□中世271.中世の3大飢饉(年代順) ◇B
(飢饉の)要は/寒気の監視
(飢饉)(養和(ようわ))(寛喜(かんぎ)・寛正(かんしよう))
[句意](飢饉対策の)要は寒気の監視だ、という句。
[ポイント]
1.中世の3大飢饉は養和、寛喜、寛正の飢饉だ。
[解説]
1.養和の大飢饉(1181年)は、年来の天変続きで、西国は大飢饉に襲われたもの。鴨長明『方丈記』や『源平盛衰記』に人民の多数が死んだことが記されている。
2.寛喜の大飢饉(1231年)は、前年秋の凶作、この年の麦の減収により、「天下の人種三分の一失す」と言われた全国的な飢饉になった。
3.寛正の大飢饉(1461年)は、前年の長雨、異常低温、台風などにより西日本中心に大飢饉となり、京都の餓死者は8万人以上、賀茂川は死体で覆われたという。寛正の飢饉に対し室町幕府の将軍足利義政は対策をとらず、この最中に花の御所を改築している。
〈2012早大・文化構想を東海林改:「
1181年を中心とする[ 1 ]の飢饉が起きたのは、治承・寿永の乱のさなかであった。[ 1 ]の飢饉は、西日本を基盤としていた平氏の支配に影響を与えた。
13世紀前半に起きた[ 2 ]の飢饉は、長雨と大風雨による凶作によって引き起こされた。京都の街路に充満した餓死者の死臭がひどかったと記録されている。鎌倉幕府は鶴岡八幡宮で国土安穏の祈禱を行った。こうした社会不安による紛争の増加が、御成敗式目を制定した一つの背景になった可能性もある。13世紀後半にも、大地震や異常気象で正嘉の飢饉が起きた。日蓮は『立正安国論』で、天変地異が続発するのは『法華経』の教えに背いているからであるとし、このままでは国内の反乱と他国からの侵略が起きると述べたために、伊豆国伊東へ流された。
中世最大といわれる[ 3 ]の飢饉が起きたのは1461年のことであった。長雨、異常低温、台風による大飢饉で、餓死者は82、000人ともいわれる。この年に、蓮如が最初の「御文」を書いた。山城や京都で土一揆が勃発し、まもなく応仁の乱がはじまる。」〉
(答:1養和、2寛喜、3寛正)〉
〈2011早大・人間科学:「
日本の中世は飢饉と戦乱に明け暮れた時代と言っても過言ではなく、社会は飢饉によって大きな影響を受けた。例えば、治承・寿永の内乱が勃発した1180年は、夏の激しい旱魃と秋の大型台風による《 A 》の大飢饉が発生した年でもあった。(中略)
平氏政権に代わって東国に樹立された鎌倉幕府も、飢饉には悩まされ続けた。[ 2 ]が鎌倉幕府の執権を務めていた時期、日本列島は想像を絶する冷夏に見舞われ、これに発する《 B 》の大飢饉は2年以上にわたって続いた。(中略)
その後、室町時代に入ると、飢饉は再び社会に大きな影響を与えた。f足利義政の後継者争いに端を発する応仁の乱が起こる6~8年前、中世では最大の被害が出たと言われる《 C 》の大飢饉が続いた。
問《A~C》に当てはまる語句の組み合わせとして、正しいものはどれか、1つ選べ。
ア.A寛正・B寛喜・C養和
イ.A養和・B寛正・C寛喜
ウ.A寛喜・B養和・C寛正
エ.A寛正・B養和・C寛喜
オ.A養和・B寛喜・C寛正
カ.A寛喜・B寛正・C養和」
(答:2北条泰時、オ)〉