臺飛作命甲第二百二〇號
第八飛行師團命令
三月二十七日 一三〇〇
臺 北
一、福澤大佐ハ九州ニ至リ西参謀ノ任務ヲ継承スル外左記人員(部隊)ヲ指揮シ
九州方面ヨリ台湾ニ向フ誠飛行隊ノ推進及南西諸島ニ對スル誠飛行ノ展開ヲ促進スルト共ニ
適時南九州方面ヨリ敵艦船ニ對スル攻撃ヲ誘導スヘシ
左記
1...
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3 九州ニ進出スル誠飛行隊
第八飛行師團長 山本健兒
廣森隊長以下、武剋隊 先発隊9名が突入を果たしてから6時間後
第八飛行師団長・山本中佐の発したこの命令により
彼と、他の武剋隊員、
後続隊6名の命運が決せられることになります
すなわち
誠第32飛行隊・武剋隊 後続隊は
九州宮崎・新田原飛行場で待つ福澤参謀の指揮下に入り
台湾を経由せず
新田原から直接特攻出撃せよ
と。
このとき、松本・浅間温泉に残っていたのは
目之湯に小林少尉、結城少尉、整備班長の伊東少尉
千代の湯に時枝軍曹
梅乃湯に佐藤伍長、古屋伍長、そして、彼
廣森隊長たちの戦果は、すでに耳に入っていたでしょう
特攻用250キロ爆弾を装着できるよう全機整備が終わり
各機に機付き整備員を乗せて松本を出発したのは3月28日と29日でした。
目之湯に疎開していた中澤少年は
3月29日に母と姉に宛てた葉書に、こう書いています
昨日、ゆう城さんが薹灣へ行き、
今日、小林さんと伊東さんがいって、
目之湯は一人も泊まってゐません。
新ぶんに出たらよく見ておいて下さい。
名は武剋隊です。
隊員たちは浅間温泉を去る時、
それぞれの宿の周りを何度も何度も旋回し
子供達に別れの挨拶をして南の空に消えていきました
一方、宮崎・陸軍新田原飛行場では
「西参謀ノ任務ヲ継承スル」任務を受けた福澤参謀がすでに着任。
武尅隊6人の到着を待っていました。
彼らは一旦岐阜・各務原に立ち寄った後
宮崎・陸軍新田原飛行場に到着。
ときに昭和20年3月30日
80年前の今日です。
その後、隊員たちは宮崎神宮へ参拝に向かいます
福澤参謀はこのときのことをこう回顧しています
(「陸軍航空の鎮魂」航空碑奉賛会 1978年)
航空特攻戦法の教育終了後、全員は別格官幣社宮崎神宮に参拝して、特攻の必勝祈願した。
宮司さんの特別の計らいで正式参拝を行い、祈願の式典も荘厳を極め、隊員一同の玉串ほうてんで式を修了した。
式後宮司さんのご好意で
特攻隊員のための壮行の宴を催され、
歓送の辞に次いで豪華な酒肴の供応を受けた。
福澤参謀は隊員たちに対し、特攻戦法の図上訓練と精神教育を施し
「烈々の闘魂を持って敢行すれば
激烈な火網も恐るるに足らぬこと
及び特攻隊員の現有技能をもって
十分に特攻の成功を期し得ることを力説した」
と。
10年あまり前、この新田原で
彼の痕跡をたどりました
宮崎神宮
80年前の今日、ここに、この同じ場所に
彼が立っていたんですよね...
陸軍新田原飛行場跡
現在の航空自衛隊新田原基地
その南側に点在するかつての掩体壕
武尅隊後続隊の出撃は4月3日
先発隊に比べれば出撃準備から突入までの時間がありましたから
隊員たちは心の整理をする時間があったでしょう...
彼は...
出撃までの束の間の時間
急ぎ故郷・福岡に向かいます...






