今回の出雲巡礼の旅にはいくつかの伏線があったんですが、その一つがこの須我神社でした。教え子がここの神社、特に奥宮の磐座をすごく推していて、いつか行ってくださいと1年半くらい言われていたんです。この夏も行くよと私が言っていたので、その意味で約束を果たせたなと思っています。
「日本初之宮」というのは、何をもってというところがあるのですが、つまり神籬や磐座をもってすると、出雲王国よりも古い起源をもつ超古代のものはいくつもあるでしょう。ただ、狭い出雲王国ということに限定すると、現代の日本につながる国としては一番説得力があるので、この出雲で初之宮であれば、大神神社とかよりも古い可能性はあるかもしれませんね。
須我神社、地域の人で運営しているとは聞いていたのですが、とにかくすごいなと思ったのが授与所です。ここのラインナップは素晴らしかった。小さい村の神社のレベルではなかったです。正直、全部の神社で丁寧に見たわけではないのですが、大きい神社やお寺でもそこまで魅力的なものを置いているところは少ないです。でも、須我神社はすごかったですね。ホームページでは悪切りの「御霊剣(ごほうけん)」だけが紹介されているのですが、これ以外にもブレスレットとか、三氣のお守りとか、ちょっとした地域のお土産の食べ物とかもあり、お茶も用意されてました。「御霊剣(ごほうけん)」と三氣のお守りは秘法でご祈祷されているんですよね。あと、個人的には神社本庁のものなんですが、簡単な神拝詞が置いてあるのもポイント高いです(大きいところは独自のものが合ったりするんですが、なかなか置いてないです)。
海潮神社
神籬っぽい荒神社
須我神社の隣には元の別当院であった普賢院がありました。このような形で神社の近くで生き残っているというのはすごいな、と思ったら、境内に雲照和上墓碑がありました。今、調べてみると、明治日本を代表する三人のうちの一人とか、そういうレベルのお坊さんで真言宗の中でも、そして明治仏教界にも多大なる貢献した人で、そんな人が住職をしてたら、さすがに守れるよね、と驚きました。そして、この雲照和上が最初に得度した寺こそ一つ前のエントリで出てきた、智伊神社の元神宮寺、多聞院だったのです。びっくり!雲照和上のことはよく知らなかったのですが、本堂に般若心経が貼ってあるので、般若心経を唱えました。
ここから下の写真は普賢院境内。
ガラス越しに見える白い紙が般若心経。そして、お賽銭箱の下にも筆で描いた般若心経がありました。ご真言を書いてあるお寺はよくありますが、ここまで般若心経を推すのも珍しいですね。
そして、奥宮に向かいました。奥宮までの山道が細い。。。でも、停めるところはわりとあります。そして、写真を撮り忘れてたんですが、禊をする場所があって、湧水のご神水をいただけます。奥宮の磐座、というか、もうとにかく背後の八雲山全体が御神域なので、エネルギーが半端ないですね。このことは次の熊野大社でも触れましょう。
須我神社奥宮へ
須我神社奥宮
こちらの手前はハイキングコースっぽくなってますね。
杖がありがたい。
須我神社奥宮からメチャクチャ草に覆われている山道を通って、熊野大社へ。出雲一之宮と言われていますが、とにかくすごいエネルギーでした。私は八雲山の方からすごい力を感じましたが、もともとは川の対岸の方の熊野山に磐座があり、元宮、明治まであった上社があって、そちらが素戔嗚が降臨したところと伝えられています。今の大社は下社と言われていたそうです。
熊野大社は、授与所で『熊野の大神たち』や『熊野大社誌』という小さい冊子を1000円で売っています(内容的には1500円くらいが妥当かなと余計なお世話ながら思いました)。二冊とも帰って来て読んだのですが、学者の先生が丁寧に分かりやすく書いていて、良い読み物でした。こういうのをちゃんと作るのは神社の活動として本当に立派だと思います。年表も明治以降詳しくて、そこも個人的には好印象でした。ただ、戦国時代に焼けたり、洪水で古い資料がないんですよね。
上社、下社というのは、大阪の石切さんもそうですし、一つ前のエントリの比布智神社の山中の旧鎮座地と現鎮座地(ないし江戸の遷座前の地)もそうですが、山だけだと不便なので、里にも社を作るというのは珍しくありません。だから、熊野大社もそうなのかなと思っていました。でも、実際に行った印象だと、熊野大社上社は熊野山を、下社は八雲山を遥拝していたのではないかと感じました。
二冊の本の中にも上社からの伝統が書いてあって、下社は鎌倉時代くらいにできるので、割と新しいから、そこは分かるんです。出雲口伝では、熊野山の頂上の磐座は富家(東王家)の「埋め墓」であったと書かれています。今回はとてもじゃないけど、登る時間がないので、熊野山はスルーしました。ただ、そのもっと遡ったところでは、もともと天孫降臨の地であったというのは本当かもしれないなという気がしています。八雲山の方は、素戔嗚尊と稲田比売の暮らしたところであったのでしょう。そう考えると、須佐大社のあるところは治めた場所で、特に義実家が管理していたと考えると、そんなに不思議ではないです。あとは最後を迎えた後に行ったのが日御碕の隠ヶ丘と考えると、全部、矛盾はしません。出雲大社の後ろの八雲山だけは今回はまだちゃんと向き合えていません。

































