第五章 市ヶ谷(1)
【 殉国七士廟 】①
西尾市・三ヶ根山 殉国七士廟
何が生死を分けるのかはわかりません。
偶然だったのか、運命だったのか、それは神様ですらわからなかったんではないでしょうか。
ただ一つだけ言えることがあるとすれば、生き残った特攻兵には大きな心の傷が残り、そして戦争の悲惨さを伝えていくという重荷が背負わされた、ということでしょう。
死んだ仲間への想い、生き残ったという自責の念、戦争の悲惨さ、平和の大切さ…
手記を残された方だけでなく、あの時代を生きた旧軍兵士は、少なからずこれらの言葉を語ります。
前出の土田昭二さんは「特攻日誌」でこんなエピソードを残しています。
戦後、当時の隊員(第三〇三振武隊)が集まった際、整備にあたった当時の曹長は
「自分が特攻機を一機修理して飛行を可能にすることは、結果的には一人の特攻隊員を死に追いやることになる」
と心中深く悩み続けました。
その結果、あの夜東山隊長に向かって、
「自分はなんとしてでも全機飛べるようにします。
その代わりに自分が整備したことによって、死を余儀なくされる特攻隊員の方々と一緒に、突入してお詫びしますと申し上げました。」
と…。
戦争は、多くの傷を残します。戦った兵士にも、国民にも。
ではあの戦争に勝っていればよかったのか?
いや、仮にそうだったとしても、今よりも良い時代になっていたとは限らないし、何よりも、亡くなった方々は還ってこない。
当然、それは誰のせいだったのか、誰のせいで死ななくてはいけなかったのか、という話になります。
その国民の憎悪の念を一身に受けたのが東條ですね...