寛容のパラドックス | 上下左右

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台湾の早期TPP加入を応援する会の代表。
他にも政治・経済について巷で見かける意見について、データとロジックに基づいて分析する・・・ことを中心に色々書き連ねています。

最近このような記事が出回るほど、不寛容なリベラル派が非常に目につくようになりました。

多様性を尊重し、寛容であるべきリベラル派が「日本人は寛容すぎる」と苦言を呈しているという、矛盾に満ちた主張ですね。

実はリベラル派においては非リベラル(ここでは不寛容の意味)に対して寛容であるべきか否かという論争は70年以上前から学説があり、代表的なものがフランスの哲学者であるカール・ポパーが1945年に『開かれた社会とその敵』第1巻において定義したこのパラドックスではないかと思います。

Wikipediaから引用すると
「寛容のパラドックス」についてはあまり知られていない。無制限の寛容は確実に寛容の消失を導く。もし我々が不寛容な人々に対しても無制限の寛容を広げるならば、もし我々に不寛容の脅威から寛容な社会を守る覚悟ができていなければ、寛容な人々は滅ぼされ、その寛容も彼らとともに滅ぼされる。――この定式において、私は例えば、不寛容な思想から来る発言を常に抑制すべきだ、などと言うことをほのめかしているわけではない。我々が理性的な議論でそれらに対抗できている限り、そして世論によってそれらをチェックすることが出来ている限りは、抑制することは確かに賢明ではないだろう。しかし、もし必要ならば、たとえ力によってでも、不寛容な人々を抑制する権利を我々は要求すべきだ。と言うのも、彼らは我々と同じ立場で理性的な議論を交わすつもりがなく、全ての議論を非難することから始めるということが容易に解るだろうからだ。彼らは理性的な議論を「欺瞞だ」として、自身の支持者が聞くことを禁止するかもしれないし、議論に鉄拳や拳銃で答えることを教えるかもしれない。ゆえに我々は主張しないといけない。寛容の名において、不寛容に寛容であらざる権利を。
とのことです。

結論だけ述べると、『理性的でない不寛容者(=排除主義者)を許容すると寛容な社会が損なわれてしまうので、場合によっては不寛容者を排除する必要がある』ということになります。
個人的にはこれもかなり傲慢な思想だと思いますが、近年はアメリカのBLM活動に代表されるように、寛容者の方こそ理性的でなく暴力によって社会を滅ぼそうとしていると言えるでしょう

あるいは上記の記事で筆者は「差別発言を拡散した当事者たちは、謝罪を拒絶し、発言を撤回or削除する構えも見せていないわけだ。」とDHCの社長を非難していますので、当然『この不寛容(差別)を許容してはならない』と考えていることになります。
ここで寛容のパラドックスに戻りますが、カール・ポパーは「我々が理性的な議論でそれらに対抗できている限り、そして世論によってそれらをチェックすることが出来ている限りは、抑制することは確かに賢明ではないだろう。」と、まずは理性的な議論の必要性を説き、その上で理性的でない相手は排除するべきだと主張しています。しかしこのコラムニストは発言の撤回・削除が当然であるとし、理性的な議論を放棄しています。

本来リベラル派が実行するべきは、カール・ポパーの傲慢な学説に依っても、『不寛容者の許容がいかに社会に悪影響を及ぼすか』を理性的に説くことであり、問答無用で『不寛容者は排除するべきだ』と声高に叫ぶことではありません。それこそカール・ポパーが「彼らは理性的な議論を「欺瞞だ」として、自身の支持者が聞くことを禁止するかもしれないし、議論に鉄拳や拳銃で答えることを教えるかもしれない。」とした不寛容者の有り様そのものと言えます。
上記の記事で筆者は『セレブに寛容すぎる』と苦言を呈していますが、社会が不寛容者に寛容になった原因は寛容者が理性的な議論を放棄したことに他なりません。

これはあくまで一例ですが、近年リベラル派は理性的な議論を放棄して『社会は寛容であるべき』というべき論に終止しているように思います。説得力=説得する力がないのだから当然受け入れられるわけがありません。
まずは理性的に不寛容者の許容がもたらす害を説くことから始めなければ、彼らの主張が支持を広げることはないでしょう。


今日はクリスマスイブに因んで寛容論を説いてみました。