前日の素戔雄神社で知った飛鳥大神が気になりすぎて、明日香村に行くことにしました。といっても、もともと橘寺、飛鳥寺辺りは行ってみたいと思っていて、以前、調べていたこともあったので、それならばということで、改めて調べました。
結果的にどうなったかというと、飛鳥駅→天武天皇・持統天皇 檜隈大内陵→橘寺→元川原寺→板蓋神社→高市御縣坐鴨事代主神社→岡寺(開山堂、本堂、鎮守稲荷、奥之院、大師堂)→治田神社→岡本寺(道場、本堂)→飛鳥宮跡→飛鳥寺→飛鳥坐神社(祓戸神社、本社、白髭神社、八十萬神社、中の社、奥の社)→難波池・難波池神社→甘樫坐神社→向原寺→和田の地蔵堂→橿原神宮前駅を歩きました。
最初の目的地は実は橘寺だったのですが、当初は岡寺駅から歩こうと思っていたのですが、直前に持統天皇陵があることに気が付き、それなら、岡寺からの道は特に寄るべきところも感じなかったので、こちらに変更しました。
持統天皇は、天智・天武が作り出した古代律令制度の完成者です。そして、その中で伊勢神宮の斎王制度を作ることによって、かえって巫女(女性)が神託を下ろして、政を行っていくというシステムを裏に位置づけてしまいました。今、感じるままに書いていますが、おそらく飛鳥時代には、それ以前、古代朝鮮王朝の末裔、神功皇后の三韓征伐以降、安定していた任那からの朝貢体制が崩れ、大陸との緊張関係に応じて、西日本を統一させていった時代であったと思います。それより少し前の時代に倭国大乱があって、卑弥呼(姫巫女)が治めたと言われているのですが、私の感覚だと、一代は落ち着いたとしても、社会の構造的にはもう巫女が神託で治めるという時代は過ぎ去っていったのだと思います。そういう意味で必然であったと思います。そのような中で、どうやって巫女を制度として、継承させるか、ということに持統天皇は力を尽くされたのでしょう。
橘寺は聖徳太子生誕の地と呼ばれているところです。
橘寺は本殿の聖徳太子像と、観音堂の如意観音像がとてもよかったです。如意輪観音像の方はなぜかそちらに人がいらっしゃらず、一人でゆっくりお詣りできました。阿弥陀堂もよいです。なんというか、橘寺は心落ち着かせることが出来るところなので、本当はゆっくりボーっと一日、ここで過ごしても良いかなと思うような場所でした。
川原寺跡地に立つ弘福寺。
川原寺跡地から望む橘寺。
実は橘寺から降り立つときに遠くの山というか、森が気になっていましたが、この日は歩くし、まあいいかと、元川原寺を出たあと、いったんは岡寺方面に歩き出しました。ところが、途中の看板で板蓋宮という都があったことを知り、あ、これは板蓋神社は鎮守社だなと気が付き(後で飛鳥宮跡を歩いたときに確信しました)、これは行ってこいということだなと覚悟を決めて、戻りました。
板蓋神社。この日の天気もあるからもしれませんが、やや暗いところでした。それでも、身滌大祓を唱えると、少しエネルギーは軽くなりました。忘れられた聖地です。というか、平城京以前というのは、天皇の引っ越し=都の移動という感じなので、そりゃ我々の引っ越しとは違うんでしょうけれども、とにかく移転しまくりなんです。その結果、現代の我々にとってどうなるかというと、よほど古代史に関心をもって勉強していない人以外はよく分からん、ということになるんですよね。飛鳥の中でも引っ越ししているので、いくつかの宮跡があるという感じです。そうなると、こういう言い方がいいかどうか分かりませんが、マイナーな宮跡は忘れられていってしまう、ということです。ひょっとすると、方角的には、飛鳥坐神社と両端で都を守護していたような神社であったかもしれません。
元川原寺の横にポツンとある神社。私は板蓋神社に戻るタイミングでこの前でたばこを吸っている男性がいて、気が付きました。ここでも身滌大祓を唱えました。小さい社だけど、意外と重要そうです。
Googleマップで気になったので寄ってみましたが、村の小さなお社でした。事代主つながりで、お参りと身滌大祓だけ唱えてきました。
岡寺は、日本最大の塑像(土で作った仏像)の如意輪観音を祀っていることで有名なようです(撮影禁止なので、岡寺のホームページなどをご覧ください)。1月4日だったので、さすがに初詣のお正月の雰囲気がありました(ただ、飛鳥全体はほとんど初詣という雰囲気を感じさせず、のんびりしてました。あとでどなたかに聞くと、昨日(つまり三が日)までは結構初詣客が来ていたとのこと)。
ご本尊のところは混んでいたこともありますが、私は奥之院のところの鎮守稲荷社と石窟が落ち着いてよかったです。そして、私がお参りしているときは人が来ずに、ゆったりお参りできました。
奥之院の弥勒菩薩。
岡寺を後にして、正面の治田神社に行きました。実はここはGoogleマップ上でも気になり、岡寺の参道のところから参道(階段)も見えていたのですが、ここを上がったら、この日は体力的にきつそうと思ってスルーしたら、岡寺からは平地で歩いて行けたのです。でも、それも意味があったかもしれません。
岡寺はどうやら元は治田神社のあったところにあって、どこかのタイミングで今の場所に移動したようなのです。これは考古学的に発掘されて明らかになっています。そのため鎮守社であったのではという推測もあります。もともとは治田氏の祖神を祀っていたものが中世に大物主や応神天皇を祀ったらしい。現在は品陀別天皇(応神天皇)、素戔嗚尊、大物主神を祀っています。たしかに、素戔嗚・大国主系の力も感じました。
治田神社を岡寺の参道の方には下りず、そのまま、飛鳥坐神社に抜けようと反対側に行ったのですが、その降りたところに岡本寺の道場がありました。Googleマップで見たときには、新興宗教なのかなと思って敬遠しようと思ったのですが、なんかすごいパワーなので、立ち寄ってみました。これが大正解でした。岡本寺は今は平安時代から続くお堂が岡寺の参道沿いにありますが、そのお堂は狭いため、信者が集まるのが不可能なため、少し離れたところに土地を購めて、道場を立てたそうです。そして、江里康慧(仏師)・佐代子(截金=きりがねの重要無形文化財保持者)夫妻による弘法大師像、愛染明王像、不動明王像があります。この仏像であらためて、仏像は古いものだけが良いわけではないということを学びました(思い返すと藤次寺の地蔵菩薩でも同じことを思っていたのに忘れてました。この後、1月28日に藤次寺を再訪したときに思い出しました苦笑)。
本堂は空いていないのですが、ご挨拶をと思い、ルートを変えて、岡寺参道に戻ってきました。そのおかげで飛鳥宮跡も歩くことが出来ました。
飛鳥寺は飛鳥大仏(釈迦如来像)というもっとも古い大仏があるお寺です。もとは法興寺(ないし元興寺)といって、平城京が建てられて数年した後、奈良に元興寺は移転しましたが(聖徳太子の二歳像があります)、元の場所にも残っており、特に飛鳥大仏は移動していないとのことです。元興寺は五所の御霊神社からのつながりで奈良の御霊神社に行ったときに立ち寄りました。とても大事なお寺です。私は飛鳥寺が撮影してもよいということを知らなかったので、写真があまりありません。私は釈迦如来像よりもその隣の太子孝養像の方が印象に残りました(とはいえ、それでも姫路の斑鳩寺の孝養像が圧倒的です)。
飛鳥坐神社の本社に祀られる四柱の御祭神(八重事代主命、下照姫命、高照光姫命、建御名方命)をあわせて飛鳥大神と称することがあるらしいです。私にとっては事代主様のことでした。私が印象にもっとも残ったのは八十萬神社のあたりで、ここはかつて出雲大社のように、神々が集まった場所であると思います。そして、その議長役が事代主命だった。というか、出雲大社は8世紀に建てられているわけで、それ以前はここが集合場所だったのではないかと想像しました。古代には出雲と大和がどちらも重要であり、出雲王国が本体だったときには大和(飛鳥)に出張所が必要であり、大和が本体になったときには出雲に出張所が必要になった、そんなイメージかなと考えています。
私が大神神社の大行事社や美保神社で出会う事代主命は、穏やかで優しいイメージなのですが、ここでは巨大な男神というか、ボスという感じの雄大な感じのイメージでした。まあ、そりゃ人間でもオフとオンのときでは雰囲気が違いますわね。
丹生川上神社の旧本殿。
おんだ祭とも関係する男性器をかたどった陽石や女性器をかたどった陰石がたくさん境内にはあります。ここまでの数は他ではないかも。
八十萬神社。
八幡神社?
飛鳥坐神社を出て、豊浦宮跡を訪ねました。ここは物部氏が仏像を投げ入れたと言われる難波池です。その仏像が後に長野県に行って善光寺のもとになったという伝説もあります。ここの池は清涼でしたね。
そして、難波池の近くには、甘樫坐神社があります。ここで古代、盟神探湯(くがたち)をここで行ったという伝説が残っています。豊浦宮の鎮守社的な位置づけでしょうか?
橿原神宮前まで歩く途中で出会った地蔵堂。
中をのぞくと、仏像と十二神将があります。仏像は十二神将に守られているとするならば、薬師如来ということになるんですが、釈迦如来という感じもしました。この橿原和田バス停から北のところに和田廃寺があったのではないかとも言われていて、ひょっとしたら、この仏像だけがひそかにここに祀られ続けているとしたら、胸アツ過ぎます(検証せずにロマンにとどめておきましょう)。ただ、ちょっと普通の地蔵堂ではなかったですね。









































