「少々、足音を立てるのが苦手な男でしてな」
「我が屋敷の者が気づいた時には、もう姿がなかった」
「それは申し訳ない」
「謝っている顔には見えませぬが」
二人の間に、わずかな笑みが生まれた。
斉昭が座るよう促した。
二人が向かい合う。
茶が置かれた。
宗助はそれ以上座敷に残らず、襖を閉めた。
しばらく沈黙が続いた。
先に口を開いたのは斉昭だった。
「単刀直入に伺いたい」
「何なりと」
「此度の異国船、薩摩守殿はどう御覧になられた」
斉彬はすぐには答えなかった。
茶碗へ目を落とし、それから斉昭を見る。
「その前に一つ、お尋ねしてもよろしいか」
「もちろん」
「なぜ、私なのです」
斉昭の表情は変わらなかった。
「中浜万次郎」
斉彬の目がわずかに細くなる。
「……そこまで御存じでしたか」
「薩摩守殿は、黒船が来る前に外国を知っておられた」
「知ったというほどではありません。話を聞いただけです」
「その話を聞いたことが大きいのです」
斉昭は茶碗を置いた。
「江戸の多くの者は、黒船を見て初めて海の向こうを考え始めた。しかし薩摩守殿は違う」
斉彬は黙っている。
「万次郎から聞いた外国と、浦賀に浮かぶ外国。その二つが今、一つになったのではござらぬか」
斉彬はしばらく斉昭を見つめた。
やがて小さく息を吐く。
「まさに」
「では、改めて伺おう。黒船をどう御覧になった」
「恐ろしいと思いました」
斉昭の眉がわずかに動いた。
「意外ですかな」
「いや」
「恐ろしくないと言えば、あの船が消えるわけでもない」
「その通り」
「万次郎の話を聞いた時にも、驚きました。だが、どこか遠い国の話だった」
斉彬は続ける。
「ところが今は違う。あの船は日本の海にいる」
「ならば、打ち払いますか」
「それを決めるには、我々は相手を知らなさすぎる」
斉昭は何も言わなかった。
「船が何隻あるのか。どれほどの国力があるのか。何を求めて来たのか。どのような武器を持つのか。それも知らず、恐ろしいから斬るというわけにはいきますまい」
「では、異国の求めを受け入れる?」
「それも早い」
斉彬は即答した。
「知らぬ相手を恐れて追い払うのも、知らぬ相手を信じて門を開くのも、私には同じに思えます」
斉昭の口元がわずかに動いた。
「まず知るべきだと」
「はい」
「万次郎のように?」
「だから、あの男の話は貴重なのです」
斉彬は茶を一口飲んだ。
「異国の者が皆、鬼ではないことも万次郎は知っている。しかし、異国の国が弱いわけではないことも知っている」
「人を見ることと、国を見ることは違う」
「左様」
斉昭はゆっくり頷いた。
*
「もう一つ、お聞きしたい」
斉昭の声が少し低くなった。
「幕府だけで、この先の異国との問題に対処できるとお考えか」
斉彬の目が変わった。
「ずいぶん危ういことをお尋ねになる」
「ここには我ら二人しかおらぬ」
「それでも言葉は残ります」
「ならば、残してもよい言葉だけで話しましょう」
斉彬がわずかに笑った。
「水戸殿は慎重なのか大胆なのか、分かりませぬな」
「よく言われます」
斉彬は少し考えた。
「難しいでしょう」
「理由を伺いたい」
「海は浦賀だけではない」
斉昭は黙って聞く。
「薩摩にも海がある。長崎にも、土佐にもある。日本中が海に囲まれている。幕府が江戸だけを守れば済む話ではありますまい」
「ならば各藩がそれぞれ備える?」
「それだけでは、いずれ足並みが乱れる」
「幕府だけでも足りぬ。藩だけでも足りぬ」
「そういうことになります」
斉昭は目を閉じた。
しばらくして、静かに言った。
「では、薩摩守殿」
「はい」
「幕府を助けていただけるか」
斉彬は答えようとした。
だが斉昭が続けた。
「いや」
斉昭は斉彬を見る。
「言葉を違えました」
一拍置いた。
「この国を守るため、お力を貸していただけるか」
斉彬の表情が止まった。
「……幕府ではなく?」
「今は幕府が国政を預かっている。ならば幕府が働くのは当然でしょう」
「では、なぜそのような言い方を」
「異国船は、徳川の海へ来たのではない」
斉昭は静かに答えた。
「日本の海へ来たのです」
斉彬は何も言わなかった。
庭から虫の声が聞こえる。
「水戸殿」
「はい」
「それは、水戸徳川家のお言葉ですかな」
斉昭は少し考えた。
「今宵は、一人の日本人の言葉として聞いていただきたい」
再び沈黙が落ちた。
やがて斉彬が頭を下げた。
「承知いたした」
斉昭も頭を下げる。
「かたじけない」
*
帰り際、斉彬が足を止めた。
「一つだけ」
「何でしょう」
「私だけではありませんな」
斉昭は笑わなかった。
「何のことでしょう」
「万次郎の名を出された」
斉彬は振り返った。
「ならば、もう一人おられる」
「さすがですな」
「土佐ですか」
斉昭は答えず、一礼した。
それで十分だった。
斉彬もそれ以上は聞かなかった。
「では、今宵はこれにて」
「御足労、感謝いたす」
斉彬が去った。
しばらくして宗助が座敷へ入ってくる。
「いかがでした」
「よい男じゃ」
「それは何より」
「だが、わしと同じではない」
宗助が首を傾げる。
「それでは駄目なのですか」
「なぜじゃ」
「同じ考えの方が話は早いでしょう」
「同じ者ばかり集めてどうする」
斉昭は冷めた茶を飲んだ。
「違うものを見ている者がおるから、見落としたものに気づける」
「なるほど」
「次は土佐じゃ」
「山内容堂様ですね」
「うむ」
「同じように寝所へ?」
斉昭が宗助を見る。
「趣味になっておらぬか?」
「仕事です」
「ほどほどにせよ。大名屋敷へ忍び込むのを当たり前と思うな」
宗助は真顔で答えた。
「当たり前だと思ったことはございません」
「そうか」
「毎回、命懸けです」
斉昭は少し黙った。
「……すまんな」
「急に真面目にならないでください」
二人の間に、ほんの少しだけ笑いが落ちた。
斉昭はやがて表情を戻した。
「容堂殿が、万次郎の話をどう受け取ったか」
宗助が頷く。
「そして黒船を見て、今、何を考えておるのか」
斉昭は立ち上がった。
「それを聞こう」
浦賀に現れた四隻の船は、まだ日本を去ってはいない。
だが斉昭が見ていたのは船だけではなかった。
黒船を見る者。
その向こう側を考える者。
そして、知った後に何をする者なのか。
斉昭は、それを一人ずつ確かめようとしていた。
▶「裏天正記」幕末編第二部第25話(77)「海の向こうを知るもの」をカクヨムで読む
■ 第25話(77)「海の向こうを知るもの」考察
第77話では、徳川斉昭と島津斉彬が密かに会い、浦賀に現れた黒船について言葉を交わしました。
この密談自体は『裏天正記』の創作ですが、今回重要なのは二人が「黒船を見て初めて外国の存在に気づいた人物ではない」という点です。
特に島津斉彬は、西洋の技術や軍事力に強い関心を持っていました。
そして『裏天正記』で、その斉彬と黒船をつなぐ人物として描いているのが、中浜万次郎です。
万次郎は漂流後、アメリカで生活し、日本へ帰国しました。
彼が持ち帰った情報の価値は、単に「アメリカという国がある」と伝えたことだけではありません。
実際に海を渡った日本人が、
「どのような船があるのか」
「どのような技術が使われているのか」
「外国人はどのように暮らしているのか」
を自分の経験として語ることができた。
これは、まだ外国へ自由に行くことのできなかった当時の日本では、非常に大きな意味を持ちます。
そして1853年。
ペリー艦隊が浦賀へ現れます。
それまで「話」として存在していた外国が、蒸気船と大砲を備えた現実の存在として、日本の目の前へ現れたのです。
今回、斉彬が、
「万次郎の話は本当だった」
という感覚を持つのは、そのためです。
ここで斉昭が尋ねたのは、
「黒船が怖いか」
だけではありません。
恐怖を感じた後に、どう考えるのか。
すぐに戦おうとするのか。
逆に外国の要求をそのまま受け入れるのか。
それとも、まず相手を知ろうとするのか。
斉昭が見ようとしているのは、そこです。
今回の斉彬は、
「知らぬ相手を恐れて追い払うのも、知らぬ相手を信じて門を開くのも同じ」
という考えを示しました。
『裏天正記』における斉彬は、外国を無条件に信用しているわけでも、外国だから排除しようとしているわけでもありません。
まず知る。
そのうえで必要なものを判断する。
これは、これまで勝麟太郎が海や蒸気船を実際に見ながら学んできた姿勢とも重なっています。
そして今回、もう一つ重要なのが、
「幕府を助けるのか」ではなく「この国を守るのか」
という斉昭の問いです。
この時点で斉昭が幕府を否定しているわけではありません。
幕府が国政を担っている以上、幕府が外国への対応を行うのは当然です。
しかし黒船が現れた海は「徳川家だけの海」ではありません。
薩摩にも海がある。
土佐にも海がある。
長崎にも海がある。
日本全体が海に囲まれています。
外国との問題を、江戸だけの問題として考えることができなくなり始めているのです。
だから斉昭は、斉彬が「幕府をどう見るか」だけではなく、
「日本という国をどう見るか」
を確かめようとしました。
そして斉彬の次に斉昭が目を向けたのが土佐です。
そこにもまた、中浜万次郎という存在があります。
同じ万次郎の話を知り、同じ黒船を見ても、人によって受け止め方は違う。
斉昭は同じ考えを持つ人間だけを集めようとしているのではありません。
違う立場から同じ危機を見る人間を知ろうとしている。
第77話最後の、
「違うものを見ている者がおるから、見落としたものに気づける」
という言葉は、その考えを表しています。
黒船をどうするのか。
外国とどう向き合うのか。
まだ答えは出ていません。
だから斉昭は、答えを急いで決めるのではなく、まず人を見る。
次に斉昭が会おうとしているのは、土佐の山内容堂です。
