一度は行ってみたかった『本證寺』へ
永禄6年(1563)に勃発した三河一向一揆その時に徳川家康と対立した寺院の1つで、一揆の中心となったのが本證寺でした
本證寺を中心として、村全体を土塁や堀(内堀・外堀)で囲み、外敵を防ぐ構造になっていて、本堂など重要な部分は二重の堀に囲まれていました。寺と村とが一体になっている事から「城郭寺院」とも呼ばれています
「内堀は、本堂を中心に囲むものと、庫裏を囲むものの2つがあり、その外側に東西約320m、南北約 310mにおよぶ外堀がありました。
外堀は、三河一向一揆前の16世紀前期から中期(戦国時代)に掘られ、その後、短期間で埋まっています。 堀の幅は約4.7m、深さ約3mで、傾斜が急なV字形断面をしています
その後、18世紀後期から19世紀前期(江戸時代)に、 戦国時代と同じ位置に、傾斜が緩やかで幅広な浅い外堀が掘られました。
また、堀の内側に残る土塁は、基礎部分の幅が約 7mあります。堀の底から土塁の上までの高低差は、 少なくとも5.4m以上ありました。」
(内堀)
限定の御城印
そして、境内の裏手へ
(土塁と堀)現在も、少し土塁や堀の遺構を見る事が出来ます
(土塁)
(虎口)
(土塁と堀) 数百年経ち、現在は土塁も堀も浅くなっています
土塁と堀の発掘現場
コチラは、大がかりでしたが!何の発掘現場なのか分からず
(土塁と堀)
コチラは、一部だけ残る外堀の跡