ジョン万次郎の言葉はなぜ土佐で広がったのか | ゆうがのブログ

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世の中辛いよね。なんで辛いのかその理由がわかれは少しは、楽になるかも。そんなブログです。
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 城下の道は、村の道よりも歩きにくかった。

 道そのものが悪いわけではない。
 むしろ、人の往来は多く、店も並び、荷を運ぶ者たちの声も絶えない。

 けれど、万次郎には、その道が妙に狭く感じられた。

 村では、誰もが万次郎を知っていた。
 知っていたというより、昔の万次郎を覚えていた。

 泣き虫だった子。
 海へ出るのが好きだった子。
 嵐に消え、死んだと思われていた子。

 だから、村の者たちの目には、驚きと喜びがあった。

 しかし城下では違う。

 ここでの万次郎は、懐かしい息子ではない。
 異国から戻った者である。

 メリケン帰り。
 英語を話す漁師。
 星で海を測る男。
 蒸気船を見た男。

 昨日までの自分に、そんな名札が次々と貼られていくようだった。

 万次郎は、少し早足になった。

「万次郎」

 背後から声をかけられた。

 振り向くと、幼なじみの栄吉がいた。
 昨日の酒席でも騒いでいた男である。日に焼けた顔で笑い、手には小さな包みを持っていた。

「おまん、どこへ行きよった」

「少し歩いていただけじゃ」

「歩くなら声をかけろ。城下は村と違うぞ」

「子どもではない」

「十一年もおらんかった者は、半分子どもみたいなもんじゃ」

 栄吉はそう言って笑った。

 万次郎も少し笑った。
 その笑いで、胸の中に固まっていたものが少しだけ緩んだ。

「昨日は、よう飲んだのう」

「飲まされた」

「戻ってきた者の務めじゃ」

「そんな務めがあるか」

 二人は並んで歩いた。

 栄吉は、道の角にある茶屋を指さした。

「少し休んでいけ。おまんの話を聞きたがっちゅう者もおる」

「またか」

 万次郎は苦笑した。

「わしの話など、もう昨日で十分じゃろう」

「十分なものか。メリケンの話など、何度聞いても足りん」

 栄吉は軽い調子で言った。
 だが、万次郎はすぐには返事をしなかった。

 昨日なら、同じ言葉に笑って答えただろう。
 しかし今は、藩の役人に言われた一言が胸に残っている。

 悪意がなくとも、言葉は人を動かす。

 その言葉の意味が、少しずつ形を持ち始めていた。

 茶屋の前を通りかかったとき、中から若い男たちの声が聞こえた。

「だからよ、メリケンでは、下の者でも上に立てるそうじゃ」

 万次郎は足を止めた。

 栄吉も気づき、横目で中を見た。

 茶屋の奥に、三人の若者がいた。
 身なりからして、下士の家の者だろう。ひとりは昨日の酒席にいた慎吾だった。

 慎吾は黙っている。
 残りの二人が、声を低くしながらも熱を帯びて話していた。

「万次郎が言うたそうじゃ。メリケンでは、家柄など役に立たんと」

「そこまで言うたがか」

「言うたらしい。漁師の子でも学べば船を任される。上に立てる。なら土佐も、同じようにならねばおかしい」

 万次郎は、思わず一歩踏み出しかけた。

 違う。

 そう言おうとした。

 だが、声が出なかった。

 自分は、そこまで言っていない。
 家柄など役に立たないとは言っていない。
 土佐も同じようになれなどとは、一言も言っていない。

 けれど、すべてが嘘かと問われれば、そうとも言い切れなかった。

 漁師の子である自分が学んだのは事実だった。
 読み書きを教わり、算術を学び、航海の術を知った。
 働きを認められ、船の上で役目を与えられた。

 それは、土佐では考えにくいことだった。

 だから、若者たちの言葉を完全には否定できない。

 だが、彼らの口から出る言葉は、万次郎の言葉ではなかった。

 万次郎の見たものが、別の形に変わっている。

「行こう」

 栄吉が小さく言った。

「だが」

「今、入らんほうがえい」

 栄吉の声は、いつになく低かった。

 万次郎は、茶屋の奥をもう一度見た。
 慎吾はうつむいていた。
 他の若者たちの声だけが、熱を帯びていた。

「上士どもは、何を知っちゅう。海の向こうを見た者がおるがやぞ」

「万次郎は、土佐は古いと言うたそうじゃ」

「言っていない」

 万次郎の口から、ようやく小さな声が漏れた。

 栄吉が顔を向ける。

「言っていない」

 万次郎は、もう一度言った。

「わしは、そんなことは言っていない」

 その声は、若者たちには届かなかった。

 二人は茶屋を離れた。

 しばらく歩いても、万次郎の耳には若者たちの声が残っていた。

 土佐は古い。
 家柄など役に立たない。
 下の者でも上に立てる。

 どれも、自分の口から出た言葉ではない。
 なのに、どこかに自分の言葉の影がある。

 それが、万次郎には恐ろしかった。

「万次郎」

 栄吉が言った。

「気にするな、と言いたいところじゃが……気にするなというほうが無理じゃの」

「どうして、あんなふうになる」

「皆、聞きたいように聞く」

「わしは、見たものを話しただけじゃ」

「そうじゃろうな」

 栄吉はうなずいた。

「けんど、聞く者は、見たものを聞くわけではない。自分の胸にあるものに、合うように聞く」

 万次郎は足を止めた。

 栄吉は漁師で、学問のある男ではない。
 それでも、その言葉は妙に鋭かった。

「おまん、いつからそんな難しいことを言うようになった」

「酒を抜けば、たまには言う」

 栄吉は笑った。
 だが、その笑いはすぐに消えた。

「土佐には、溜まっちゅうものがある。おまんがそれを作ったわけではない。けんど、おまんの話が、そこへ落ちた」

「わしは、火をつけるつもりなどない」

「知っちゅう」

「誰かを煽るつもりもない」

「それも知っちゅう」

「なら」

「つもりがあるかどうかで、火がつくかどうかは決まらん」

 万次郎は黙った。

 風が吹いた。
 城下の道に、乾いた土埃が少し舞った。

 遠くで、誰かが荷車を引く音がした。

 万次郎は、自分の手を見た。
 海で焼け、縄で擦れ、硬くなった手だった。

 この手で、何かをした覚えはない。
 ただ話しただけだ。

 それなのに、胸の奥で何かが重くなっていた。

「もう、話さんほうがえいのかもしれん」

 万次郎は言った。

 栄吉はすぐには答えなかった。

「話さんで済むか」

「済ませたい」

「役人は聞く。城下の者も聞く。村の者も聞く。おまんが何を見たか、皆が知りたがる」

「知って、どうする」

「それは、聞いた者しだいじゃ」

 万次郎は、苦いものを飲み込んだような顔をした。

 そこが怖いのだ。

 聞いた者しだい。

 自分の言葉が、自分の知らぬところで、聞いた者の胸の中に入り、別の形になる。
 それを、もう止めることはできない。

 昨日の夜、万次郎は故郷に戻った喜びの中にいた。
 母がいて、友がいて、酒があって、笑いがあった。

 その同じ夜に話したことが、もう城下では別の声になっている。

 言葉は、口を離れたあと、どこへ行くのか。

 万次郎にはわからなかった。

 わからないことが、怖かった。

 その日の夕方、万次郎は浜へ出た。

 海は、夕日を受けて赤く光っていた。
 波は穏やかで、子どもたちが浜辺で走っている。

 その光景だけを見れば、何も変わっていないように思えた。

 だが、万次郎の中では、何かが変わっていた。

 彼は波打ち際に腰を下ろした。

 海の向こうでは、言葉はもっと自由に飛び交っていた。
 船の上でも、港でも、人々はよく話した。
 自分の考えを言い、議論し、笑い、怒った。

 万次郎は、その空気に驚きながらも、少しずつ慣れていった。

 だが、土佐では違う。

 言葉は、ただの言葉ではない。
 身分に触れる。
 藩に触れる。
 人の積もった不満に触れる。

 同じ言葉でも、置かれる場所が違えば、重さが変わる。

 万次郎は、そのことを初めて肌で感じていた。

「万次郎」

 声がした。

 振り向くと、慎吾が立っていた。

 万次郎は少し身構えた。
 慎吾も、それに気づいたようだった。

「すまん。驚かせるつもりはなかった」

「いや」

 慎吾は、万次郎から少し離れて座った。

 しばらく、二人は海を見ていた。

「茶屋での話、聞いちょったがか」

 慎吾が言った。

 万次郎は息を止めた。

「聞いた」

「そうか」

 慎吾はうつむいた。

「わしは、止められんかった」

「おまんが悪いわけではない」

「いや」

 慎吾は首を振った。

「わしも、聞きたかった。聞きたいように聞いた。おまんの言葉を、たぶん、わしの都合のいいように受け取った」

 万次郎は慎吾を見た。

 昨日、酒席で黙っていた若者。
 今日、茶屋でうつむいていた若者。

 その横顔には、怒りよりも苦しさがあった。

「わしは、上士が憎いのかもしれん」

 慎吾は静かに言った。

「けんど、それを口に出すことはできん。出せば、家に迷惑がかかる。父にも、兄にも」

 万次郎は何も言えなかった。

「だから、おまんの話を聞いたとき、思うてしもうた。海の向こうには、違う道があるのかと」

「あるにはある」

 万次郎は、慎重に言った。

「けれど、何もかも良いわけではない。苦しむ者もいる。貧しい者もいる。差もある」

「それでも、違う世界がある」

 慎吾の声は小さかった。

「それを知ってしまった」

 万次郎は、胸が痛んだ。

 慎吾を責めることはできない。
 彼は、万次郎の言葉を曲げたかったわけではない。
 ただ、自分の苦しみに重ねて聞いたのだ。

 だが、それこそが怖かった。

 言葉は、嘘によってだけ変わるのではない。
 痛みに触れても、変わる。

「万次郎」

 慎吾は顔を上げた。

「もう、話さんつもりか」

「わからん」

 万次郎は正直に答えた。

「話せば、また違う形になるかもしれん」

「黙っても、皆が勝手に話す」

 その言葉に、万次郎は目を閉じた。

 同じことを、栄吉も言っていた。

 話しても危うい。
 黙っても危うい。

 なら、自分はどうすればいいのか。

 答えは出なかった。

 慎吾が去ったあとも、万次郎は浜に残った。

 夕日は沈み、海の赤みは少しずつ消えていった。

 暗くなり始めたころ、栄吉が戻ってきた。

「探したぞ」

「すまん」

「家へ帰れ。おっ母が心配する」

 万次郎は立ち上がった。

 歩き出そうとしたとき、栄吉が思い出したように言った。

「そういえば、妙な人が来ちょったぞ」

「妙な人?」

「河田小龍という絵師じゃ」

 万次郎は足を止めた。

「絵師?」

「ああ。城下では名の知れた人らしい。おまんに話を聞きたいと」

 万次郎の顔が硬くなった。

「また話か」

「そう言うと思うた」

 栄吉は苦笑した。

「断るか」

 万次郎はすぐには答えなかった。

 海から風が吹いた。
 暗くなった浜の向こうで、波が白く崩れている。

 話せば、言葉は走る。
 黙っても、噂は走る。

 万次郎は、今日聞いたすべての声を思い出した。

 茶屋の若者たち。
 栄吉。
 慎吾。
 藩の役人。

 そして、自分自身の声。

「わからん」

 万次郎は言った。

「今は、まだわからん」

 その夜、万次郎はなかなか眠れなかった。

 母のいる家は静かだった。
 外では虫が鳴き、遠くで波の音がした。

 万次郎は暗闇の中で、天井を見つめていた。

 言葉は、海に似ている。

 ふと、そう思った。

 人の手を離れれば、どこへ流れ着くかわからない。
 穏やかに見えても、知らぬところで潮が変わる。
 そして、ときには人をさらっていく。

 万次郎は、長く海を恐れていた。

 だが今は、海よりも、自分の口から出た言葉のほうが恐ろしかった。

 翌朝、河田小龍が訪ねてくる。

 そのことを、万次郎はまだ知らない。

 ただ、眠れぬ夜の底で、彼は初めて思っていた。

 帰ってきたのは、自分だけではなかった。
 自分の中にある異国の記憶もまた、この土佐へ帰ってきてしまったのだと。

 


▶「裏天正記」幕末編第二部第3話(55)「言葉のひとり歩き」をカクヨムで読む

■ 第三話(55)「言葉のひとり歩き」考察

第55話では、万次郎が初めて自分の言葉が自分の手を離れていく恐怖に直面しました。

第53話では、万次郎の異国話は酒席の笑いの中にありました。
第54話では、それが藩の聞き取りによって「記録される情報」へ変わりました。
そして第55話では、その言葉が城下で噂となり、万次郎の意図とは違う形で広がっていきます。

今回の中心は、万次郎が「そんなことは言っていない」と思いながらも、完全には否定できない苦しさです。

彼は、土佐は古いとも、身分など役に立たないとも、土佐を変えなければならないとも言っていません。
しかし、アメリカでは学べば道が開くことがある、働きが認められることがある、という話はしています。

つまり、噂は完全な嘘ではありません。
けれど、万次郎の言葉そのものでもない。

ここが重要です。

言葉は、悪意ある者によってだけ曲げられるのではありません。
聞く者の苦しみ、願望、不満、怒りに触れたときにも、形を変えます。

慎吾はその象徴です。

彼は万次郎を利用しようとしているわけではありません。
ただ、上士と下士の身分差に苦しんできた若者として、万次郎の言葉に「別の世界の可能性」を見てしまいます。

ここで万次郎は、単に噂を怖がっているのではなく、自分の言葉が誰かの痛みに触れてしまったことを怖がっています。

それはかなり深い恐怖です。

もし相手が悪意ある者なら、万次郎は否定できます。
しかし慎吾のように苦しんでいる者が、自分の言葉に希望を見てしまった場合、簡単には否定できません。

「それは違う」と言えば、慎吾の希望を踏みにじることになる。
「その通りだ」と言えば、土佐の秩序を揺さぶることになる。

万次郎は、この板挟みに立たされます。

この回で出した、

話しても危うい。
黙っても危うい。

という状態が、次回以降の河田小龍とのやり取りにつながります。

小龍は、万次郎にさらに話を求める人物です。
しかし万次郎は、もう軽々しく話せません。
だからこそ、小龍が「メリケンのおなご」や絵を入口にして、少しずつ警戒を解いていく展開が生きます。

第55話は、第2部の中でも大事な転換点です。
万次郎はここで、異国から帰ってきた珍しい人物から、自分の知識と言葉の重さに怯える人物へ変わり始めます。