三食カレーの 振り向けば桃源郷

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映画や本、音楽(主にJAZZ)のレビューを綴ります。
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「キム・フィルビー」  ベン・マッキンタイアー著(中公文庫)

本の帯にあるとおり、「冷戦下の世界を震撼させた英国史上最悪の二重スパイ」、キム・フィルビーの詳細かつ重厚な伝記である。第二次世界大戦前のパブリック・スクールからケンブリッジ大学に学ぶ。父親は著名な中東学の権威で、サウジアラビア初代国王の顧問をつとめていた。イギリスのエリート階層に生まれ、育った人物である。

英国の情報機関は、国内および植民地の治安を担当するMI5(エムアイ・ファイブ)と、海外での情報収集などを主な任務とするMI6で棲み分けがされている。MI6は秘密情報部とも呼ばれ、公には存在しないことになっている。公的に認められているMI5は元警官や元兵士など中流階級出身者が多いとされる、それに対し、MI6は、そもそも存在しないことになっているので、採用試験もない。幹部ら上流階級の人的つながりで部員をリクルートしていく。スパイ選びが「シャンパングラスを片手に進められる」。当然のように、オックスフォード、ケンブリッジの出身者も多いという。

ケンブリッジ大学を卒業したフィルビーのMI6入りも、「あの人の息子なら間違いない」というわけだ。しかし、フィルビーの胸の内は、ケンブリッジ在学中からマルクス主義、社会主義ソ連への信仰にも似た憧れが、赤く赤く燃え上がっていたのだ。ただ、いわゆる外面は、誰にも好かれる冗談付きの人気者で、社交性もあり、彼の胸の内の赤い炎に部内で気づくものはなかった。

 

フィルビーはMI6内で順調に出世の階段を上っていく。ここにもう一人のエリートが登場する。やはりケンブリッジ卒業生で父親がパブリックスクールの校長という、ニコラス・エリオット。二人はすぐに親友となり、互いに仕事の上で助け合い、私生活でも家族のような関係を築いていく。

一方で、フィルビーは陰で「ケンブリッジ・グループ」というスパイ組織を作り上げていく。進歩派シンパの女性を介してソ連のエージェントに接触したことから始まり、ガイ・バージェス、ドナルド・マクレーンら外務省、情報部の仲間が強固な同志となっていくのだ。情報部が組織して東欧圏に工作員を送り出すと、入国した途端捕らえられたり行方不明になってしまう。フィルビーらがソ連側に情報を流しているのだから当然だ。ケンブリッジ・スパイのために命を落とした工作員は数え切れないほどだという。

しかし、フィルビーらの足元に追及の手が伸びはじめる。ソ連圏からの亡命者によってもたらされる情報が端緒となる。ほとんどが断片的なもので、個人名を特定するものではなかった。だが、そのなかで「1944年に妻が妊娠した」というささいな話から、エージェントの一人はドナルド・マクレーンではないかとの疑いが浮上する。この探索をフィルビーから知らされたマクレーンは、すぐさまバージェスとともにモスクワに逃れた。

亡命者の情報から、ついにフィルビー本人にも追及が始まる。1963年、レバノン滞在中のフィルビーのもとへ、親友で上司でもあるエリオットが究明の命を受けて訪れる。表面は社交的な、実はスパイの仮面をはぎ取る対決で、エリオットはフィルビーが二重スパイであるとの心証を確実なものとした。

しかし、なぜか彼はフィルビーに身辺警護も尾行もつけず、フィルビーは雨の夜、ソ連の貨物船でウクライナのオデッサに逃れてしまった。そしてモスクワで長い安全な、そして退屈な余生を送ることになった。

この時のエリオットの行動はいまだに論議を呼んでいる。フィルビーを裏切り者と断定する確証がなかったという説はもちろんある。だが、フィルビーを英国に呼び戻して公開裁判にかけることを、政界も情報関係者も望んでいなかったこともまた、事実であったという。

              ◇                  ◇

「キム・フィルビー」の読書報告はここまで。しかし、この本にはもう少し魅力的な余話が残っている。その話は、ここから。

 

中公文庫「キム・フィルビー」は500ページを超す分厚さだが、巻頭32ページに及ぶ写真資料に度肝を抜かれる。各ページに何枚もの貴重な写真が詰め込まれていて、合計は100枚を超すのではないか。この本に登場する人物はほとんど網羅されていて、アラブの伝統衣装に身を包んだフィルビーの父親の姿も載せられている。

この大著の中で、実はぼくがもっとも興味をそそられたのは、クロップ・ユスティノフなる人物である。ロシア系ドイツ人のジャーナリストで英国の秘密工作員にスカウトされる。担当将校が「最も優秀かつ独創的な諜報員」と高く評価している。この名前と「身のこなしが一見愚鈍に見える」風貌で、「もしや」と思われる人もいるのではないか。

そう、俳優のピーター・ユスティノフが、この人の息子なのだ。「スパルタカス」「クオヴァディス」などの大作史劇でおなじみだが、若い人にはアガサ・クリスティーの「ナイル殺人事件」などでのポアロ役といったほうがわかりやすいかも。ぼくは「トプカピ」での港町のせこい商売人が印象深い。この役でアカデミー助演男優賞を受賞している。

あとがきをジョン・ル・カレが書いていることも、この本のステイタスを保証している。ル・カレ自身、MI6に入るときにエリオットの面接を受けている。スパイ小説の大家、グレアム・グリーンも僻地に働く部員として登場している。登場人物の多彩なこと、驚くべきである。
 

映画監督、山本嘉次郎が昭和26年に出版した、映画創世記の内幕をつづったエッセイ。同時に氏の半生記として読むこともできる。ジャズ評論家の久保田二郎氏がエッセイの中でこの本についてふれているのを読んで、気になって気になって仕方なかったが、復刻の気配もなく、といって神保町の古本屋を漁る気力にも欠けていた。それで50年もたってしまった。みかねた家族がネットのオークションでみつけてくれたのだ。

山本監督は、友人に誘われて浅草オペラをのぞいた時から芸能の世界に魅入られ、慶応大学を中退して映画の道に迷い込んでしまう。まだ無声の活動写真と呼ばれた時代である。日本映画の神話時代を彩ったひとたちの名前が次々と登場する。たとえば、友人と女優・岡田嘉子の仲をとりなそうとして、毎晩銀座のカフェで彼女と会っていたら、そのうち自分と岡田の仲が噂になってあわてたり。

子役時代からすぐ近くで見ていた高峰秀子、俳優などなる気はなかった三船敏郎を面接でその可能性を見出して採用させた話。黒澤明と高峰秀子の仲人を承諾しながら、二人は結婚しなくてよかったと回想するくだり。日本映画史の当事者にして証人でもあった。

アメリカ仕込み、徳永フランク監督のくだりが笑わせてくれる。カンバス張りの椅子にふんぞりかえって、足元に空き缶、空き瓶、レンガなどを置いておき、役者が下手な芝居をすると「ヘイ ユウ ジャップ ガッデム クライスト」などと怒鳴って、投げつける。「お前だってジャップだろう」と逆襲されると、ピストルを振り回す。

「いつもウナギの下にドジョウはいない」とか
「ぼくは君をば不信用せんよ」とか、不思議な日本語を使っていたという。

 

「お前の脚本にはドラマがあってチックがない」

この映画史に残る名言が当時の日活撮影所の名物所長のものだったとは、知らなかった。正攻法すぎてケレンがないという意味で、陰影に欠けるともいえよう。この名物所長には、こんなエピソードも。ハリウッドから有名俳優夫妻を迎えたとき、所内を案内しようと歩き出し、周りの所員に向かって「ジャパニーズ、続け」。

思い出話はあちこちに飛び回り、雑学好きを嬉しがらせてくれる。たとえばこんな話。明治初年、イギリスから煉瓦を輸入すると、数十個がブリキの缶に入って送られてくる。日本人がこの缶を叩いて「これは何か」と聞いたら、イギリス人は中身のことを尋ねられたと思い「これはブリック(レンガ)である」と答えた。以来日本に「ブリキ」という言葉ができたとか。オーストラリアの「カンガルー」とよく似た話ですね。

山本氏には数多くのエッセイがあるが、書店で手に取ることはまず不可能だ。全く復刻されていないからである。映画の裏話だけでなく、食通で知られた氏ならではの料理・食べ物エッセイも食指をそそってくれる。頼みはネット・オークションか出版社の復刻ということになります。
 

2011年製作の映画「裏切りのサーカス」は、ドンパチとは無縁ながら緊迫感あふれるスパイ映画の傑作だった。ジョン・ル・カレのジョージ・スマイリー三部作の第一作「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」の忠実な映画化であるが、文庫本で500ページを超える複雑なストーリーを追いながら、ダイジェスト色をまったく感じさせなかった。

英国情報部を追われるように去ったスマイリーが、情報部中枢に巣食うモグラをあぶりだすメインのストーリーに、かつて自身が情報部で働いた経験をもつル・カレが、細部にキラリと光るエピソードをちりばめてくれる。

情報部のクリスマス・パーティーで、酔った部員たちが敵国ソ連の国歌を大合唱するシーンには、ニヤリとさせられた。昔、ある日本の警察の警備公安エリートが、記者クラブとの懇親会で、革命歌「インターナショナル」をアカペラで大合唱したという話を思い出したからだった。

スマイリー役のゲイリー・オールドマンは言うに及ばず、コリン・ファースのビル・ヘイドン、ベネディクト・カンバーバッチのピーター・ギラム、さらにはトビー・エスタヘイス、コニー・サックスなど、この役にはこの俳優しか考えられないほどにピタリとはまっていた。

 

そこで待たれるのが続編。原作第二作の「スクールボーイ閣下」は、シリーズでは番外編的なストーリーであり、第一作につなげるには、第三作で同時に完結編である「スマイリーと仲間たち」しかありえないだろう。実際には後日談風の「スパイたちの遺産」が発表されるのだけれど。

問題は、第一作から時間がたちすぎていて、あのメンバーを再結集できるかということだ。オールドマン以外のスマイリーなどもはや考えられないだろう。だがカンバーバッチは、すっかり大物俳優だ。ドイツ軍の暗号システム、エニグマ解読に挑む天才数学者に扮した「イミテーション・ゲーム」では堂々の主役を張っている。最近WOWOWでみた映画では、白髪頭の初老の人物を演じていた。

第三作(ややこしいけど、映画になれば第二作ですね)にも、これらサーカスのレギュラー陣が重要な役割で登場する。なんとか全員再結集してもらうしかないでしょう。それだけの価値のある続編になるのはまちがいないのだから。

「スマイリーと仲間たち」を最近再読した(実際はもう何度も読み返しているのだけれど)。あれ、このシーンは映画で見たぞ、という個所に何度か出くわして、しばし考え込んでしまった。

連絡役に選ばれた長距離トラックの運転手が果物のバスケットをフェリーのベンチに置いて戻ってみると、ベンチに受け取ったという印の黄色いチョークの線が引かれている。ソ連からパリに亡命した老女が、何者かに襲われ路上に転倒する。黄色いチョークなど、僕の網膜にはっきりと焼き付いているほどだ。

 

映画にはなっていないのに、と不思議に思っていたが、はたと気が付いた。ル・カレの筆があまりにクリアに情景を描き出してくれるので、ぼくは映画の一場面として記憶してしまったのだ。

こうなると、続編はゲイリー・オールドマン以下レギュラー俳優たちによるサーカスの再現以外考えられないでしょう。ストーリーは、太い幹(メインテーマ)とそれを彩る豊かな枝葉。完璧な傑作だ。

あとは時間との戦いだ。カンバーバッチの白髪が増えないうちに、クランク・インしてください。