潮の匂いを含んだ夜風が、屋台の暖簾をやわらかく揺らしていた。店仕舞いを終え、烈馬は桶を置き、帰り支度を始める。
「じゃあ、また明日──」
その腕を、細い指が掴んだ。
「……帰らないで。今夜は、一緒にいてほしい」
振り返った先で、マリアの瞳が夜の灯りを映していた。烈馬は言葉を失う。これまで幾度となく死地を歩んできたが、この瞬間ほど心の置き場を失ったことはない。
「どうした……」
「一年後、私は国に帰って、ある貴族の妻になる。……だから、これは私にとって最初で最後の恋なの」
マリアは静かに告げ、烈馬を見上げた。その声はかすかに震えていたが、目の奥に迷いはなかった。
烈馬は視線を落とし、長く息を吐く。任務のためだけに生きてきた男の心が、初めて揺らいだ。
言葉は交わさず、二人は屋台の灯を消した。残ったのは、遠くの波音と、かすかな足音だけ。
薄暗い部屋に、ランタンの炎が揺れ、やがて静かに消える。窓の外で夜風が吹き、暖簾がふわりと揺れた。
その夜、二人の距離は、深く重なりあった。
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🔍考察:期限付きの愛が残すもの
マカオ編最終話となる第十七話は、政治や任務の話題から離れ、烈馬とマリアの関係を静かに、しかし決定的に描き切った章です。これまで感情を抑え、任務を最優先してきた烈馬が、マリアの切実な願いに心を動かされる場面は、本作全体の中でも特に人間味が強く表れる瞬間です。
象徴的な描写(灯を消す、夜風、揺れる暖簾)は、直接的な説明を避けつつ二人の変化を読者に感じさせ、物語に深みを与えます。また、マリアの「一年後には国に帰る」という告白は、この恋が永遠ではなく、期限付きであることを強調し、その一夜の重みをさらに際立たせています。
この回を経て、烈馬は単なる任務遂行者ではなく、“未来を託す者”としての役割を意識するようになるでしょう。そして一年後の再会で明かされる「子の存在」への伏線としても、読者に強い印象を残す一話になっています。
