出雲大社にて
このあとがきは昨年(2023年)6月、ベラルーシの首都・ミンスクのアパートで書き上げたものです
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あとがき
前作を書き上げてから3年、この間世界ではコロナ騒動をはじめとしてさまざまな出来事が起こりました。
その後二作目を書き始めようと決めたあと、ウクライナでの紛争が始まり、そして今僕は日本やアメリカの敵対国であるベラルーシにいてこの二作目書いている。
単なる偶然ではないと思います。
長引くウクライナ紛争は、もちろん国家間双方のプライドもあるでしょうが、いったいそれで誰が笑うのでしょうか。
誰が利益を得るのでしょうか。
軍事産業は潤います。それで利益を得る政治家もいるでしょう。
西側諸国が結束して平和をもたらすと言いますが、自分たちのやっていることが平和をもたらす行為なのかどうかは少し冷静に考えれば誰もがわかることです。
戦争を止め、戦争を起こさないようにするのは、国家間の対話であり、そこに生きる人々の正しい事実認識と相互理解でしかないと思います。
どれだけ事態が切迫し、いかに困難な状況に追い込まれようとも、この努力を放棄してはならないと思うんです。
ハーグ陸戦法規のような「戦争のルール」が存在するということは、戦争が違法ではないということです。
だからそこで行われる戦闘は殺人罪には問われません。
しかし合法か違法かという問題と、正当か不当かという問題は別です。まして正当と正義はイコールではありません。
そもそも戦争に正義などあるはずもないんですよ。
アメリカは東京裁判を通して、日本国民全体に戦争の責任を自覚させようとしました。
つまり戦争に突き進んだのは国民にも責任があったのだ、ということですね。
しかしアメリカに誘導されるまでもなく、それに気づいている日本人もたくさんいました。
花山信勝師は著書「平和の発見」の最後をこの一文で結んでいます。
我が国の国民のほとんどは、真珠湾当時の自分たちの感情を忘れて、現在の裁判を自分たちとは無関係のことのように見なしている。
しかし、自分たちが過去において、戦争の大義のために協力し、天皇陛下の詔書のもとに集まっていたことを考えるなら、それぞれの役割は異なり、また自発的に参加したかどうかの違いはあっても、国民は少なくとも、この囚人たちがわれわれ全員に代わって裁かれていると、感じなければならない。
自分たちの過去の行為が正しかったのか間違っていたのかを、深く考えてみるべきではないだろうか
いまウクライナ紛争という現実を目の前にして、無条件に、そして盲目的に「西側の結束」に乗っかってしまっている日本という国、そしてそれを無条件に受け入れている日本人は、一度この花山師の言葉を心に留めるべきではないでしょうか。
また同じ過ちを繰り返さないためにも。
彼と出会ってからかれこれ10年になります。その間、平和について多くのことを学び、戦争について数々の史実に触れました。
かつて戦場であった場所に立つと、戦争の無益さをつくづく感じます。
僕のこの経験、平和への願いを一人でも多くの人たちに伝えようと、ただただキーを打ち続けました。
もちろん研究論文でもなければ専門家の書でもありませんから、その知識や分析力はそれらに及ぶべくもありませんが、感じたことを感じたまま、そしてあの時代を生きた方々から託された言葉をそのままに記してきました。
もしこの書を読んでいただいて、何かを感じていただいたのなら、それをまた次の世代へ渡していただければと思います。
僕は、命ある限りこれを伝えていきます。