天文12年(1543)尾張国の土豪・堀尾泰晴の長男として生まれた。 織田家に仕官をしますが、木下藤吉郎(豊臣秀吉)の直属の家臣になります なので、秀吉の家臣としては、かなりの古参ですね
関ヶ原合戦の功績により出雲・隠岐24万石の大名として広瀬の月山富田城に入城。 しかし、月山富田城は周囲を山々に囲まれた中世以来の山城で、大砲などを使う近代戦に不利であったこと、また家臣を住まわせる広大な城下町を形成するには土地も狭く、交通も不便でした。そのため宍道湖のほとりの標高28mの亀田山に松江城築城を計画。
堀尾吉晴公の墓所は、月山富田城に在ります。
大手木戸門跡には、『国宝 松江城』の碑が出来ていました 以前、最後に来たのが5年ほど前なので、ブログも始める前の事です。
(大手門跡)
二の丸上の段に向かいます 見えるのは太鼓櫓
三の門跡。奥に見える石垣の所が二の門跡
三の門跡から見える天守も人気の撮影ポイントです
堀尾吉晴公(松江開府の祖)
松平治郷(不昧)公(第七代藩主)
二の丸上の段から天守を見る
鉄砲狭間から茂助を狙う(笑)
コチラは、矢狭間
先ほど、外から見た太鼓櫓の中
松江市は、老朽化が進んだ事から、2013年11月から復元工事を始めましたが、元々白い洋館ではなく淡い緑色と判明し、塗り直し工事を経て、2015年7月から元の淡い緑色の姿に変わっています。
そして、天守を目指してGO! 標高が低いので、かなり楽チンです
別名「千鳥城」とも呼ばれる城の外壁は大部分が黒塗りの下見板張り。外層5層、内部6階で、城内には松江の街や城の関連資料が展示され、最上階は望楼式になっていて天守の最上部の屋根にあるシャチホコは、木彫りで銅張り、高さは約2mもあり、これは現存しているモノでは最も大きいもの。
ずっしりとしてて武骨な感じがカッコイイ
そして、今回の目的~ すったもんだとなったりと!最終的に、国宝指定の決め手となった祈祷札ですが、現在はレプリカを見る事ができます この祈祷札は、二の丸に在る松江神社で発見されたのですが、これが、天守の下層にある柱の釘穴と、札の穴がぴったり合った事から確認され築城年数が分かったのでした
2015年7月8日、松江城天守は城郭建築としては63年ぶりに国宝指定された。国宝に指定されたのは松江城天守1棟と、附として祈祷札2枚(慶長16年正月吉祥日)、鎮宅祈祷札4枚、鎮物3点(祈祷札1、槍1、玉石1)であった。構造は、四重五階天守、地下1階付、本瓦葺、南面附櫓一重、本瓦葺である。規模は、平面447.13㎡、延べ面積1,784㎡、高さ22.43m(木造部)で、現存12天守のうち、面積は姫路城大天守に次いで2番目、高さは姫路城天守、松本城天守に次いで3番目の規模を誇る。
天守内は、少し修復中
しかも!展示物が、かなり減っていたのだけど!これは、松江城と関係ない物を撤去し、当時の様子が分かりやすくしてるのかと
姫路城は、展示を減らし当時のシチュエーションを感じられる様にしてたな
包板(つつみいた)
天守を支える柱には、一面だけ、あるいは二面、三面、四面に板を張って、鎹(かすがい)や鉄輪(かなわ)で留められているものがある。これは「包板(つつみいた)」と呼ばれ、天守にある総数308本の柱のうち130本に施してあり、割れ隠しなど不良材の体裁を整えるためのものと考えられている。
天守最上階は、琵琶湖から吹く風が気持ちイイ~ 嫁ヶ島が見える~
そして、天守を下りて、北側へ コチラ側から見る天守は武骨感が増すね~
(乾櫓跡)
(北の門跡)
北の門跡を抜けて水の手門跡へ
ココで、松江城の怪談話~
水の手門(表鬼門)に当たる場所の石垣が何度組み上げようとしても崩れてしまう。城主である堀尾吉晴は崩れる原因を突き止めようと、崩落が大きい部分を徹底的に調べさせた。すると、崩れた場所の地下から一つの頭蓋骨が出てきたのである。頭蓋骨には錆びた槍が刺さったままになっていた。原因はコレだと思った吉晴は神主を呼び、3日にわたる祈祷を行った。その甲斐あってか、石垣は崩れることなく松江城は築城に至ったのである。その後、頭蓋骨を掘り出した穴からは澄んだ水がこんこんと湧き出すようになった。この穴は井戸の形に整えられ、城内の貴重な水源の一つとなったそうな。
城内に在る 《城山稲荷神社》
そして、ぐる~と廻って二の丸下の段へ戻って来ました
この日は、暑かったので水分補給と小休止観光案内所にて、登城記念朱印をGETし お次は、堀を巡ります 観光案内所にて、登城記念朱印をGET
続く。