吉田城と御城印 | かまのん紀行

かまのん紀行

この度、ヤフブロの閉鎖の為… こちらに移行して来ました✋

日常の事や、旅行での事、寺社巡りや史跡巡りなど行った所を日記形式で載せます♪

2024.4.2.

 

先日の、遠州めぐりにてパー 豊橋へニコ 野田城の後、気になっていた吉田城跡へOK

近くの🅿に車を停めて🚶テクテク

吉田城は、現在は公園として憩いの場所となっていますパー訪れた時も桜桜桜花見をする大勢の人が来ていました生ビール

入って直ぐに見えたのが、土塁と空堀跡!土塁の高さが凄い(当時は、もっと高いはず)

石垣の近世城郭と改修された吉田城だけど、本丸以外は中世の頃の土塁や堀も残っています。

(堀跡)

 

堀と土塁

 

裏御多門に通じる土橋(土橋は石垣で固められている)

 

吉田城の歴史は、永正2年(1505年)豊川の一色城主 牧野古白によって築城された今橋城に始まります。(後に今橋城はのちに吉田城と改名されています。)
永禄8年(1565)には徳川家康が吉田城を攻略し、城主に酒井忠次を置き改築しました。

(武田氏とは、元亀2年(1572年)より天正10年(1582年)に至るまで攻防戦を三・遠の両国で繰り広げるが、天正3年(1575年)の長篠の戦いまでは徳川氏が劣勢であった。特に元亀2年の春には設楽郡の防衛網を容易に突破した武田軍が南進。吉田城下にまで押し寄せられるが、頑強に守り抜いた。)

天正18年(1590年)、豊臣秀吉により家康が関東に移封されると、池田輝政が東三河4郡を統べる15万2千石の城主となった。
輝政は吉田城および城下町の大改築や吉田大橋(豊橋)の架け替えを行った。整備は11年間にわたって行われたが、関ヶ原の戦いの翌年慶長6年(1601年)に輝政は播州・姫路に移封された。現存する城跡は近世城郭ではあるが、輝政の統治下では完成しなかった。
その後、地震水害!財政難などがあり!多少の改築改修は行わられたと思われるが、完全に整備されないまま明治まで続いた。

(本丸の内堀)

 

 

 

巨大な内堀~キラキラ

 

 

 

(南御多門跡)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(鉄櫓)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

購入した御城印は、やはり酒井氏の家紋のやつグッド!

 

 

 

 

 

(裏御多門跡)

 

(北御多門跡)

 

鉄櫓の櫓台は、池田輝政の時代の改修で一番古い石垣キラキラ

 

(石垣と内堀)

 

桜鉄櫓と桜桜

 

(土塁)

 

(内堀)