沖縄(8)
シムクガマには村民約1,000人が避難した。
4月1日に上陸した米軍はその日のうちにこの場所に迫ってきたけれど、避難者の中にいたハワイ帰りの二人の説得で全員が助かったとされる。
入り口には説得にあたった二人を讃える記念碑が置かれている。その先に進むことはできたけれど… すでに入り口にたどり着くまでの雰囲気に腰が引けてたし、暗闇の中を進む勇気はなかった。ハブも出るしね。
チビチリガマへ向かう道...
チビチリガマで悲劇が起きたのは翌2日。
こちらに避難していたのは140人、うち83人が集団自決をした。
楽な死に方ではない。布団を燃やして窒息した人、たまたま看護師が持っていた薬物の注射で命を断った人、そして親子で首を絞めあった人…
詳しい証言は読谷村のホームページからたどれるので詳しくは書かないけれど、ガマの前に彫られた犠牲者の中には、幼児の名前も多く見られる。
石板に刻まれた犠牲者の名前と年齢...
死のうと言った人も、手をかけた人も、そしてそれによって命を落とした人も、みな同じ集落の住民。長い間の確執が原因で真実がなかなか掴めなかったと聞いた。
同じ地区の住民が避難したこの二つのガマの事件はよく比較され語られる。
ときには指導力の差であると分析されるし、またときには住民のコミュニケーションの差であったと分析される。でも真相はそれだけではない。そこに軍人がいたかどうかの差はとても大きかったと思う。
チビチリガマの前に建つ「チビチリガマから世界へ平和の祈りを」碑にはこう記されている
「集団自決」とは、「国家のために命を捧げよ」「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ。」といった皇民化教育、軍国主義教育による強制された死のことである。
僕は沖縄でこの「皇民化教育、軍国主義教育による強制」というフレーズを何箇所かで見かけた。
体験記や戦跡の説明でも何度も使われている。
ネト○ヨたちはこれを「反日」と罵るけれど、戦場を経験した沖縄だからこそ説得力を持つ言葉だと僕は思う。
人の死そのものに貴賤優劣はないけれど、あの極限の恐怖の中でその方法を選ばざるを得なかった犠牲者のことを、少しは知ってもらいたいと思う...