第五章 市ヶ谷(3)
【 十三号扉 】④
W.J.シーボルト「日本占領外交の回想」
A級戦犯死刑執行の場面が描写されている
A級戦犯7人に刑の日時が言い渡されたのは1948年12月21日夜。
7人が四組に分かれて宣告されました。
執行予定は12月23日午前零時1分。
花山師は翌日午前から7人に一人ずつ面会、そして午後7時から11時30分までまた一人ずつ面会。
このときは東條の一時間が最長でした。刑の執行は二組に分かれて行われました。
最初の組が東條、松井石根、武藤章、土肥原賢二、
二組目が木村兵太郎、板垣征四郎、広田弘毅。
ともに刑場に向かう前、署名のあと花山師に水と葡萄酒を飲ませてもらい、ビスケットを口にし、万歳をして経を唱えながら一三号扉に向かったわけです。
花山師が死刑台の足場がが外れる「ガタン」という音を聞いたのはそれぞれ零時1分、零時20分とされています。
一三号扉の内側で執行に立ち会った連合国対日理事会議長のシーボルトはこの時の様子を克明に描いています。(ウイリアム・シーボルト「日本占領外交の回想」朝日新聞社、1966年 149−150頁)
扉が開いて、われわれは明るい部屋に入った。壁にそって、低く狭い高座へとつれて行かれた。
われわれの向かい側には、長い木製の段が設けられており、その上に五本の綱がたれ下がり、その末端は環の形になっていた。綱は固く、動く様子もなかった。
それぞれ1から5まで番号がついていた。
壇には、13の階段がついていた。
これは明らかに伝統的な階段の数だった。
(中略)
深夜の12時2、3分ごろ、4人の戦争犯罪人が、死刑執行室に入ってきた。
それぞれ2人の米兵が両側に付添っていた。
将校が一人先導した。
戦犯は、土肥原、松井、東條、武藤の順で入ってきた。
(中略)
彼らは、階段を登って壇の上にあがった。それから四つの落とし戸の上に、歩を進めた。
彼らはそこに立って、重い沈黙のうちに、われわれと向かい合った。
もう一度、氏名の確認が行われた。黒い頭巾が、彼らの頭にかぶせられた。
綱と環をたしかめると、死刑執行官が、戦犯の死刑執行の準備が完了した旨を報告した。
ただ一言鳴りひびいた。
「始め!」
直ちに四つの落とし戸が、ライフルの一斉射撃のような音をたてて、同時にはね反った。
後の組の三名も同様、これが死刑執行の一部始終。
「スガモ尋問調書」(山田寛訳 日暮吉延監修 読売新聞社 1995年)を書いたジョン・G・ルースも同様に描写しています。