津軽に行く 番外編 考察 | トトブログ 巡礼記

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時空を超えた自分との出会い

今回、津軽の歴史を調べると、いろいろなことを感じましたが、宿題も残りました。私がWebで調べた限りで、気になった出来事を整理しておきます。


このエントリは以下の後書きです。



 

1) 敏達天皇の御代(572-585)に山津波が起こり、その被害をこの神社の霊験で止められたため、ここは不浪寄八幡宮と呼ばれるようになった。少なくとも、この時代より前に祠は祀られていた(平川市: 不浪寄八幡宮)。

2) 610年に聖徳太子の命により阿闍羅山に伽藍が整えられる(国上寺縁起

 →伽藍があったかどうかは伝説になっている。

3) 741年に聖武天皇の国分寺政策で、阿闍羅山に大安国寺が建立される(大圓寺縁起)。

4) 延暦年間(782-803)に坂上田村麻呂が阿闍羅山に本陣を置き、岩木山まで峰伝いに阿闍羅千坊を建てた。本尊を祀る補陀洛寺(興国寺)を建立。本尊は大日尊、左右は不動尊と観世音。(久渡寺縁起

5) 796年に巌鬼山神社を下居宮として鎮座。807年に坂上田村麻呂が観世音菩薩を勧請、巌鬼山西方寺観音院。(巌鬼山神社)岩木山山頂の社は780年、坂上田村麻呂が800年に再建(岩木山神社Wiki)。

※ 青森県神社庁のリンクは切れていて探せないので、こういうサルベージは助かります。

 

6) 1091年、巌鬼山神社が岩木山神社の場所に百澤寺として移転。

7) 1191年、阿闍羅山千坊が荒廃していたのを嘆いた唐から来た円智上人が大日尊を神岡山高伯寺(現在の大圓寺よりも北東の場所)、観音尊を久渡寺、不動尊を国上寺に遷した(久渡寺縁起大圓寺縁起もこの年は共通しています)。

8) 国上寺縁起では、移転は1258年、北条時頼によって移転させられ、鎌倉将軍家の祈願所として庇護した。

 →この時点の国上寺の移転は高伯寺の移転のように阿闍羅山を下りてから行われたのではないかという気がします。

 

私の今回の旅は、明らかに「岩木山」と「阿闍羅山」をめぐる神仏に縁をいただいたものでした。でも、阿闍羅千坊という形で繋がっていたのかもしれませんね。その阿闍羅山千坊は9世紀初頭から12世紀までの間に荒廃しています。この荒廃の原因ですが、最初、坂上田村麻呂が結果的にアルテイとその一族を裏切ることになったためかと思いましたが、安倍氏が滅亡した前九年合戦(奥州十二年合戦、1051-1062)の結果かもしれません。

 

私は阿闍羅山に祀られたのは少なくとも当初は大日如来ではなかったと思います。おそらく、聖徳太子にせよ、坂上田村麻呂にせよ、最澄や空海以前なので、阿弥陀如来であったと考えるのが自然ではないかと思います。では、なぜこの阿弥陀如来が大日如来と呼ばれるようになったのか、ということですが、これは一応、謎とされています。ただし、阿闍羅山からこの阿弥陀如来が降りて来た平安時代後期から鎌倉時代にかけては浄土信仰が興隆した時期であり、この論文によると、大日如来=阿弥陀如来という説は天台宗から始まったとされています。そうであるならば、都の天台宗や真言宗のように新しいタイプの阿弥陀如来像を作るには至らなくても(そもそも荒廃したものを再建するんだからそんな余裕はないでしょう)、阿闍羅山から高伯寺に遷してきた円智上人が阿弥陀如来を大日如来と見立てて、教えを広げたとしても不思議ではありません。今のように昔の人たちはいくつもお寺の仏像を見比べられるというようなことはなかったでしょうから、昔から大日様と教えられたら、大日様と素直に信じたことでしょう。ただ、それはあくまでも騙しているということではなく、大日如来=阿弥陀如来という信仰上の考え方に基づいているわけです。ちなみに、大日如来=阿弥陀如来は真言宗のなかにも継承されています。

 

次に津軽地方の宗教を考える際に重要になってくるのは、津軽藩の初代・為信と二代目・信枚による統治と明治初年の宗教再編です。為信が真言宗を広め、信枚は天海上人と近い関係にありながら、為信の方針を継承し、かなり物質的にも支援します。弘前の神社仏閣の古いものにはこの時期に作られたものも結構あるような気がします。また、津軽真言五山のすべてが智山派であった点も気になります。智山派は智積院を本山にするんですが、豊国神社や新日吉神社があるあたりは秀吉公から家康公に権力が移行する過程で再編され、智積院はそのタイミングで復興します。智積院は根来寺の塔頭、つまり、豊臣にとっては紀州攻めのときの最大の敵だったから、その時代は冷遇されていました。家康のブレインでもあり、信枚も親しくしていた天海上人の影響もあり、智山派を強化したのかもしれません。

 

これが明治になると、大きく変化していきます。

 

明治以降の変化で重要なのは、

1) 津軽真言五山の再編

1.1) 最勝院の場所は大圓寺の場所に移動。大圓寺が高伯寺に玉突き移転、寺号は大圓寺を継承。

1.2) 百澤寺は廃寺、積極的に岩木山神社への移行を推進します。

1.3) 橋案寺・久渡寺・国上寺はそのまま継続。

2) 百澤寺の再編

・岩木山神社は内務省→神社本庁の中核的な神社(国幣小社)へ(岩木山神社Wiki

・葬祭関係は新しく作った奥冨士出雲神社で継承。そして、百澤寺の住職だった多田家はこちらを継承(奥富士出雲神社 ・ 稲荷神社 ・ 白雲神社 (岩木山神社 / 弘前市百沢))。

・法灯として残ったのは求聞寺(第九番札所 岩木山 求聞寺)。

・明治期に湯殿山の井上弘運海が阿闍羅山に登り、山田聖観ともう一人を伴って再び登り、お堂で修行。弘運海が阿闍羅山に観音を再び祀るように夢告を受ける。山田は最勝院住職の弟子で、百澤寺の本尊の観音やその他の仏も譲り受け観音堂を建立し、地元の声を受けて百澤寺を再興しようとするが、明治政府から許可が出ず、盛岡市にあった専称院の寺号を遷し、辛うじて寺院になり、現在に至る。専称院は現在も阿闍羅山信仰の中心になっている(阿闍羅山のお山参詣=222)。

 

と、いろいろ複雑な経路を辿っていますが、結果的には、これはこれでよい形になっているのではないかとも思います。その理由は想像だけで書くのも良くないので、一番良い形で信仰が継承されている気がするとだけ書いておきます。


当初は有史以前の出雲との関係を知る旅になるのかなと思ったら、ガッツリ、まずは普通の日本史的な歴史を押さえることになりました。この背景には出雲との歴史があるとは思いますが、今回はここまでということにします。

 

次回は専称院、巌鬼山神社、最勝院、それから三内丸山遺跡に行きたいですね。山に登らなければ行けそうな気もします。とはいえ、実は今回の巡礼を最初に企画したときに、2日にして、恐山と十和田湖にも行くことも考えていたんですが、日程的に難しくてやめました。でも、専称院の方が阿闍羅山に十和田龍神を祀ってることを知ると、それも気になりますね。