江戸の朝は、土佐よりも忙しい。
澪は診療所の戸を開けながら、そう思った。
表にはすでに二人の患者が待っている。風邪をひいた子どもと、その母親だった。
「先生、おはようございます」
「おはようございます」
澪は頭を下げた。
医者になって何年も経つ。診療所も軌道に乗り、近所の者たちも気軽に訪ねてくるようになっていた。
海音と祝言を挙げたのも、もうずいぶん前のことのように感じる。
もっとも、その海音は今も海の上だった。
川口屋の船を預かる身になってからは、月の半分以上を船上で過ごしている。
夫婦になったと言っても、顔を合わせる時間はそう多くない。
それでも、澪は不満を口にしたことはなかった。
海音が海へ出る理由を知っているからだ。
いや、正確には、海だけが理由ではない。
澪は診療所の中を片付けながら、小さく息を吐いた。
表向きには終わったはずの仕事。
しかし、本当は終わっていない。
そのことを知る者は少ない。
昼を少し過ぎたころだった。
患者が途切れたのを見計らったように、戸が叩かれた。
「どうぞ」
澪が声をかける。
戸が開いた。
入ってきた人物を見て、澪は目を見開いた。
「……楓?」
戸口に立っていた女が微笑む。
「澪さま」
楓だった。
最後に会ったのがいつだったか、すぐには思い出せない。
互いに歳を重ねた。
だが、その目だけは昔と変わらなかった。
「こうしてお会いするのは何年ぶりでしょう」
「本当に久しぶりですね」
澪は立ち上がった。
「座ってください」
「ありがとうございます」
楓は腰を下ろした。
しばらくは昔話だった。
互いの近況。
江戸のこと。
長崎のこと。
川口屋のこと。
そして海音のこと。
「海音さまは?」
「また船です」
澪は苦笑した。
「そうでしょうね」
楓も笑う。
「昔から、じっとしている方ではありませんでしたから」
懐かしい空気が流れた。
だが、それは長くは続かなかった。
楓の表情が少し変わる。
澪も、それを見ていた。
ここからが本題だ。
「何かありましたか」
澪が尋ねる。
楓は小さくうなずいた。
「あります」
その一言で、部屋の空気が変わった。
「土佐で妙な熱が生まれています」
澪は眉をひそめた。
「熱?」
「はい」
楓は静かに言った。
「人が病で熱を出すように、国も時に熱を出します」
澪は黙って聞いていた。
「異国から帰ってきた男がいます」
その言葉に、澪はふと兄の顔を思い出した。
長崎の出島で商いをしている蓮之助。
以前きた手紙に、それらしい話があった。
「まさか」
「万次郎という男です」
澪はゆっくりうなずいた。
「兄から聞いたことがあります」
「蓮之助さまも注目していましたか」
「ええ。漂流して異国へ渡り、生きて戻ってきた男がいると」
楓は満足そうにうなずいた。
「その男です」
そして少し間を置いた。
「マヌエル殿が言っていたことが、土佐で起こり始めています」
澪の表情が引き締まる。
マヌエル。
ヨーロッパから現れた男。
別れたあとも、その言葉は何度も思い出していた。
外から来る脅威。
そして内側から生まれる亀裂。
「万次郎が原因ですか」
「いいえ」
楓は即座に否定した。
「男そのものではありません」
「では」
「男の言葉です」
澪は腕を組んだ。
なるほど、と心の中で思う。
医者として経験があった。
病は、必ずしも悪意から始まるわけではない。
善意でも広がる。
無知でも広がる。
人を助けようとした結果、悪化することさえある。
言葉も同じなのだろう。
「土佐の若者たちが反応しているのですか」
「はい」
楓はうなずく。
「上士と下士」
それだけで十分だった。
澪にも理解できる。
土佐特有の問題だ。
「万次郎は何を言ったのです」
「見たことを話しただけです」
楓は苦笑した。
「だから厄介なのです」
その言葉に、澪も同じ表情になった。
もし万次郎が扇動者なら簡単だ。
危険人物として扱えばよい。
だが実際は違う。
異国を見てきた男が、自分の経験を語っているだけ。
それを聞いた者たちが、それぞれの思いを重ねている。
「厄介ですね」
「非常に」
しばらく沈黙が流れた。
やがて澪が尋ねた。
「海音さんは知っているのですか」
「すでに動いています」
澪は顔を上げた。
「やはり」
「土佐へ人を送っています」
予想通りだった。
海音ならそうする。
何もせず見ている男ではない。
「誰です」
「覚えておいでですか」
楓は少し笑った。
「蒸気船の研究をしていた男です」
澪は考えた。
そして思い出した。
「ああ……」
「本ばかり読んでいた」
「いましたね」
「今も本ばかり読んでいます」
楓は肩をすくめた。
「ですが、今回は役に立つでしょう」
「万次郎に接触するのですか」
「その予定です」
澪は少し考え込んだ。
異国を見てきた男。
本でしか知らない男。
たしかに相性は悪くない。
しかし。
「警戒されませんか」
楓は笑った。
「されるでしょう」
「でしょうね」
二人とも同じ答えにたどり着いた。
万次郎は今、多くの目に見られている。
藩。
城下。
若者たち。
そして草。
その中で突然、
蒸気船を教えてくれ。
などと言われれば怪しむ。
「だから直接は行きません」
楓が言う。
「まずは別の者が動きます」
「別の者?」
「土佐の絵師です」
澪は首をかしげた。
楓はそれ以上説明しなかった。
だが、その顔を見る限り、すでに段取りは決まっているらしい。
さすが海音だ。
相変わらず周到である。
「詳しい話は」
楓が立ち上がる。
「彼の報告待ちです」
「そうですか」
「うまくいけば、万次郎という男が何を持ち帰ったのか、もう少し見えてくるでしょう」
澪はうなずいた。
だが同時に、妙な不安も感じていた。
異国の知識。
蒸気船。
身分制度。
若者たち。
どれもが別々の問題のようでいて、どこかでつながっている。
その結び目にいるのが万次郎なのだ。
楓が帰ったあとも、澪はしばらく考え込んでいた。
窓の外では、江戸の町が動いている。
行商人の声。
荷車の音。
子どもたちの笑い声。
平和に見える。
だが、その下で何かが動いている。
そんな予感がした。
同じころ。
土佐。
万次郎は浜辺を歩いていた。
昨日はほとんど眠れなかった。
茶屋で聞いた噂。
慎吾の言葉。
そして、自分の口から出た言葉が別のものになっていく感覚。
海は静かだった。
それでも胸の中は静かではない。
「万次郎殿でしょうか」
背後から声がした。
万次郎が振り向く。
見知らぬ男だった。
年は五十前後だろうか。
着物は質素だが、どこか品がある。
男は人懐こい笑みを浮かべていた。
「そうですが」
「おお、やはり」
男は嬉しそうに言った。
「河田小龍と申します」
万次郎は聞いたことのない名だった。
「絵師をしております」
「絵師?」
「はい」
小龍は頭を下げた。
そして次の瞬間。
まるで世間話でも始めるように言った。
「万次郎殿」
「なんです」
「メリケンのおなごは、美しいですかな」
万次郎は、しばらく言葉を失った。
海風だけが二人の間を吹き抜けていった。
▶「裏天正記」幕末編第二部第4話(56)「土佐の熱」をカクヨムで読む
■ 第4話(56)「土佐の熱」考察
第56話では、物語の視点が土佐から江戸へ移り、万次郎の帰郷によって生まれた波紋が、すでに草の情報網に捉えられていることを描きました。
前回まで、万次郎は自分の言葉が城下で変質していく恐怖に直面していました。しかし今回、江戸にいる澪と楓の会話を通して、その問題が万次郎個人や土佐一藩だけのものではないことが明らかになります。
万次郎本人には、土佐の身分制度を壊そうという意図はありません。異国で見聞きしたことを語っただけです。ところが、その言葉が上士と下士の間に蓄積していた不満へ触れたことで、別の意味を持ち始めています。
楓がこれを「土佐の熱」と表現したのは、澪が医者であることとも重なります。
病の熱は、それ自体が病の正体とは限りません。体内で何かが起きていることを知らせる兆候です。同じように、土佐で広がっている熱も、万次郎が生み出したものではありません。もともと土佐の内部にあった身分差や不満が、万次郎の言葉によって表面化し始めたと考えられます。
今回、マヌエルの言葉を改めて出したことで、第1部と第2部もつながりました。
マヌエルが警戒していたのは、外国勢力による直接的な侵略だけではありません。外国の知識や思想が日本国内の亀裂に入り込み、内側から争いを生み出す危険でした。土佐で起き始めたことは、まさにその兆候といえます。
また、澪と楓の再会は、草の組織が再起動した後も、それぞれが表の生活を続けていることを示しています。
澪は江戸の医者。
海音は川口屋の船長。
楓もまた、表の顔を持ちながら情報を運んでいます。
草は権力の中枢を握る組織ではありません。大工、商人、船乗り、医者、絵師などとして各地に潜伏し、現場から情報を集めてきました。今回登場した河田小龍も、表向きは土佐の絵師ですが、『裏天正記』では草の一員として万次郎へ接触します。
小龍の最初の問いが、
「メリケンのおなごは、美しいですかな」
である点も重要です。
万次郎は、役人の聞き取りや城下の噂を経験し、異国について話すこと自体を恐れ始めています。そのため、蒸気船や政治について正面から質問すれば、強く警戒するはずです。
小龍は美人画という一見無害な話題から入り、万次郎の緊張を崩そうとします。異国の女性の顔や服装を聞けば、やがて町並みや暮らしの話へ移れる。さらに、その背景に港を描こうとすれば、船や蒸気船についても自然に尋ねられます。
つまり、美人画は単なる冗談ではなく、万次郎の記憶へ入るための入口です。
今回の終わりでは、小龍が草であることを明確には示していません。読者には、人懐こい変わり者の絵師にも見えます。しかし、楓の言う「土佐へ送った者」と場面を連続させることで、小龍が草の一員であることを間接的に示しています。
第56話は、土佐で生まれた小さな火種が江戸まで認識され、草が再び動き始める転換回です。同時に、重い状況の中へ小龍の軽妙な人物像を入れ、次回を読みやすくする役割も持っています。
