智伊神社は出雲口伝を読んでいるときに、西出雲王家の邸跡に建てられたという記述があり、場所を見ると、次の須佐神社に行く途中にあるので、これなら寄ってみようということで、出掛けました。ただ、古代からの長い時間のなかで遷座されてるみたいですね。元は多聞院というところの横にあったそうです。というか、このお寺がそもそも神宮寺だったのに神社が引っ越したので、今の形になったみたい。
とはいえ、そんなにメジャーな神社ではないかもしれませんが、単なる村の、地域の神社というような御神気ではなかったです。私が少し気になったのは摂社の式内社、比布智神社です。といっても、御神気というか、御神威で気になるというより、他の摂社に比べて、やはり扱いが別という感じなのが気になったんですね。要するに、なぜこの村の神社でそういう特別扱いをしているのか、ということです。
私のご神事には関係ないんですが、個人的な好事家的な関心から調べてみました。実はこの近隣に独立した比布智神社があること、そして、山奥の芦谷の瀧というところが旧鎮座地になっています。由緒書によると、17世紀に今のところにご遷座されて、その前は保知石にあったらしいです。そうすると、実は今の智伊神社があった場所に江戸時代初期(1632年)まで比布智神社があって、智伊神社が遷座される100年近く前に先に遷座していると考えるのが自然じゃないかと思うのです。智伊神社の旧神宮寺多聞院が現在の名前に改称しているのが1724年なので、おそらくその少し前のことでしょう。今の智伊神社のある場所が知井宮と呼ばれていて、保知石はその南に接しています。「知井宮」という地名が智伊神社がやってくる前からあったとは考えにくいので、それこそ往時は「保知石」の一部だったのではないかと思います。これは古地図とか古文書を調べれば、きっと分かると思います。と思ったら、ここにほぼ同じことが書いてありました。要は、地域の人が比布智神社を大事に思っていたので、元宮を境内社として祀ったのでしょう。実は、長々、書いてきたけど、別に論文でもなんでもないので、細かい点は間違っていてもあっていても、どちらでも良いんです(笑)。地域の人は比布智神社が大事だったんだな、というのが私の中で確認できたので。そこは間違ってないでしょう。ただ、福知寺(真幸薬師)が神宮寺ではなく、智伊神社の神宮寺としては多聞院が重要だということは今回、調べて初めて分かりました。福知寺には比布智神社関係の資料も残されているかもしれませんね。
長々と書いたんですが、個人的に強力だなあと思ったのは、大城稲荷神社でした。地主神という感じかな。
これがその比布智神社です!この手前に式内社と書いてあります。
大城稲荷神社。ここの神様が強力で、御神酒をご所望でした。
智伊神社を後にして、一路、須佐神社を目指します。一応、行くかということで、寄ってみました。なお、今、本殿が工事中で、主祭神の素戔嗚尊は天照社にいるということでした。たしかに、ここは重厚なエネルギーが充満していましたし、それは素戔嗚のエネルギーだろうなと思いました。
神社のホームページのご由緒を見ると、稲田比売の両親である足摩槌命・手摩槌命にこの土地を任せたということは、義実家に預けたということだから、その系譜が今なお須佐国造家としてつながっているのはたしかにすごいんですが、それにしても別にここが江戸時代の国学者のように素戔嗚尊の本社だとか主張しなくてもよくない?と思ってしまうわけです。というのは、次のエントリで書きますが、素戔嗚の伝説が残っている地域は、それぞれ別の時期に該当しているので、お互いが矛盾なく、素戔嗚の縁のある土地だと思うんですよね。
美保神社と一緒ですね。意外と参拝者が多かったです。
工事中の本殿
有名な大杉
稲荷神社
拝殿
塩井(日御碕と繋がっていて、塩分が含まれているそうです)















