2022.6.7.
今回は、念願の『来島城跡』へ向かいます 村上海賊、来島村上氏の本拠です
しまなみ海道を走る度に、気にはなっていましたが!なかなか時間の都合や目的の違いで寄れませんでした
波止浜の乗り場から
到着したのは、14時ちょっと前、渡船の時間が分からないまま行ったので、直ぐ乗れる便がありラッキーです 14:00発で、戻りの時間が微妙16:15で帰るには滞在が長いので!14:35ので戻りますなかなかシビアな時間割です
来島までは5分 滞在30分で、どこまで見れるか
来島へ上陸
読んでる暇はないので、とりあえず
本丸跡を目指します
来島城跡の中心部は標高47mの南北に細長い山で、本丸、二の丸、三の丸、屋敷跡などの削平地が残ります。
先ずは、当主の居館が在った場所へ『心月庵』て建物が今はあります
『 来島城は、村上義胤の二男顕忠(北畠説もあり)によって築かれました。子孫の来島村上氏は、6代約160年にわたって来島城を本拠地としました。ただ、平時の時は対岸の波方浦の館に住んでいました。
史料上、 初めてその存在がうかがえるのは、応永11年(1404) の事で、 弓削島荘 (現愛媛県上島町) の経営を請け負っています。 室町時代の来島村上氏は「関方」 (=海賊) とも呼ばれ、 唐船警固を命じられるなどしていた海上勢力であり、伊予国守護の河野氏とも密接な関係を持っていました。
戦国時代には、村上通康が河野氏の重臣として活躍しますが、 その息子通総は羽柴秀吉 (のちの豊臣秀吉)の勧誘を受けて河野氏から離反します。 羽柴秀吉に味方した通総は大名となり、船手衆として小田原合戦や文禄・慶長の役などでは海上で活動しましたが、 慶長の役の時に起きた 鳴梁海戦で戦死してしまいます。
通総の跡を継いだ息子康親は、 関ヶ原の戦いで西軍についた為、豊後国森 (現大分県玖珠郡玖珠町)に転封されますが 「久留島」と姓を改めた来島村上氏は、大名として幕末まで森を治めました。』
来島城の見どころの石垣
石垣が、しっかり残っています
(村上神社)
村上氏の祖先が祀られているそうです
今回来た時期の関係もあるけど、全体的に草木が茂っているので、もっと整備をしたら、隠れている曲輪を見る事が出来るのにな~勿体ない
(二の丸)
(本丸)
本丸から
本丸から
そして、残り時間が少ない 足早にピット跡(柱穴跡)を探しに行きます
ピットとは、桟橋の柱の事
もう少し潮が引けば、広範囲に探せそうだ
そして、駆け足船乗り場へ急ぐ出発時間ギリギリに船乗り場へ まだ船は来てなかった ちょっと遅れてるみたい
なので、船乗り場の横に在る『八千矛神社』を
松山の河野氏が建立したと伝わる
「折敷に縮み三文字」が渋いね
待合室の中で
船が来たので、此れにて来島を後にします また干潮時に、来てみたいな
海岸から見た来島